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悪友

作者: 砂原翠

お前らは何でも性と愛に結びつけようとするけど、あたしにとってはこんなものただの体だ。

 あの夏、あたしたちは完全犯罪を成し遂げた。




 スカートに、せーえきかけられた。

 中間テストが返却され、夏休みへと向かう暑苦しい日だった。駅に着いた満員電車のドアが開き、津波みたいに人が動いてあたしはホームに押し出された。

 その場に呆然と突っ立っていたあたしは、後ろから歩いてくる人や電車に駆け込む人にぶつかって、前に後ろにとよろけた。一歩踏み出したローファーの先が土で汚れていて、ひどく惨めだった。


 こわごわとスカートのプリーツに手を掛け、後ろの生地を前に手繰り寄せる。濃紺のスカートにへばりつき、てらてらと光る、白濁した液体。蒸し暑いホームで、生臭い匂いが鼻腔に抜け、吐き気を催したあたしは胸を押さえた。


 最悪。

 制服を汚された。

 一方的に、無差別に性欲を擦り付けられた。そんな扱いをしてもいい存在だと思われた。声を上げたり抵抗したりしないだろうと舐められた。まるで、人格も尊厳もない肉塊として扱われたのだ。

 気持ち悪い。


 顔を見た。地下に入った車窓に映り込んだ、どこにでもいそうなおじさんの顔。中肉中背、顔が少し脂ぎっていて、目が異様に見開いて、異常な行為に興奮しているんだと思った。


 吐きそう。

 思わず口元を抑え込んだ時、肩をばしんと叩かれた。聞き慣れた声が耳に飛び込む。


「おっす、弓削」


 振り向くと、そこにはクラスの友達の男子が立っていた。


「三國……」


 あたしの唇から、ぼんやりとした言葉が滑り落ちる。


「三國……」


 あたしの顔面がそんなにひどかったのだろうか、彼は驚いたような、神妙そうな目でこちらを見ていた。そしてその視線があたしの下半身へと移っていく。私は自分の臀部を庇うように三國を突き放した。


「見んな」


 再び彼の顔を見たとき、三國は何かおぞましいものを見たような顔をしていたから、ああ、全部わかってしまったんだなと思った。


 三國は黙って自分のショルダーバックを漁り、薄手のカーディガンを取り出した。何も言わず、汚された部分を隠すようにそれをあたしの腰に巻く。

 そのまま彼は、あたしの手首を引いて多目的トイレの前に連れてきた。また彼は、ショルダーバッグの中をごそごそとする。


「俺のジャージ、着ろよ」


 あたしはやっと、小さく笑った。


「同じクラスじゃん。あたしも体操服あるよ」

「あ、おう、そうだな」


 安心したように、三國も微笑んだ。

 トイレの中であたしはジャージに着替え、そのあと制服と三國のカーディガン(ごめん)を駅のゴミ箱の燃えるゴミに突っ込んだ。


「ケーサツとか、行く?」


 遠慮がちな三國の問いに、あたしは静かに首を振った。もう何かぐったりと疲れて、何の気力も湧かなかった。しんどい。つらい。どうでもいい。

 無表情になったあたしの背中を、ばしっと三國が叩いた。


「さぼろーぜ、学校」


 元気付けようとしてくれてるんだなって分かったけど、元気なんてどこからも湧いてくるわけなくて、申し訳ない気分になる。


「どっか行く?」


 大きな瞳で伺うように顔を覗き込まれ、なんだか犬みたいだなあとちょっと面白い気持ちになった。


「……カラオケ」


 掠れた声で言うと、三國がにっと笑った。


「おっし」


 カラオケの狭い個室、防音の薄暗い部屋の安っぽいシートに、あたしは乱暴に腰掛けた。滅菌後マイクに被せられたビニールを乱雑に剥ぎ、電源も入れずにマイクに向かって叫ぶ。

 あたしは声が枯れるまで叫び続けた。三國は初めこそ少しは困惑していたけど、今は特に気にする様子もなく選曲の機器をいじっている。


 疲れ切ったあたしは、背凭れに上体を投げ出した。歌の配信情報のCMを延々と流す大画面ぼんやり眺めていると、どこからか涙が溢れてきた。

 さっきまでは感情の電源が切れたみたいだったのに、知らないうちに悲しみは足首を浸し、見る見るうちにあたしの全身を濡らしていた。


 赤ん坊みたいに大泣きした。涙や鼻水を垂れ流し、みっともない嗚咽を漏らしたって、三國は何も言わなかったし、こちらなど見えていないように振舞った。暗い部屋で、発光する液晶画面が視界で滲んで悔しいほど綺麗だった。


 涙も鼻水も枯れて呆然としているあたしに、三國はポケットティッシュを投げて寄越し、テーブルの上に食事やデザートのメニューを広げた。


「よし、俺が奢っちゃる! 好きなの選べ!」


 あたしは盛大に鼻をかみ、ごしごしを目元を擦って、上体を起こした。食欲なんてあるのかないのか分からない感覚だったけど、なんか唐突に「生きる気力」みたいなのが湧いてきて、目に付いたメニューを片っ端から読み上げた。


「唐揚げ!」

「おう!」

「ポテト!」

「おう!」

「パフェ!」

「おう!」

「アイス!」

「おう!」

「ガトーショコラ!」

「おう!」

「ミルフィーユ!」

「おう!」


 負けてたまるか、って思った。理不尽な暴力になんか、屈しないぞ、という気持ち。

 馬鹿にしやがって、っていう怒り。殺してやるって思いながら、届いた料理を片っ端から胃に押し込んだ。殺意ぐらい強い気持ちじゃないと、自分が死にたくなっちゃいそうだった。

 死にたい、って今思ってしまったら、簡単に死ねてしまいそうで怖かった。

 

 おなかがはちきれるほどに食べて、ガラガラに枯れた声でたくさん歌った。

 音痴で、声も割れてて、すごく耳障りだったと思うけど、三國は笑顔で盛り上げてくれた。

 持ち歌のレパートリーも尽きて、ぼんやりしてると、自然と言葉が口をついた。


「あたし、復讐する」


 三國が真顔であたしを凝視する。目を合わせるのが怖くて、ただ光る液晶を睨み付けた。

 やられたままでいたくない。損得の問題ではなく、尊厳の問題だった。


「俺も噛ませろよ」


 驚いて、三國を見てしまった。おちゃらけた男友達の、真剣な表情が目に映って、なんだか泣きそうになって俯いた。


「やだ」


 駄々っ子みたいに、潤んだ声で言った。


「三國は友達だもん」

「友達だからだろ」


 あたしは俯いたまま動けなかった。瞼を閉じる。自分のカーディガンが汚れるのも構わずに、あたしの腰に巻いてくれたその手つきを思い出す。あたしが容赦なくカーディガンごと制服をゴミ箱に突っ込んだ時、何も言わずにいてくれた三國。ここまで優しさを引き出しておいて、甘えておいて、あんたは部外者だなんて言えない。


「……一人でやるから、手伝わないでね」


 三國を共犯にしたくなかった。


「ああ、見てるだけでいい。約束する」


 だけど、傍観者ならいいのかって問われると分からなかった。分からないけど、見届けてもらえるってだけで結構な安心感になるんだなって思った。

 一人じゃなくてよかったって思った。



 夏休みに入って、あたしたちは毎日駅に通って、乗車客を見張った。


「暑。マヨネーズ腐りそう……」


 ホームのベンチに腰掛けて、あたしは額の汗を拭った。Tシャツの首元を掴み、風を送り込む。


「マヨネーズ?」


 怪訝な声で三國が尋ねる。あたしはリュックサックの中からマヨネーズのチューブを取り出した。透明な容器の八割ほどを、薄黄色の半固形ソースが満たしている。あたしは憎しみを込めて、チューブをぐっと握り締める。


「犯人をさ、人気のない路地に連れ込んで、マヨネーズのチューブでスマタして、顔にマヨネーズぶっかけてやるんだ」


 はっ、と三國が噴き出す。


「やべーな」

「やべーだろ」


 あたしは形の歪んだチューブをリュックサックの中に突っ込んだ。その上から押し潰すように、肘をついて上体を倒す。


「成功したらさ、二人で手ぇ繋いでめちゃくちゃに走ろ」


 三國を見上げて笑い掛ければ、彼もにっと笑い返す。


「この炎天下? いいじゃん、ポカリ用意しとくわ」


 彼の首筋に汗が光ってるのが見えた。少し日焼けした肌を雫が滑り落ち、Vネックの内側に吸い込まれていくのを見届け、あたしは何となくぎこちない気分になって、視線を逸らす。

 三國が躊躇いがちに言った。


「弓削はさ、俺が怖くないの?」


 あたしはちょっと考え込んで、わざと突き放すように言う。


「この世界には二種類の人間がいる」

「男と女?」

「違う。善人と悪人だよ」


 成功したら。あたしは瞼を閉じて願う。三國と手を繋いで、夏空の下を駆け抜ける。生ぬるい風を切って、汗を散らして、息を切らして、走って、走る。

 きっと爽快に違いない。嫌なこと全部忘れられるはずだ。この先も生きていけるはずだ。


 ホームに、電車到着のアナウンスが流れる。ほどなくして滑り込んできた電車のドアから、降りる人が流れ出す。まだ車内に残っている人の中に、見覚えのある顔を見た。

 動悸が早まる。胃酸が逆流して、喉の奥を焼いた。

 あいつだ。

 暗い車窓に映った、あの男。


「三國、あいつだ、追おう!」


 あたしは弾かれたように電車に駆け込んだ。三國も何とか滑り込む。

 車内は人でごった返し、人間の汗の臭いで蒸れている。うまく身動きが取れない。それでもあたしはあの男を探した。


 そいつは、ドア脇の手摺が設置してあるスペースに立っていた。あたしは全身の震えを押し殺しながら、三國の服の裾を引っ張った。二人で目を合わせ、無言で頷く。


 男が降りる駅まで追いかけて、そのままどっかで路地裏に引きずり込んでやる。あたしはマヨネーズと、鋏と、カッターナイフと、催涙スプレーの入ったリュックサックを両腕で抱き締めた。


「おい、あれ」


 三國が呆然と呟く声が聞こえた。あたしも彼の視線の先を追い、愕然とする。

 男は、内壁と自分の体の間に女の子を挟み込んで、押し潰すようにして立っていた。男の体が不自然に揺れている。挟み込まれた半袖のセーラー服姿の女の子が、男の体の陰で、震えているように見えた。


 頭をガツンと殴られたような痛みが走る。

 忘れたい記憶がフラッシュバックする。

 精液で光るプリーツスカート。電車内で下半身を押し付けられながら、臭い息を吹き掛けられながら、息を殺して駅に着くまで耐えた。怖くて声を上げられなかった。殺されるんじゃないかと思った。頭のおかしい人間に、体をめちゃくちゃにされて、殺されるんじゃないかと怖くてたまらなかった。


 頬を涙が伝った。


 人気のない路地に連れ込んで。マヨネーズをぶっかけてやる。同じ屈辱を味わわせて。ううん、到底同じなんて言えないけど、踏み躙ってやって。友達と手を繋いで。夏空の下を駆け抜ける。汗にまみれて、息を切らして、大笑いするんだ。


 あたしは人を掻き分けて男の元へと歩みより、その太い腕を掴んで人ごみの上に掲げた。


「痴漢です! あたし見ました!」


 男が何か言おうとした。覆いかぶせるように、三國が声を張り上げる。


「俺も見ました。この人痴漢です!」


 肩を竦め、縮こまっていた女の子の目から、涙が零れ落ちた。



 警察署からの帰り道、夕焼けが街を茜色に照らす中、三國と無言で歩いた。

 警報器がけたたましく鳴り響く踏切の前、轟音を立てて通り過ぎていく電車を見送った。生ぬるい風が顔面に吹き付ける。


 踏切が上がっても、あたしはその場から動けなかった。唇を噛み締め、声を殺して泣いた。

 三國があたしの肩を掴み、「がんばったな」と囁いた。頑張ってなんかなかった。ほんとうに、もっと、頑張れるはずだったのだ。


「あたし、強くなりたいよ」


 乱暴に目元を拭った。洟を啜ると、熱い吐息が口から洩れた。


「あの日のあたしを殺したい」


 濡れた声で呟けば、三國があたしの肩に回した手に力を込めた。


「弱くたっていいじゃん。俺は、弓削は弓削のままがいいよ」


 あたしは三國の腕を押しのけ、彼から距離をとった。そんなことを言えるのは、三國が男子だからだと思った。「被害者」になることの少ない性別だから、「加害者」に力で押し負けることの少ない性別だから、能天気に弱さを愛でられるのだ。

 あたしはガラガラの声で叫ぶ。


「……こんなもの!」


 八つ当たりだと分かっていながら、あたしは三國を睨み付けた。


「知ってる? この前捨てたあの制服、あんなにダサいのに、十万もしたんだよ?」


 興奮した双眸から涙が零れる。

 あたしはTシャツごと下に着ていたブラジャーを掴んだ。


「この下着、上下セットで五千円!」


 子どもみたいに地団太を踏んで叫ぶ。


「こんなもの、こんなもの!」


 髪を振り乱したあたしは、きっとすごい形相だったと思うけど、三國は優しい顔で歩み寄って、あたしがTシャツを掴み上げた手を包んだ。

 赤ちゃんの反射みたいに固く握り込まれた拳を、彼は温かい手で指の一本ずつ解いていく。激情の向ける先を失った体は弛緩して、あたしはだらりと両腕を垂れ下げた。


「……こんな体、脱ぎ捨てたいよ」


 両目をぐしゃぐしゃにして呟く。静かに三國が言った。


「じゃあ、俺が着るな」


 あたしはボロボロの顔を上げた。


「へ?」


 三國はなんてこともないように笑って言う。


「弓削が捨てた弓削の体、俺が着る。だから俺の体を弓削が着てよ」


 あたしは力なく笑った。


「いいね、それ。三國の体で女の子ひっかけまくりたい」


 人聞きの悪いこと言うなよ、なんて三國が笑って、あたしたちは普段通りみたいに笑い合った。


「交換しよ」


 そんなの、気休めでしかなかった。

 それでもあたし達は、無言で抱き合った。疲れた互いの体から、汗の臭いがした。生きているってこういうことだと思った。


 あたし達はその日、自分を殺し、相手の体で生きることにした。そう思うことで、砕け散りそうな心を繋ぎ止めた。

 二人で、完全犯罪を成し遂げたのだ。


「どうして三國はこんないいやつなの?」


 三國の胸に顔をうずめ、あたしは問い掛けた。軽快な声が頭上から降ってくる。


「決まってるじゃん。弓削がいいやつだからだよ」


 ふっと笑ってあたしは言った。


「違いない」


 楽しげな笑い声が重なった。踏切の音に掻き消されたって、あたし達は抱き合ったまま笑い続けた。


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