障害者の権利の勘違い
私は障害者が嫌いだ。
保険のような言い方になるが、全ての障害者が嫌いなわけではない。
その理由を述べていく。
まず一つに「生産性の少なさ」があると思う。障害の種類にもよるが健常者に比べて生産性が少ないことである。例えば障害者が働いていてそこに健常者を再配置するとする。その健常者が一般的な常識を持っていれば生産効率は上がる可能性が高いだろう。ここでよくこういう人がいる。「健常者でもメンタルが…」「能力が高いわけじゃ…」とあるが、そもそも大体の場合において障害者よりも健常者の方が能力は高い。そもそも能力が高かったら障害者ではない。障害というのは「生きるうえで邪魔になっている物」なのだから障害なのだ。もちろん全てがそういうわけではないが、ここでは大半の場合を指す。
いなくなれ、なんてことは言わない。ただ少ない方がいいに決まっている。だってそうだろう。障害者に「その障害を持っていてうれしいですか?」と聞いて首を縦に振る人が何人いるか。「できれば障害なんてない方がよかった」そう思う人は多いのではないか。
次にあげるのが最も大きい。
彼らは「障害者の権利を!」というが、身の程をわきまえたほうが良いということだ。
勘違いしてもらっては困るが、これは障害者に顕著というだけで、別にそれに限ったことではないことと、必ずしも下に見ているわけではないということだ。
よく考えてほしい。能力が低い人間が、低い人間に対する待遇をされても文句など言えないだろう。能力の高い人間が良い待遇をされているのも問題に感じないだろう。ただ、それを障害者だからという理由でさせてもらえない時がある。障害者であっても健常者であっても人間だ。同様の評価をすべきなのに、障害者に低い評価をつけると一部の人間が騒ぎ出すのだ。平等を求めているくせにちゃんちゃらおかしい話である。
そしてこういうのだ。「好きで障害になっているわけでもないし、そこも考慮に…」
何を言っているのか。私にはよくわからない。平等を求めてる癖に都合のいいところだけ主張していく。全く滑稽である。短距離走の選手を選抜する際に「私、生まれつき足が悪いからタイムが低くても考慮しろ」と言ってそれがまかり通ると思っているのだろうか。
そもそも健常者の多くは平等に評価しているのだ。脳の構造が違おうが、体の一部が欠損していようが、できていればよい評価、できていなければ低い評価をするのだ。
公共の場で叫んで騒音被害を出している健常者がいればさらし者になるのに、それが障害者だと「配慮」しなくてはならない。同じ人間なのだろう?同じ扱いをすべきだろう。
結局何が言いたいかというと「自分の都合のいい権利だけを主張する障害者」が気持ち悪くて仕方がないのだ。平等を求めてると口では言っているが、つまるところ優遇しろと言っているのに変わりはない。
障害のせいだろうが何だろうが、できなかったらその相応の扱いを受けるべきである。障害があっても良い功績を残している人たちだっているのだ。平等とはそういうことだろう。
障害者に限ったことではないが、生きている我々は自分の立場を弁えて権利を主張するべきだ。能力の高い低いがあるなら、それに応じた扱いを受けるべきである。そこにはもちろん私も含まれている。
このようなことを書くと「差別」という人がいるが、私が主張したいのは平等で絶対的な評価だ。障害云々など関係なく評価すべきだと述べているのだ。
障害者の権利ばかり主張していると、それこそ「健常者差別」になりかねないと思いませんか。




