月夜の丸木橋
月夜の丸木橋
黄金色の太陽が、松林から半分ほど顔をのぞかせて、正夫が歩いているS字型にくねった道を真赤に染め上げ、げらげらと笑っていた。
すると、背後から冷たい風がピューとひと吹きして、耳がひどく冷たくなるとともに、キーンという耳鳴りがすると、辺りが暗くなって、気が遠くなったように感じた。
目をパチパチと開いたり閉じたりしていると、突然、目の前に黒い影が現れたので、思わず尻餅をついてしまった。
「わあ、誰だ、お前」
「たん太だよ」
「たん太?そんなやつ、俺は知らないぞ」
「君が知らなくても、僕は君を知っているのさ」
それは体中にもじゃもじゃと茶色の毛が生えた獣だった。さかんに鼻をぺろぺろとなめている。そのためか鼻の頭は夕日を受けてピカピカに光っている。
「いったい、お前は何者だ」
正夫が問いかけると、獣は、大きな目玉をぐるぐると回しながら答えた。
「君たち人間は、僕らのことを、タヌキと呼んでいる。べつにそう呼ぶように頼んだ訳でもないのに。その上、僕らをタヌキ汁にして食おうとするひどいやつもいる。だから僕らは、人間に会う時は、とても用心しなければならないのだ。正夫、君はそんな野蛮なことをしてはいけないよ」
「了解した。とりあえず、お前をタヌキ汁にするのはやめておこう」
「へえ、それはお優しいことで」
「ところで、タヌキのお前が人間の俺に何の用事があるのだ?」
「あれ、何の用事だったかな。そうそう、実はね、今日は、タヌキ町、腹つづみ区、しっぽ番外地のお祭りなのだ。その祭に君を人間の代表として招待しようと思って、ここで待っていたのさ。どうだい一緒に来るかい?」
たん太が、せっかちに赤い舌をぺろぺろ出して、茶色い栗のように光る鼻をなめるので正夫は可笑しくって我慢しきれなくなり、クックッと笑った。
「何を笑うのだ、君、失礼じゃないか、来るのか来ないのか、どっちなのだ」
たん太は、目玉をさらに激しくぐるぐる回して、気色ばんだ。
「おっと、済まない。勿論、喜んで招待を受けるよ。この俺が人間代表だなんて、何だかこそばゆい気はするけれども光栄だね。それで、その場所はどこ?」
「ほら、向うに小さな川が流れているだろう。川に丸木橋が架けられているのが見えるかい。あの橋を渡ったところだよ」
たん太が指さす方角を見ると、そこにあるのは、正夫たちが、オタマジャクシやザリガニを取ったりしていつも遊んでいる五丁川という川であったが、あんな場所に橋があったという記憶は無い。いつの間にあんな変てこな橋が出来たのだろう。
「あれは五丁川じゃないのか?」
「そうだよ、五丁川さ」
「でも、五丁川の橋はもっと下流にあるはずだ。あの辺に橋なんて架かっていない」
「そうか、君は知らなかったのだね。あれは、月の明るい夜にだけ現れる丸木橋なのさ。ほら、ごらんよ、今夜は満月だよ」
「ん?」と言って空を仰ぐと、いつの間にか夜になっていて、銀色の丸い月が東の空高くぽっかりと浮かんでいた。
「さあ、丸木橋まで走るよ」
たん太の声には、友人を得たという喜びの響きがあった。
二つの影が月明かりの中をもつれるように走ると、遠くから祭太鼓のリズムが聞こえてきた。音は橋に近づくにつれて大きくなる。
「正夫、丸木橋は夜露に濡れて滑りやすくなっているから、気を付けて」
たん太に続いて橋を渡って見た風景は何時もの五丁川付近とは全く違っていた。そこは、月明かりで何もかもが銀色に浮かび上がって輝く別世界だった。
「ここは何処だ、こんなの知らないぞ」
正夫は驚きの声を上げた。
「そうさ、君は丸木橋を渡った時、異次元の世界に入ったのさ。ようこそ、タヌキ町、腹つづみ区、しっぽ番外地へおいでくださいました。歓迎するよ」
たん太が改まったようにお辞儀をした。その恰好が可笑しかったので、正夫はまたクックッと笑った。
何の祭りなのか見当も付かないが、兎に角、祭りは盛り上がっていた。
たき火を囲んで輪になって大勢のタヌキが精一杯膨らませた腹を調子良くポンポポンと叩くと周りから、やんやの拍手喝さいが巻き起こる。
「さあ、タヌキ踊りの始まりだ」
たん太がすっとんきょうな声を上げた。赤たすきをかけた雌タヌキたちがいっせいに踊り始めた。そこに、ねじり鉢巻きと青たすきの雄タヌキたちが次々とリズムを合わせながら踊りの輪に飛び込んで来る。
ピョンと飛び跳ねる雄タヌキ、頭をクルクルと回す雌タヌキ、雄と雌の息はぴったりと合って、その姿は清々しく調和して美しい。
祭の輪の外側では、若衆タヌキと熟年タヌキがポンポコ、トントンと腹つづみで音頭を取る。
その中にドンドドンと大太鼓のように一際大きく響く腹つづみがあった。
「すごいな、たん太、あの迫力」
「ああ、あれは、しっぽ番外地の長老、じんべえ爺さんの腹つづみだよ」
たき火の周りでタヌキはみな炎で顔を赤らめてにこやかに踊り、手拍子と口笛が鳴って祭が最高潮に達した時、突然、礫が飛んで来て、その一つがたん太の頭にぽかりと当たった。
「うっ」
呻き声を発してしゃがみ込んだたん太の頬を赤い血が伝い流れた。
「どうしたのだ」
「あいつらがやって来たのだ」
抱き起こそうとする正夫を見上げてたん太は顔を歪めた。
「あいつら?」
暗やみの中から礫がヒューと風を切って次々に飛んで来る。
しっぽ番外地のタヌキたちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出して、木陰に身を潜めた。
広場には、逃げ遅れて傷ついたタヌキが倒れて呻き声をあげている。
「やーい、しっぽ番外地ののろまタヌキども。踊り狂っているうちに、石の雨あられが降り出した。お前らみんな死んじまえ」
少し離れた闇の中からはやす声がした。
「僕らが楽しんでいると、決まってあいつらがやって来て邪魔をする」
「どうして君らの楽しみをあいつらは奪うのだ」
「毛並みも皮膚の色も同じタヌキなのに、どうして僕らを目の敵にするのかこちらがその訳を聞きたい。昔から僕らは彼らに虐げられてきた」
たん太の目から涙が溢れ出ている。
疼くのは額の傷よりも心に受ける傷なのだとその目は訴えていた。
「とっちめてやろうぜ、たん太」
こんなことがまかり通って良いはずがない。正夫の身体は怒りで震えた。
「よし、やろう」
たん太が正夫の目を覗き込むように見て大きく頷いた。
「待て、行くな。たん太、頼むから我慢してくれ」
じんべえ爺さんが、血相を変えて木陰から飛び出して二人の行く手を遮った。正夫とたん太はその手を振り払って脱兎のごとく駆けだした。
卑怯な悪タヌキどもをこのまま放置する訳にはいかない。理不尽な行為をすれば必ず相応の報いを受けることを思い知らさなければ我慢ならない。二人、いや一人と一匹はそれが当然の理であって正義の姿なのだと思うのだ。
「あっ、あいつは人間だ、人間が来るぞ」
闇の中でタヌキたちがざわめく声がした。
「タヌキ汁にされるぞ、逃げろ」
悪タヌキどもが我先に逃げて行く。正夫とたん太は彼らが投げ捨てていった拳ほどの石を拾い上げると逃げ惑う一団に向かって投げつけた。
石は放物線を描いて、ちょうど、一番後ろを走っていたタヌキの頭にこつんと当たった。
「悪党め、因果応報だ」
正夫は、頭を抱えて座り込んだタヌキを、蹴飛ばし、更に頭をポカポカと殴りつけた。
「こいつめ、痛さを思い知れ」
「わあ、やめて。悪かった勘弁して」
「いや、絶対に許さん。お前をひねりつぶして、タヌキ汁にして食ってやる」
「助けて。お父さん、お母さん」
目を白黒させてぶるぶると振るえているタヌキはおしっこを漏らしていた。
「正夫、もう良いだろう、許してあげよう」
正夫の腕を掴んでたん太が言った。振り払おうとしたが、たん太の力は思いのほか強かった。
「なぜ止める?こいつは祭りをめちゃくちゃにしたのだぞ」
「分かっているよ、正夫。でも、もう十分にお仕置きはしたよ」
こいつが憎くはないのか、たん太、そのなまじっかな優しさがこいつらを増長させるのだ。懲らしめると都合の悪いことでもあるのか、何を恐れているのだ。
正夫は納得できなかった。
「たん太、お前がそう言うのなら仕方がない」
横たわる悪タヌキを見下ろして忌々しそうに呟いた。
「帰ろうよ、正夫」
一人と一匹は黙って歩いた。何なのだ、この胸の奥に残る奇妙な違和感は。悪タヌキに相応の罰を与える当然の行為をなぜ躊躇する。俺の知らない何かの理由でもあるのか?正夫はたん太に問い質したかった。だが、どのような言葉をかけて良いのか思いつかなかった。小さな川の側まで来たとき、たん太が川の反対側を指さした。
「正夫、向うの村が見えるかい?」
「うん、どの家にも緑の庭があって良く整備された美しい村だね」
「ポンポン村だ。あの村には白いタヌキと黄色いタヌキと黒いタヌキがいてね」
「ほう、白いタヌキなんて見たこと無いや。そんなのがいるのかい?」
「いるさ。黄色いタヌキと黒いタヌキは白いタヌキと同じトイレに入れないのだ。それに、白いタヌキが泳いでいる川で泳ではいけないのだ。彼らが泳げるのは、下流の生活排水で濁っているところさ」
「なぜだ。そんなのおかしいじゃないか」
「おかしいだろう、でも、それがポンポン村の決まりなのだよ」
たん太は寂しそうに笑って空を見上げた。
きらめく星の群れが美しく輝いてさざめき笑っている。
しっぽ番外地のタヌキは、理不尽な仕打ちを受けても、じんべえ爺さんの行動に代表されるとおり、我慢して耐える。なぜ怒らない。
「ああ、さっきの悪タヌキと言い、白タヌキと言い、タヌキってなんて野蛮なのだ」
正夫は吐き捨てるように言い放ったあと、たん太がタヌキであることを思い出して肩をすくめた。
「人間には、そんなこと無いのかい」
静かに言うたん太の言葉がなぜか正夫の胸にぐさりと突き刺さった。
「あってたまるか」
正夫は拳を握り締めて叫んだ。一人と一匹はまた黙り込んだ。
しっぽ番外地に帰り着くと、タヌキたちが集まって騒いでいた。
それぞれが松明を掲げている。
集団の中ほどでじんべえ爺さんが口からツバキを飛ばしながらしゃべっている。
「何だろう、正夫、ここで少し待っていてよ」
たん太は顔色を変えて走って行った。
暫くすると松明をかざしたたん太が戻って来た。そして、正夫の顔を見て、すまなさそうに言った。
「正夫、お別れだ」
たん太は何時ものように鼻をぺろぺろとなめていた。
「急になんだ、俺に関係があるのだろう。水臭いぜ、訳を言えよ」
「君が殴ったあのタヌキ、実はタヌキ町の町長の息子だったのさ。頭に大きなこぶが十三個も出来ているんだって。町長は、タヌキ町では絶大な権力を持っていて誰も逆らえないのだ。その町長が怒って僕らをしっぽ番外地から追い出すんだとさ」
「どうしてだ、俺らは何にも悪くない、悪いのはあいつらじゃあないか」
「そうさ、僕らは悪くない。町長の息子をひどく殴ったことについては、言われてみれば暴力なのかもしれないが、先に石を投げたのはあいつらだ。だから、僕らの行為はいわば正当防衛だ。実を言うと、さっきは胸がすっとしたよ。今まで経験がないほど爽快な気分だった。それに、みんなは喝さいを送っても僕らの行為を咎めようなんてこれっぽっちも思ってはいない」
「だったらなぜ、逃げ出すのさ、おかしいじゃないか」
「仕方がないのだ、これがタヌキ町の現状なのだから」
「納得できないよ、理屈に合わないじゃないか、ええい、忌々しい」
「そうだ、この世は理不尽なことばかりだ。僕たち若者がそれを正さなければいけないことは十分に分かっている。だが、情けないが、今はここを立ち退く以外にトラブルの解決方法がないのさ。じゃあ正夫、元気でいるのだよ」
たん太は、それだけ言うと身を翻して、風のように走り去った。
「たん太の弱虫、どうしてみんなで戦わないのだ」
正夫は叫んだ。あの悪タヌキを懲らしめたからといって、どうしてお前らがしっぽ番外地を出て行かなければならないのだ。出て行くことを素直に受け入れるお前らにも大いに問題があるのではないか。なぜ戦わない、どうしてみんなして力を合わせて困難に立ち向かわないのだ。
正夫の眼から大粒の涙が滝のように溢れて止まらない。
「さようならー」
遠くで、たん太が松明を一度大きく振った。
しっぽ番外地のタヌキたちが去っていく。松明が揺れながら光の筋となって、山の麓を巡って裏側に消えて行った。
風が出て、足元の木の葉がさっと頭上に舞い上がると赤や黄色の蝶の群れになってぐるぐるとすごいスピードで周りを飛び交った。
心地良い眠りに襲われた正夫の意識は次第に薄れた。
気が付くとS字型の道に立っていた。そこは五丁川のすぐ脇であった。
川を渡れば、タヌキ町、腹つづみ区、しっぽ番外地があるはずだが、丸木橋はどこにも見当たらない。ただ、川面に移る丸い月が正夫を見て微笑んでいるだけであった。
俺は夢を見ていたのか、いや、夢にしては記憶が鮮明過ぎる。
そんなことを考えているとき、なぜか正夫の脳裏に幼い頃の記憶が懐かしく蘇ってきた。
あの丸木橋、どこかで見た覚えがあるぞ。そうだ、確か、じいさん山の登り口付近にあった橋ではないか?
じいさん山は正夫の住んでいる町から半日ほど歩いたところにある。頂上付近が禿げていて正夫の祖父の頭に似ていたので面白がって正夫が名付けた山で、正式な山の名は知らない。
父さんに連れられて山菜を取りに出かけたことがあるが、その登り口付近で渡ったあの丸木橋ではないのか。そういえば、橋の近くで迷子の子タヌキに出会ったな。最初は、捨てられた子犬か?と思ったが、父さんがその子を抱き上げて「タヌキだ、可愛いな」と言って俺に抱かせてくれた。子タヌキは震えていた。「怖がらなくても良いよ」と言って、母さんが作ってくれた海苔でくるんだおにぎりを食べさせて森へ放すと、跳ねるように駆けて行ったっけ。
大きなクスノキの下で立ち止まり、振り返ってこちらをじっと見ていた。まるで「いつまでも覚えておくよ」と言いたげだったあの時の仕草、可愛かった。ひょっとして、あの子タヌキ、たん太だったのかも知れない、そうだ、あいつに違いない。懐かしく蘇る記憶は正夫の思いを確信へと変えた。
次の日の朝、階下から聞こえて来る父さんと母さんのいつもの騒がしい声で目が覚めた。
「じゃあ、愛する母さん、行って来るぜ」
「馬鹿言っていないで、さっさと行きなさい。はい、お弁当」
「ああ、それから、正夫は疲れているだろうから、今日は学校を休ませて、ゆっくり寝させてやってくれ、頼んだよ」
玄関を出て朝の町を軽やかに走る父さんの靴音が遠ざかって行った。
母さんと向かい合って遅い朝食を済ませたとき、担任の教師が訪ねてきた。
「おはようございます、どうですか、正夫君は。出勤の途中にちょっと様子を見に寄ってみました」
「これは先生、わざわざ立ち寄っていただきましてありがとうございます。正夫は今日一日休みを取らせてもらいます。明日は学校に行かせますわ。ご心配おかけいたしました」
「そうですね、それが良いでしょう」
と言って教師は正夫を見た。
「もう、喧嘩はしないでね」
たしなめるように言う教師の言葉に正夫は釈然としないものを感じた。
「いじめるやつらが悪んだ、先生」
「でも、暴力は良くないわ」
「あいつらは弱くて抵抗できないものを選んでいじめる。クラスの連中はそれをただじっと見るだけだ。なぜだか分かるかい?いじめを止めようとすれば、その矛先が自分に向かって来ることを知っているからさ。どうせ学校に相談しても何の対策も打ってくれないだろ、だったら戦うしかないじゃないか」
「話し合えば良いんじゃない?」
「話して分かる連中かよ」
生徒の学力アップを図って高校へ入学させることが本来の仕事であって、子供たちの日常生活にまで気を配っていては身が持たない。それでなくても休日には地域の行事に駆り出されて心身の休まる暇がないのだ。真面目な教師が心の病で何人も入院している現実がある。その上、危機回避能力や生きる力を養う教育を行うなど教師の能力を遥かに超えている。無理を押し付けられても困る、と彼らが密に思っている気持ちも分からぬではない。
昨日の事だ、向う岸の子がいじめられていた。〈向う岸〉というのは、五丁川の下流にある集落のことで、正夫の住む地区とは川を挟んだ対岸にあるのでそのように呼ばれている。
それはもういじめと言う範囲を越えていた。数人で取り囲んで殴る蹴るという暴行が繰り返されるのだが、専ら学生服で覆われた部分に加えられるため、その痕跡は裸にならない限り分からない。いじめは学校のトイレや校舎の陰などで行われ、時には教室の中でも行われた。いじめの理由は多くの場合「気にくわない」という曖昧模糊としたものであって、単に気晴らしのために行われることもある。時として目を背けたくなるほど陰湿で執拗且つ過酷であるので周りの目撃者は恐怖で震えあがり、止めようとか学校に通報しようなどと試みる者はいない。それゆえ質の良くない病巣のように深く潜んで表面に現れにくい。
「我が校にはいじめはない」と学校が教育委員会に毎年報告する所以でもある。だが、誰かが勇気を持ってメスを振るう必要があるのは言うまでもない。
「やめろ」
正夫は我慢できなくなって叫んだ。いじめるやつには勿論、それを見ていながら知らぬ顔を決め込んでいるやつらにはもっと腹が立った。
覚悟はしていたことだが、声をかけた途端に矛先は正夫に向かった。彼らの攻撃に一歩も引かずに果敢に立ち向かったが、所詮は多勢に無勢、正夫の劣勢は誰の目にも明らかだった。始業のベルがなったとき、彼らは「これで終わったと思うな」と言う陳腐な捨てぜりふを残して去って行った。
だが、正夫の反撃は予期せぬものであったのだろう。彼らの表情が、一瞬ではあったが、恐れと不安で曇ったのを正夫は見逃さなかった。いつの間にか、いじめを受けていた当の本人はその姿を消していた。
「あいつめ」
だが、咎める気はさらさらない。蟻地獄に引きずり込まれるかのようないじめという恐怖から這い出そうと絶望的にもがき苦しんでいる者にとって、正夫の勇気ある行動は全くの想定外で、有難くはあったが同時に戸惑いでもあった。いじめをいつも受けている経験から、誰かが助けに入ることなど思いもつかないことだったのである。だから、隙を窺って逃げ出すことが精一杯で一緒に戦うという選択肢があるなど思いもつかないのは致し方ないことなのだ。
「大丈夫か?」
クラスの何人かが正夫に近寄って声をかけた。
お前たちの情など受けるものかという態度でじろりと睨み付け、低い声で叫んだ。
「うるさい」
頬から額にかけてかなり熱を帯びていたが痛みは感じなかった。時間の経過とともに顔面が腫れ上がって来る感覚があったが、それは正夫にとって戦いの後の誇らしい勲章であった。
授業にやって来た教師が驚いてすぐに医者に行くよう命じた。
「いじめを受けるにはそれなりの理由があるからと先生は思うの」
母さんの出したお茶を啜りながら教師は言った。
それなりの理由とは何だ。いじめるやつではなく、いじめられる側に原因があると言うのか。弱い者達の助けを求める声を汲み取るのが大人たちの務めではないのか、なぜ突き放す?悪がいじめられる姿を見たことがあるか、あるまい。いじめられるのはいつも心優しい者達なのだ。ああ、このまどろっこしさは何だ。正夫は教師との間に深い溝を感じた。
「先生、いじめられる側にどんな責任があると言うのですか?」
母さんが会話に割り込んできた。その強い口調に教師は驚いた表情を見せて口を噤んだ。しばらく沈黙が続いた後、学校に遅れますのでと言って彼女は出て行った。
食卓に両肘をつき、黙って前方を見つめていた母さんが「正夫、洗面所からタオルを持ってきて」と言った。タオルを手渡すと、それを顔に押し当ててしばらく泣いた。
「母さんも向う岸の子と同じようにいじめを受けていたの。助けを求めても、みんな目を逸らして背中を向けた。いじめられることは辛かったけれども、みんなに無視されることはもっと怖かった」
そう言った母さんの目はウサギのように赤かった。
「今と同じだね」
「仕方ないから、自己救済したのよ」
「具体的にどうしたのさ」
「反撃したのよ、命がけで。気が付かなかったけれども、私って結構強かったのね」
母さんは記憶を辿るように頬杖をついた。
「やるね、母さん」
「それ以来、母さんへのいじめはぴたりとやんだわ。でも、いじめっていつまでたってもなくならないのね」
しばらく息をついて、母さんはまた話し始めた。
「世の中には、もっとひどいいじめがあるの。天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずって言うけれど、現実の世界は不公平ばかり。その地に生まれたというだけでいくら努力をしても報われないという不条理が、未来ある若者を絶望という奈落の底に落す現実を母さんは見たのよ。やりきれないわ」
「ナラクって?」
「地獄のことよ。母さんが高校生だったころ、隣に素敵な青年がいたの。頭が良くてハンサムで希望に溢れた二十歳の大学生だったわ。家が貧乏だったので家庭教師をして学資の足しにしていたの。その頃教えていた女子高生の成績がぐんと伸びて彼はとっても喜んでいたわ。自分には教師になる才能があると誇らしげに私に自慢していたわ。そんなある日、彼女の両親から今日限り家庭教師には来てくれるなと言い渡されたの。驚いた彼はその理由を問い質したわ。そしたら、胸に手を当てれば分かるだろう、自分の出自を隠してうちの娘の家庭教師になるなんて許せないって強く非難されたの」
「シュツジって?」
「出身地のことよ」
「それが何の関係があるのさ。彼は怒っただろうね」
「死んだわ、自分の部屋で首をくくって」
「え、なぜ?」
「きっと人生に絶望したのね。もしかしたら、彼って、その娘に恋心を抱いていたのかも知れない。だったら尚更可愛そう。彼の両親と妹さんの泣き叫ぶ声が今でもこの耳から離れないの」
母さんの目から一筋の涙が流れ落ちた時、説明のできない不可思議な感情のうねりが、時計の針が動き出すように、正夫の中で静かに波打ち始めた。
若しかしたら、母さんはあのしっぽ番外地と同じ境遇に生まれ育ったのではないか。
タオルに顔をうずめて泣いた母さんの赤い目は正夫にそんな気付きを芽生えさせた。
「正夫、念のために言っておくけど、順番は守らなくちゃならないのよ。バスや列車に乗る時、順番を守らず横から割り込んで来るやつがいたら腹が立つでしょう。死ぬ順番も同じよ。事故や病気なら仕方ないけれども、母さんよりも先に死んだら承知しないからね、分かった?」
「何となく分かる気がするけれども、その例えはどこかおかしいよ」
遥かな昔、人はみな平等であった。狩猟・採集を行い、霊魂と精霊を祭るため、分け隔てなく協力し合わなければ厳しい環境下で命をつなぐことが出来なかったからだ。
いつから人は人を不当に蔑視してその尊厳をも否定する悪しき因習を作り出したのだ。心有るものは不条理な現状を知りながらなぜ黙認する?悪しき因習は打ち壊して誤りを正さなければならない。そうだろう、たん太、お前もそう思うだろう?ああ、無性に会いたいよ。お前が実在したのかそれとも夢であったのかそれさえも分からない。一体お前はどこに消えちまったのだ?
そうだ、月夜の丸木橋を探しに行こう。きっと、あの子タヌキに出会ったじいさん山の登り口付近にあるに違いない。
その日の午後、正夫はじいさん山を目指した。やっとの思いでその登り口に辿り着いたとき、クスノキの林の向うから流れの音が聞こえた。林を抜けるとそこは五丁川の上流であった。川面を渡る風が渦を巻いて吹きあがって「よく来たな」とでも言うように正夫の頬を優しく撫でて行く。
「たん太―」と大声で叫んだ。そこは山間であったので、こだまが束になって返って来た。おや、と正夫は思った。
「よく来たね、正夫」という声がこだまの
中に交じっているような気がしたからである。
木々の梢が風に揺れて、葉っぱの擦れ合う音がそんな風に聞こえたのかも知れない。クスノキの木立が途切れて視界が開けた時、正夫の目は大きく見開かれた。そこに隠れるように丸木橋があったのだ。
「たん太、見つけたぞ」
喜び勇んで駆け寄った正夫の目にとまったのは丸木橋の端っこにピンで留めてある一枚の紙切れであった。手に取ると、それは懐かしい友からの手紙であった。
「僕の友、正夫へ。きっと僕のことをだらしない弱虫と思っているだろうね。でもね、正夫、あれ以上僕たちがしっぽ番外地にいたら、他のタヌキと争いが始まってしまうのだ。怪我をするタヌキが大勢出るのさ。僕たちしっぽ番外地のタヌキは少数で、どういう訳か、どこに行っても白い目で見られる。じんべえ爺さんは、今度辿り着いた場所では、僕たちがしっぽ番外地出身のタヌキだってことを秘密にしておこうと言うのだけれども、僕は嫌だ、だって僕はしっぽ番外地に生まれたタヌキだもの。どこに行ってもしっぽ番外地のタヌキだって堂々と胸を張るのだ。僕は生まれ育った故郷を誇りに思っているのだ、僕のことを理解してくれるかい、正夫。僕たちタヌキがみんな平等に仲良く暮らす国をつくろうと思う。そのためなら何度でも戦うし、決して現実から逃げないと心に決めたのだ。それが僕の希望であって今では生きる目標なのさ。それでは、正夫、元気でね。また会おうよ、きっとだよ。君は立派な人間になってくれたまえ、僕は立派なタヌキになる。追伸、新しい僕らの村が完成したら招待するよ、ではさようなら」
読み終った時、正夫の胸に、熱い何かが込み上げてきて抑えきれない。
「僕はどこに行ってもしっぽ番外地のタヌキだって堂々と胸を張るのだ」と言う、たん太の懐かしい声が風に乗って正夫の胸の奥深く染み込んで、音叉のように優しく切なく響いているような気がする。
「たん太―」
何だかたまらなくなって叫ぶと、声は大空に何度も響き渡った。拭ってもぬぐっても、涙は止めどなく頬を伝った。
「正夫、お客さんよ」
その日の夜、母に言われて玄関に出て驚いた。そこに立っていたのは、昨日、いじめを受けていた向う岸の男子であった。
「お前か」
「昨日はありがとう。僕はびっくりして、君を残して逃げ出してしまった。本当にごめんなさい」
「何だ、そんなことか。良いんだ、意気地の無いやつはみんな逃げるものだ、お前だけじゃない、仕方ないさ。だけど、永遠に逃げ続けるつもりかい。次は戦ったらどうだ」
「うん」
「ところでお前の名は?」
「三太郎、みんなは三太と呼ぶよ」
「え、たん太だって?」
「タンタじゃないよ。サンタだよ」
「そうか、クリスマスか」
「何だよ、それ」
そういえば、こいつ、大きな目をしている、その目がぐるぐると回れば正にたん太だ。自然に笑いが込み上げてくる。正夫は三太郎に親近感を抱いた。
「ねえ、君。こっちに来てコーヒーでも飲んで行かない?」
台所から母さんの声がした。
「いえ、もう遅いから帰ります。今日はお礼を言いに来ただけですから」
三太郎はそう言って正夫に背中を向けた。
「三太、もう一度言うけど、次は一緒に戦わないか。一寸の虫にも五分の魂っていうぜ」
正夫が呼びかけると三太郎は振り返ってにっこり微笑むと大きく頷いた。こいつ、次には鼻の頭をなめだすのではないか。正夫は思わずぷっと吹きだした。
「僕の顔になんか付いている?」
三太郎が怪訝な顔をした。
次の日の朝、目が覚めると階下で父さんと母さんの賑やかな声が聞こえる。
いつもの光景なのだが今朝はいっそう騒がしい。
「あなた、正夫にけしかけるようなことを言っちゃだめ」
「分かっているよ、母さん」
正夫が階段を下りてくると二人は急に黙った。
父さんと母さんは明るく振る舞っているが、内心、非常に気を使っていることが伝わって来る。
「正夫、お前、学校で喧嘩しようなんて思っているんじゃないだろうな。母さんが心配しているぞ」
「必要なら戦うよ」
「そうだな、義を見てせざるは勇無きなりって言う諺があるからな」
「どういう意味さ」
「ぶっ飛ばしてやれってことだ」
「あなた、なにを言っているの、けしかけてどうするの。でも正夫、やるなら正々堂々とやってらっしゃい」
「うん、分かった」
「正々堂々も良いけれど、簡単に負けて怪我でもしたらつまらん。作戦も大切だぜ」
「作戦は練ってあるよ。それにどうやら今度は一人ぼっちの戦いではなさそうだし、細工は流々仕上げを御覧じろだ」
緻密で入念とまではいかないが、今度はしっかりと考えた作戦がある。心構えも違う。必要であれば、攻撃は最大の防御、こちらから仕掛けてやる。暴力は良くないとか話し合ったらどうだとか忍耐を学べ、などと大人は言う。だが、ものしり顔に語り聞かせるそんな言葉が正夫には目の前で起こっている不条理から目をそむけることと同義語に聞こえてしようがない。そんなに人生経験の豊富ではないこの俺には難しいことなど分からない。だが、俺たちは春秋に富む若者だ、失敗を恐れていては何も出来ない。勇気を持って、正義を貫こう。自分が正しいと信じる道を歩く、それが今俺の胸の底にある羅針盤が示すところだ。我が友たん太、今度会った時はたっぷりと武勇伝を聞かせてやるぞ。
「千万人といえども吾ゆかん」
学校の前で立ち止まり、大声で覚悟を叫ぶと登校中の誰もが驚いて正夫を振り返った。みんなの視線を心地良く感じながら、ゆっくりとしかも力強い足取りで校門をくぐった。