01-少年探偵
薄汚れたコンクリートの壁に赤い飛沫が飛び散った。
捩じ切られ、握り潰される人の頭部を、私はぼんやりと見ていた。
(ああ、お父さん。あなたはいったい、どうなってしまったの?)
私は目線を上げ、一瞬前まで父親だったものを見た。
そこに立っているのはもはや、人の形を失った鈍色の物体だった。
マネキンめいたメリハリのない、鈍色の光沢を放つ体。
左腕は人間のそれによく似ていたが、右腕はまったく別物だった。上腕に当たる部分が異様に長く、そしてがっしりしていた。形状としてチェーンソーが一番近いだろう。腕からはスコープめいた突起がせり出しており、先端には穴が開いていた。まるでそこから、何かが発射されるかのようだ。
(私も殺される……?
探偵さんの言うことを聞いておけば、こんな……)
ヤクザだった父の捜索を依頼した探偵は、それを断った。
いま思えば、私を思ってのことだったのだろう。
私が部屋に入った時、刺客ヤクザは父の処刑を完了していた。私の存在に気付いた彼らは侮蔑的な言葉を浴びせ、私も始末しようとした。その背後で、死体よりもなお蒼褪めた父の体が光に包まれた。それが徐々に金属めいたものへと変わって行った。ものの1秒足らずで、父はそこからいなくなった。
そこから先は一方的だった。ヤクザの銃は効かず、父のパンチはヤクザを一撃で絶命させた。この部屋で生きて動いているのは、もう私と父だったものの二つだけになってしまった。そして、父は右腕を私に向けた。殺される、私は祈った。どうか父が正気を取り戻してくれますように、と。
主観時間が鈍化し、1秒が永遠にも等しく引き伸ばされる。
父の背後にあった窓ガラスに亀裂が入り、砕けた。
けたたましい音が私の時間を元に戻す。
(あれはいったい?)
銀色のガントレットと具足がまず目に入った。
黒いバイザーに赤い光が宿り、侵入者は父だった化け物を見た。
そして、化け物が振り返るよりも早くその横っ面を殴った。インパクトの瞬間、バックルに納められた黄金の宝石が輝いたような気がした。殴り飛ばされた化け物は、まるでクレーンか何かで引かれるように吹っ飛んで行き、壁に激突。薄いコンクリートの壁を貫いて向こう側の部屋に叩き込まれた。
「逃げてください、ここは危険だ。
こいつの相手は……僕がする!」
優しいテノールヴォイス。私はその声に聞き覚えがあった。
父を追う私を諭してくれた少年探偵の声だった。
鋭い発砲音が聞こえた。即座に反応した彼が拳を振り払うと、窓側の壁に穴が開いた。あの穴から放たれた銃弾のようなものを弾き返したのだろうか? 銀色の侵入者が父を追う。私もそれを追いかけ、室内に入った。私に見えたのは、父だったものが殴られ、蹴られ、叩き伏せられる光景だった。
化け物が振り上げた銃口を払い、拳を繰り出す。弾丸でも傷つかなかった体に亀裂が入った。彼は何度も、何度もパンチを繰り出し化け物を殴った。ひび割れた皮膚の間から、赤黒い液体が噴き出した。銀色の戦士はコンパクトなローキックで化け物の膝を破壊、体勢を崩した化け物の頸椎に、容赦ない肘打ちを繰り出した。床に叩きつけられ、化け物が呻くように身をよじらせる。
銀色のガントレットが白く輝く。それを転倒した怪物の腹に打ち込むと、打点を中心にして怪物の体が焼け溶けた。拳が胴体を完全に貫通したかと思うと、怪物の体表に細かなひび割れが生じた。そして、怪物は轟音を立てて爆発した。
目を上げると、そこには何も残っていなかった。
銀色の侵入者を除いては。
彼もまた、その場から立ち去ろうとした。
「待ってください!
あなた、探偵さん……ですよね?」
私は真っ直ぐ彼を見た。
彼はピクリと反応し立ち止まり、私を見た。
瞬間の睨み合いが永遠にも感じられた。
「だから言ったでしょう、牧野さん。
あなたにとって、決して幸せな結果にはならないと」
彼はバックルから黄金の宝石を取り出した。
彼の全身が光に包まれ、それが晴れると、そこには少年がいた。
薄墨色の耳までかかる長い髪、眦の下がった優し気な瞳。全体的にまだあどけなさの残る探偵さん。結城虎之助探偵が、私の命を救ってくれた。
私の父はヤクザだった。
悪事を犯してこなかったわけではない、それでも優しい人だった。刑務所に入ると聞かされた時、みんなが泣いてくれた。刑期を終えて出てきた時には、カタギに戻る。父はそう言ってくれたし、私たちはそれを信じた。けれども、父は帰って来なかった。
出所日に帰って来なかった父を、母は諦めた。それでも、私は諦めきれなかった。探偵を雇おうとしたし、自分自身でも探した。その結果があれだったわけだが。
そしてその最中で出会ったのが彼……結城虎之助探偵だ。
私よりも年下なのに、しっかりしている。
「お父さんの姿をしていた怪物を、蒼褪めし者と呼んでいます」
私のしつこさに折れ、結城さんはぽつぽつと語り始めた。近場にあったレストラン『マーセル』で軽く食事をとりながら、私は彼の話を聞いた。会話の内容に聞き耳を立てるものは絶無だし、こんなフィクションのような話を信じるものは一人もいないだろう。実際目の当たりにしたものでなければ。
「あなたも恐らく見たでしょう、死体よりも青い変化前の肌を。
それはロスペイルの、一種の擬態です」
「擬態……それじゃあ、お父さんはあの時、もう」
「死んでいました。
あの化け物は人間の皮を被って都市の影に潜み、人を襲っているんです。
警察もヤクザも、その存在を知らない。
知っているのかもしれませんが、それを公表しようとはしない。
ロスペイルの力があまりに人間離れしているからです」
父が死んでいた。
想像はしていたけれど、やはりショックは大きい。
「でもどうしてヤクザを襲うような真似を?」
「ロスペイルは何らかの手段で脳にアクセスする。
そして、擬態元が持っていたもっとも強い感情に惹かれていく傾向があるんだ」
「一番強い感情……つまり、それはお父さんの復讐心ってことですか?」
「目的を遂げたロスペイルは進化……
というか、形態の大幅な変化を遂げる。
より強い形態を得ることが出来るんだ。
どうしてそんなことになるのかは分からない。
だけど、ロスペイルは強くなるために死者の思いを遂げることがあるんだ」
少なからず、それはショックなことだった。
父さんは家族よりも、復讐を選んだということだから。
それでも、少しだけスッキリした。父さんはもういない、どうしていなくなったかも分かった。母にも家族にも言うことは出来ない、私だけの秘密。私だけは覚えておきたい、父が何を思ったのか。
「ありがとうございます。父を解放してくれて」
「そう言っていただけると救われる。また何かあったら……
ない方がいいけど、連絡してください」
そう言って、結城さんは名刺を差し出した。
『野木探偵事務所』、野木楽太郎。
事務所にはもう一人、男の人がいた。
きっとその人の名前だろう。
名刺の名前を変更するお金もないみたい。
「普通の依頼でも大歓迎です。
こんな状態なんで、いつもお金はないんですよ」
結城さんの自虐的な冗談に私――牧野恋は笑った。
深々と頭を下げ、私は家に戻った。
これからどうしようか、考えたこともない。
……父を探すためにいろいろなものを犠牲にしてきた。でも、それも今日までだ。これからは考えなければならない、私の未来を。大丈夫、この閉塞した、暗い世界にだって未来は残っているはずだ。
私はいつもと変わらない、鈍色の空を見上げた。
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鈍色の雲と銀色の雨が降り注ぐ街。
雲を裂くように立ち並ぶ摩天楼に座するは、この世の支配者。すなわち政治家、資本家、メガコーポの役員。彼らは法律と労働、あるいは暴力によって人々を縛り付ける。
市民は振りかざされる理不尽な暴力を、懸命に堪えやり過ごす。人々は夜な夜なサイバースペースに逃避し、不平と不満をケミカルドリンクで飲み下す。
閉塞した都市の由来を知る者も、知ろうとする者ももはやいない。
人々はそこを単に、都市と呼んでいた。




