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「入れよ」


 学校に通う周りの子達より幾分低い声がエリザをいざなう。

 彼女は恐る恐る、目前に広がる別世界とも言うべき光景を見渡した。


 ジャック・アトキンスの住む大きな館は、村を一望する小高い丘の上に建っていた。

 その昔、近隣の村一帯を治めていた領主が所有していた古い城館を、ジャックの父親が買い受け改築したものだ。

 広大な敷地は真鍮製の立派な塀でぐるりと囲まれており、中の様子は見事な花をつける広い庭の一部しか窺い知ることが出来なかった。

 もちろん、村のほとんどの人間がこの館に足を踏み入れることはおろか、前を通ることさえ滅多になかったことだろう。

 アトキンス家は先祖代々がこの地を治めていた領主の系譜ではなかったが、古いしきたりを重んじる村の年寄りは、たいていジャックの祖父を「お館さま」と呼んで敬っていた。

 エリザだとて変わりはない。ジャックの家など、恐れ多くて近づいたことすらなかった。他の村民と一緒で、雲の上の城との認識しか今までなかったのだ。

 厳しい石柱に挟まれた、塀と同じく黄土色に輝く真鍮の高い門を潜ると、こちらを吠え立て飛び出してきた凛々しい顔つきの犬に悲鳴を上げ、腰を抜かしかけたエリザを見てジャックは肩を震わせる。


「お前、犬が怖いのか?」

「こ、怖いわけじゃ……」


 明るく笑う少年は、エリザの知るジャックとは別の人間のようだった。

 ジャック・アトキンスによく似た誰かは、すらりと伸びた体を屈め、猟犬のような犬の首を優しく撫でて大人しくさせると、口元を緩めたままエリザに向き合った。


「怖くないならついて来い」


 そして、エリザの返事も待たずに歩き出した。


 彼の目的が分からなくて、エリザは戸惑いを隠せない。

 彼女は白詰草の中で泣いていたところを、引き立てるようにここまで連れて来られたのだ。

 おまけに彼と二言三言話をしていて気がついた。


 私、この人とまともに話をしたことがあったっけーー?


 エリザがそう感じるのも無理はないだろう。

 何故ならジャック・アトキンスは彼女に対する嫌味でさえ、いつも周りの取り巻き達に言わせていたのだから。

 それゆえ、宿命のライバルのような関係であったにもかかわらず、エリザは彼の声をあまり聞いたことがなかったのだ。

 主人に尻尾を振り喜びを露わにする飼い犬を連れ立ち、軽快な足取りで前を歩くジャック・アトキンスの背中を、エリザは複雑な思いで見つめていた。



 広い邸宅は人が一人もいないかのように静かだった。

 いや、いるにはいた。

 屋内に入ってすぐ、目の前に現れた男性使用人がそれである。老齢のその男性は、粗末な身なりのエリザを見ても顔色を変えることなく、ジャックに言われた部屋に彼女を丁重に案内してくれた。

 ピカピカに磨かれた床や高価そうな家具に恐れをなし、落ち着かなく一人で待っていると、やがてジャックが飲み物を持って現れた。


「飲めよ」

「え、何?」


 強引に押しつけられたそれを、エリザは注意深く覗き込んだ。

 甘い香りとホカホカの湯気が鼻を刺激し食欲を誘う。


「蜂蜜をお湯で割ったもんだ」


 いつまで待っても受け取ろうとしないエリザに、呆れたように少年が告げてきた。


「い、いただいてい……の?」


 ビクビクとしながら温かいカップを手にする。ジャックからの好意にエリザはどうにも慣れていない。だから、どんな反応を返せばいいか分からない。

 無言でこちらを威圧する相手に彼女は慌てて目線を下げた。

 早く飲めと急かされているようで、思い切ってカップを煽る。

 染み入るような優しい甘みと心地よい熱が、荒れた喉を潤して全身に広がっていった。


「お、いし……何なのこれ?」


 ジャックは空になったカップを受け取るとニヤリと笑った。


「隠し味に秘蔵の酒が少し入ってるんだ。喉が痛む時に飲めば楽になる」

「お酒〜? ひ、酷いじゃない」

「数滴だよ、数滴。何も問題ないさ。俺だって小さい時からこいつを飲んでるんだからな」


 笑い顔のジャックは、普段の傲慢さが抜けて酷く無邪気であった。

 エリザは拭い難い居心地の悪さを感じて、急いで視線を逸らす。

 いや、元から気まずさは感じていた。何故なら自分達は友人同士ではない。それどころか、むしろ険悪な関係で。

 黙りこくるエリザを見てジャックも一転表情を硬くしていく。


「どうして泣いていたんだ?」


 彼は強ばった声のまま聞いてきた。


「どうしてって……」


 あんたが命じたんでしょ、私に恥をかかせろって!


 そう言ってやりたくなり思わず相手を睨みつける。

 エリザを困らせて嘲笑って、痛めつけてる張本人のくせに。彼女の苦行は全てジャックの逆鱗に触れたことが発端なのだ。今更何を言ってるのか?


 あれ? でも、だとしたら ……。


 だとしたら、今エリザに親切にしているのはどういう風の吹き回しなのだろう?

 ジャックの本心が分からなくてエリザは言葉を飲み込んだ。

 彼女の前でジャック・アトキンスも、開きかけた唇を忌々しげに噛み締める。


「明日からお前の練習を手伝ってやる」


 彼は顔を背けてぶっきらぼうに吐き出した。


「え?」

「学校じゃあ、あいつらが協力してくれないんだろう?」

「だ、だってあんたは」


 ジャックは彼らの頂点に立っている王様だ。学校の子供達がエリザを攻撃してくるのも、元はと言えばジャックのご機嫌伺いでしかない。なのに、何故彼がエリザに手を差しのべるのか。


「俺は当分休学するんだ」

「休学?」


 そう言えば、ジャックはここ最近登校してもいなかった。エリザへの虐めが落ち着いてきたのも、王であるジャックがいなかったからであるらしい。


「そうか、わざわざあんな学校に行かなくてもいいってことね。あんたにはご立派な家庭教師がいるんでしょう? だから、田舎の学校なんか必要ないものね」


 無性に苛立ちエリザが憎まれ口をきいてやると、ジャックは目を剥いて振り返った。


「ああ、そうだよ! あんなところ俺には必要ない。必要ないんだよ!」

「何よ!」


 遂に張本人との直接対決を迎えたらしい。背の高いジャックはエリザに覆いかぶさるように前を塞いでくる。

 エリザは負けじと顎を上げ相手を睨みつけてやった。

 少しの親切など今までの仕打ちを思えば露と消える。やっぱりこいつは憎たらしい敵でしかない。

 しかし、五歳の年の差はより力の差を彼女に意識させ、目の前の少年を一際大きく見せた。

 睨み合う時間を唐突に終わらせたのは、ジャックの方だった。

 彼は力をなくした目を彼女から逸らすと、面倒臭そうに嘯いた。


「どうする? 来るのか? 来ないのか?」


 来るのか、だって?

 エリザはびっくりして口を開けた。

 今の今、争いになりかけた相手をまだ誘う気でいるらしい。彼女は腹立ちも忘れてジャックを縋るように見上げた。


「だ、だけど、私みたいのがお邪魔するのはよくないんじゃないの……? だってあんたん家は……」

「うちの祖父達のことなら気にするな。二人とも年を取って日がな一日寝ているだけなんだ。お前一人連れ込んだところで、きっと誰も気がつきもしないだろう」


 ジャックの言い分は簡潔だった。何も問題はない、彼の目はそう言っていた。


「そ、そう……じゃ、よろしくお願いします……ありがとう……」


 エリザが小さく返事をするとジャック・アトキンスは表情を和らげて噴き出す。


「お前でも素直に礼が言えるんだな」

「言えるわよ、あんたじゃあるまいし」


 二人は言い争いをしていたことも忘れて笑い合った。






 ジャックは「帰る」と告げたエリザをホールまで送ってくれた。

 美しい玄関ホールは光が舞い込み、それが周囲の壁をキラキラと輝かせていた。物語の王子のようにすんなりとそこに収まるジャック・アトキンスを、エリザはぼんやりと見返す。


 彼の住むお城は広くて綺麗で、あまりにも静かだった。

 エリザは彼と同じ家族がいる我が家を思い出してみた。

 祖父も祖母も口煩くて賑やかで、自分とジャックが全く違う環境にあることに驚愕した。

 誰かの温かい体温すら感じさせない館に住むジャック・アトキンスを、エリザはこの時、初めてかわいそうだと思ったのだ。


 

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