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しばらく歩くと道べりに大きな樫の木が見えた。この村のシンボルツリーとも言える木だ。
太くて立派な枝を横に伸ばした木の下は、ちょうどよい日陰ができ、数人が農作業の手を止め休憩をしていた。
その中に、見知った人影を見つけたような気がして、エリザは凍りつく。
振り向いた相手は、彼女の知る人物とは似ても似つかぬ男だった。
今までの住人と全く同じ反応を返されながら、エリザ自身は今までとは違う、溢れる動揺を隠せぬまま駆け出した。
走りながら、木の下で一人で座っていた後ろ姿が脳裏に浮かぶ。
いつも人に囲まれてたのに、時々一人で黙々と何かをしていた広い背中。
エリザはその姿を見かける度に、今みたいに急いで横を走り抜けた。
見つかりたくはなかったから。
自分の存在を相手に気取られたくはなかったからだ。
でも、どうしてだろう?
気づかれてしまう危険だってあったのに、静かに立ち去るのではなく、音を立てて駆け出してしまっていたのは何故なんだろう。
決まってる、私は……。
前方で道が二手に分かれている。
エリザは少しだけ悩んで、わざと遠回りになる右手を選んだ。
山の手に向って伸びていく道は学校へと続いているものだ。この村に一校しかない彼女も通った学校である。
エリザの胸に苦い思い出が蘇る。
学校は楽しい場所ではなかった。
学ぶことが喜びで、何よりも優先して通学していた場所は、いつしか生きづらい、孤独さえ感じる場所へと変貌していた。
最初にエリザがしくじったのはいつだろう。
あの時だ。
通学路だった登り道を上がりながら、彼女は過去へと思いを馳せる。
あれは、エリザが学校に通い始めて一年が過ぎたぐらいの頃ーー。
「今日は先日みんなから提出してもらった宿題を返すわね」
若い女の先生がにこやかに笑って教壇に立った。
えー、と騒ぎ出す生徒に静かにと目線で訴え、教師は続ける。
「その中に、とっても優秀な作品がありました。あわせてそれも発表したいと思います」
生徒の目は一箇所に集中した。
こういった場合たいてい名前を呼ばれるのは、ただ一人と決まっていたからだ。
皆の視線を受けた、青年と言った方がしっくりくるような背の高い少年が、長い足をしなやかに伸ばして、机の上に頬杖をつき得意げに微笑む。
田舎の農村に住んでいながら、垢抜けた顔立ちと服装をしたその少年は、周りとはあきらかに違う空気を纏っていた。
それもその筈で、彼は郷紳階級に属す家庭の生まれで、父親は都で大銀行の頭取をしているとのことだった。
痛みの激しい古い建物には不釣り合いな、新しい机や椅子などの備品は、少年の父親からの寄贈品でもある。
村には母方の祖父母が隠居生活をしており、三男にあたる彼は生まれつき体が弱かったこともあり、空気のよいこちらで赤子の頃から世話になっていたらしい。
少年が背筋を伸ばして座り直すと、女生徒達が黄色い声を出して喜んだ。
「ジャックのことよ、きっと」
「そうよね、ジャックは頭がいいもの」
少年ーージャックは、裕福な暮らしぶりと成績の良さに加え、美しい外見でも田舎の子供達の関心を掴んでいた。
幅広い年齢の子が通うこの学校の中でも、ジャックは年長側に属しており、年下の子達は彼を尊敬の念で慕っていた。
真っ白に輝くシャツに上質なベストと揃いのズボン。さっぱりと短く切られた髪は艶々とした栗色をしていて、意志の強そうな黒い瞳と固く引き結んだ唇、整った顔立ちからは自分に対する絶対の自信が窺える。
彼はまさに、この学校での王であった。
みんなの期待が膨れ上がる中、教師はコホンと咳払いをする。
「今回の最優秀賞はエリザ・ドーソンさんです」
そして、思いもよらない名前を挙げた。
「エリザ、さあ立って」
微妙な雰囲気が漂うなか、エリザは強引に教師によって起立を命じられた。
教師はエリザを立たせると、今度は他の生徒に賞賛を強要してきた。
「みんな、拍手をしてあげてちょうだい。エリザ、素晴らしい感想文だったわ」
パラパラと気乗りしない拍手を受けながら、エリザはあまりのいたたまれなさに一刻もはやく座りたかった。
「先生、ジャックの感想文は?」
釈然としないのだろう、誰かが不満げに声を上げた。
それまでのエリザは、実に目立たない存在感の薄い少女でしかなかったのだ。
そんな地味な子が何故注目を受けるのか?
ざわめきは水面に浮かぶ波紋のように広がる。
教師はその反応を理解したらしく、柔らかい笑みで教室を見渡した。
「ジャックのも、もちろん素晴らしかったわ。でも先生がエリザの名前を挙げたのは、彼女の感想文が通り一遍の内容ではなかったからよ。みんな今回の宿題の内容覚えてる?」
「覚えてるよー、思想家ヤングの伝記についての感想文だろ?」
「そうよ、エリザはねその中でヤングの子供時代に焦点を当ててたの。あのね、ヤングは子供の頃、空想して物語を書く趣味があったのよ」
「えー、そうだったっけ?」
「そうよ、他の人が気づかない、さらりと流してしまうところに着眼点を得たエリザを、先生は今回高く評価したの。特別な感性に引き込まれたのよ。分かってほしいわ」
しかし、熱弁を奮う教師に同調した者はいないようだった。
「でもさ、子供時代なんかヤングの人生の大事なとこじゃないだろ」
「子供時代なんて無名もいいところだろーよ」
生徒達は今の説明では納得がいかないようで、ひそひそと不平を囁き合う。そんな中、やっと着席を許されたエリザは、自分を睨みつけてくる視線に気がつき身を竦めた。
小声で不満を漏らす生徒達の中に、ピクリとも動かずこちらに顔を向けるジャック・アトキンスの、仄暗いまでの虚ろな眼差しが、エリザに不気味な圧力を与えていた。