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男嫌いは治せない


 高校生の時、俺は今でも好きな女の子に告白をしたことがある。

 その返事は、こうだった。



「あたし、男嫌いだから……ごめんなさい」



 生まれて初めて、男に生まれたことを呪った瞬間である。



 * * *



 そんな青春の苦い思い出から2年がたった。

 俺は大学2年の春を迎え、肉体的にも精神的にも少しは成長できたように思う。高校球児だった俺は野球サークルに入り、充実した日々を送っている。

 でも、俺は未だに2年前の失恋を引きずってもいた。なぜなら……。


「お、久木。お前の姫さんが来たぞ」


 トラウマの根源が、同じ大学にいるからだった。

 友人が指さす先。長めの黒ショートボブにモノクロで統一された服装、落ち着いた顔立ちに鋭い目の女の子。


 ――白崎姫乃。


 二年前、俺を「男が嫌い」という理由でフった女だ。

 白崎は友人らしき数人の女子とともに、俺とは離れた席に座ると、講義の準備をし始める。

 まだ、ぎゃあぎゃあとやかましい俺の友人には、チョップをお見舞いしてやった。


「うるせーな、別に俺のお姫さまじゃねーよ」


「そうだな、白崎さんは皆の姫さんだもんな」


「……」


 白崎は、その男勝りな性格と、同性からの圧倒的な人気、徹底的な男嫌い(キレた時のハイキックで何人もの男を蹴散らしてきた)から名前の一部をとって『姫』のあだ名をつけられている。高校のときも女子、特に下級生には凄い人気だったので、姫というよりは女王様かお姉さまのイメージの方が俺にとっては強いが。ハイキックやばいし。


「……それより三谷、おまえゼミどうした?」


「話をそらすなよ~久木~」


「……」


「ちょ、悪かったって! 睨むな怖い! ゼミは田中教授のとこだよ」


「は? 田中教授? お前、斉藤ゼミ志望じゃなかったか?」


「いや~なんか倍率高そうだったから乗り換えた。よろしくな久木」


「……まったく」


 俺は適当な友人にもう一発、チョップをかましておいた。

 ま、こいつと一緒ならゼミも楽しそうだけど。なんて本音は、絶対に言ってやらないが。










 大学生ってのは何事も飲みたがるもので、サークルとか事あるごとに飲み会をする。

 それはなにもサークルに限ったことではない。今日の飲み会の開催理由は、ゼミの顔合わせだった。4~2年の田中ゼミ生が入り乱れて飲みまくっている。


「学籍番号~114・0567三谷~十八番歌いま~す!」


 「おーやれやれよっぱらーい!!」という歓声があがる。あいつ、相当できあがってんな……。

 友人の醜態を眺め、「あいつ送るのめんどくさいなー」なんて考えながらジントニックを喉に流し込んでいると、隣に誰かが座った。


「修也、結構飲めるね」


 聞きなれた声、俺も酔っていたのだろう、何の疑問も持たずに返答する。


「まあなー。サークルの先輩たちに鍛えられたし」


「ふーん、野球だっけ?」


「ああ、てかなんで知ってんだそんなこ…………!?」


 ガタン! 俺は危うく椅子から転げ落ちるところだった。


「し……白崎!?」


「……なによその反応。失礼ね」


 手のジントニックのグラスをかっさらわれる。

 ちょっと不機嫌そうに尖らせたその唇が、残りを飲み干した。


「あっー! 俺の酒!」


「みみっちいわね、いいじゃないこれくらい」


「てか、お前、田中ゼミだったのか?」


 確か、最初の自己紹介のときにはいなかったはずだが……。


「ちょっとバイトが長引いちゃって、今来たの。あたしもここよ」


「……。へー」


「ちょっと、なにその間!? あたしと一緒は嫌なの? 高校のときは……告白してきたくせに……」


 最後にぼそっと付け足された言葉に、俺は全身がアルコールとは別の要因で沸騰した。


「ば、バカ! そんな昔のこと持ち出すなよ!」


「あんたが嫌そうにするからでしょ?」


「別に嫌じゃない! ただ……」


 言いかけて、やめた。

 この言葉は、酒の勢いに任せて言うようなことじゃない。


「……ただ、こっち来てから、あんまり喋ってなかったからさ」


 ちょっと不自然な態度だったかもしれない。もうちょっとうまく誤魔化せればよかったんだが。俺も酒がまわっていて、頭の働きが鈍っていた。

 でも、それは白崎も同じだったようだ。特に訝しむ様子もなく、注文したファジーネーブルに口を付けた。


「そうだね。こうして話すのも、結構久しぶりだし」


「だろ?」


「うん」


 白崎は、俺の空になったグラスに、飲みかけのファジーネーブルを半分注いだ。


「ね、修也。乾杯しよ」


「え、俺ファジーネーブル好きじゃないんだけど……」


「……ジントニック飲んでたのに?」


「ジントニックは、ジンが好きだから飲んでんの」


「あんた……相変わらず微妙な好き嫌いしてるね。いいからグラス持って、飲み干さなくてもいいから」


 なんやかんや言いながらも、好きな女の子の言うことには逆らえない。

 俺はグラスを持つと、カチンと白崎のグラスにそれを合わせた。


「乾杯」


「乾杯。修也、これからよろしくね」


「おう」


 俺は、オレンジ色の液体を、一気に飲み干す。

 白崎も一気に飲み干した。それからこっちを見て、二コッと笑ってみせたのだった。











 正直、その時の「よろしくね」を、俺は軽く考えていた。


 でも白崎にとっては、そうでもなかったみたいだ。その日をきっかけに、白崎と俺は高校時代以上に話すようになった。というか、白崎から話してくれるようになった。

 講義で会ったときとか、前は挨拶だけだったのに、最近はお互いの友達を先に行かせて話し込んだりとかある。俺はすげえ嬉しいんだけど、白崎がいまさら歩み寄ってくれたことに疑問を感じてもいた。


 そんなある日、俺と白崎と俺達の共通の友人たち(俺と白崎が話し過ぎて、お互いの友達が仲良くなっていたらしい)で、一緒にある講義の課題をやることになった。

 というわけで、家賃の割にわりと広い俺のアパートでやることになったのだが……。


「やっほー、修也」


「……」


 来たのは、白崎ひとりだけだった。


「なんで!?」


「いや、なんか皆都合悪くなったみたいで……」


 「はあー?」と言うのと同時に、マナーモードのスマートフォンが震える音が聞こえた。慌てて部屋に戻って、確認するとメールが一件……三谷からだった。あいつは今日来る予定だったはずだ。


『がんばれ! 応援してる。――二人の友人一同より』


 俺は頭を抱えた。どうやら完全に嵌められたみたいだ。

 どうする? ここはこいつらの思惑通りに頑張るべきなのか? いやダメだろ……いくら白崎でも一人暮らしの男の部屋に女の子が一人でなんて……。


「案外片付いてるね。あ、修也まだこのバンド好きなんだ」


「って、おい! 勝手に入るなって」


 俺の苦悩を無駄にしやがって……。


「なによ。あたしと二人じゃ不満?」


「そうじゃないけどさ」


「けど……なに?」


「ほら、一応一人暮らしの男の部屋に女性ひとりってのは……」


「なんかあるかも?」


「というか、まずいだろ」


「まずいことなんかなにもないよ。だって、修也だし」


 あっけらかんと言う白崎。

 そこまで断定されると男としては反論したくなってしまうが……。


「……確かに、そんな勇気はありません」


 結局、折れるのは俺のほうで、虚勢をはることもできないのも事実だった。


「でしょ」


 満足げに首を傾げる白崎は、悔しいが可愛かった。



 その後は、何事もなく二人で課題を進めた。

 たまに教えあったりしたけど、基本無言で、静かな沈黙に満ちていた。白崎が「勉強する時に聞くと集中できるんだよ」と言って流している音楽が、奇妙な旋律を奏でている。

 その妙な音楽のなか、白崎が突然口を開いた。


「ねえ、修也」


「ん?」


「あんた、なんでまだ『白崎』なの?」


 意味を理解するまで、数秒かかった。

 そして、それが自分の彼女に対しての呼び方のことであると理解した途端、さっきまで一応集中力の助けになっていた音楽も、それを使って取り組んでいた課題も、頭からすっぽり抜け落ちていた。


「……それは、下の名前でよべということですか?」


「なんで敬語……。とにかく、あたしは高校の時から『修也』って呼んでるのに、あんたがいまだに『白崎』なのはおかしくない?」


「…………」


 そんなことを言われても、『白崎』で呼びなれちゃってるしなあ……。それに、いまさら名前で呼ぶなんて、その、すごく恥ずかしい。

 だが、白崎は強引に話を進めた。


「ほら、ちょっと『姫乃』って呼んでみてよ」


「い、いきなり呼び捨てで!?」


「……今までだって呼び捨てだったじゃない。むしろ、『姫乃さん』なんて呼ばれる方が距離ある感じだし」


「う……」


「ほら、慣れちゃえばなんてことないって」


「えっと……ひ、ひめ……の?」


「声が小さい、つっかえ過ぎ」


「く……」


「はい、もう一回」


 この野郎……。と思って睨み付けた。

 でも、その時、俺は気づいてしまった。白崎の目に、不安と、期待の色が混じっているのを。

 それに気づいたら、もうダメだった。俺は、彼女の願いを、叶えたくて仕方なくなってしまった。


「すう……」


 一つ深呼吸をして、白崎を見つめた。


「姫乃」


 はっきり、言えた。思いのほか、すんなり声が出た。

 対する白崎……いや姫乃は、ポカンと魂が抜けたようになっていた。


「……姫乃? どうした?」


「え、あ、ううん何でもない」


 そう言って、手をブンブン振って。それから少しだけ迷うような素振りをした。こちらをちらりと窺って、消え入りそうな声で呟く。


「……やっぱり、もう一回呼んで」


「えっと……姫乃」


「うん」


 姫乃は、嬉しそうにはにかんだ。

 それを見て、俺は顔に熱が集まるのを我慢できなかった。見られたくなくて俯いてしまう。姫乃はなにも言ってはこなかった。

 沈黙がまた訪れる。でも、こういうことに鈍い俺でもはっきりと、さっきとは種類の違う沈黙なんだってわかった。だって今は、あの奇妙な音楽が耳に入ってこなかったから。









 それからまた、しばらく経った。

 季節は梅雨真っ只中。湿気が鬱陶しい毎日だ。

 曇り空には気分が沈むが、生活というものは容赦なく繰り返すもので、俺は今日も大学内の並木道を歩いて講義室に向かっていた。

 ふと、前方に見知った後ろ姿を見つける。姫乃だ。


 「姫乃ー!」と声をかけようとして、俺は開きかけた口と上げかけた手を止めた。

 姫乃の目の前に、二人の男子学生が立ち塞がっていた。多分、姫乃にちょっかいをかけているのだろう。姫乃は綺麗な顔立ちをしているし、スタイルもいい。ナンパされることは珍しくないのだ。

 ああいうのはおおかた、堪忍袋の緒が切れた姫乃が恐ろしい剣幕でどなるか、ハイキックかますかして終わる。高校時代も姫乃の男嫌い伝説が広まるまでは上級生にも被害者がいたほどだ。


 でも、今回はいつもと様子が違った。

 姫乃がキレるその寸前、先頭の男が乱暴に姫乃の手を掴んだのだ。いや、それだけならなにも驚くことではなかった。俺がマズイと感じたのはその後。


 姫乃が、離れた位置の俺にもはっきりわかるくらい、怯え始めたのだ。


「おい、なにやってんだ!」


 俺は、大声で怒鳴りつけた。

 男たちの視線が俺の方に向く。俺は姫乃と男たちの間に自分の体を押し込んだ。


「あ、なにおまえ? 彼氏ー?」


「おいおい、ひっこめよ。怪我するよ?」


 ノリの軽そうな男が二人。背中にはギターを背負っている。確か、非公式の軽音サークルに、立ち悪いのが集まるとこがあるって噂を聞いたことがある。多分、そこの連中だろう。


「いいから、こいつには手を出すな」


「なにそれ? ヒーロー気取り? マジかー!」


「……」


「あ、何その顔? おまえ、喧嘩売ってんのかよっ!」


 ブンッ――と右拳が腹に入った。男の顔が暴力の快楽に染まる。

 しかし俺には効かなかった、ずいぶん軽いパンチだ。ろくに鍛えてもいないんだろうな。俺は勝ち誇ったような勘違い野郎の手首を掴んで捻りあげた。


「ぐっ……」


 男の顔が苦痛に歪む。


「悪いけど、どっか行ってくれ。頼むよ」


「……ちっ、行こうぜ、そんな女、別にいらねーよ」


「……」


 最後のセリフにはさすがにカチンときた。本気でぶん殴ってやりたかったけど、今は姫乃が優先だ。

 去っていく二人組を見送って、途中から地面に座り込んでしまった姫乃に手を差し出す。


「姫乃、立てるか?」


「……」


「姫乃?」


 俺は、その手をとろうとした。


「こないで!!」


 ――バチン!


「……え……?」


 ガタガタと震える姫乃。弾かれた俺の手。弾いた姫乃の手。

 それらを交互に見て、もう一回姫乃を見た時、姫乃はありえないほど青い顔で俺を見ていた。


「ち……ちが……修也、ちがう……これは……」


 違うと何度も何度も必死に訴える姫乃。その姿があまりに痛々しくて、俺はそれを遮った。


「姫乃!」


「っ!?」


「立てるか?」


「あ……。う……ん」


 ノロノロと立ち上がった姫乃は、俺の裾をギュッと摘まんだ。


「……家、帰るか?」


 こくんと小さく姫乃が頷く。ここまで弱った姫乃は見たことがなかった。

 俺は、袖を掴んで離さない姫乃を連れて、姫乃のアパートへ行くことにした。講義はサボることになるが、出席は足りてるし問題ないだろう。







 姫乃のアパートは大学のすぐそばだった。歩いて5分くらいだ。そのうえ、内装も綺麗だし、トイレと風呂は別となかなかの良物件だ。確か、姫乃は推薦入試で受かったのでここへの入学は12月には決まっていた。早めに探せば、いい物件は意外と見つかるんだな。


「姫乃、大丈夫か?」


 ベットにぺたんと座り込んだ姫乃は、こくんと首肯した。顔色もさっきに比べれば良くなっているし、きっと疲れかなにかだろう。


(……違う、バカか俺は。疲れなんかじゃないだろ!)


 自分の考えを、頭を振ってふるい落とした。

 多分、踏み込むべきだろう。今まで、あえて訊かなかったことに。彼女の心に。いつまでも見て見ぬふりをしてちゃダメなんだ。姫乃のことが本当に好きなら、ここで逃げちゃいけない。


「……あのさ」


「……?」


 深呼吸ひとつ。不安げにこちらを見つめる姫乃に、意を決して尋ねた。


「姫乃の男嫌いと、今日のことは、関係があるのか?」


 あるのか? なんて訊きかたをしたけど、俺はほぼ確信していた。

 果たして、姫乃は頷いた。悲痛な顔になんとか笑みを作って、姫乃は俺を見た。


「どうして、わかったの?」


「……おまえの男嫌いって、すごく限定的だからさ。普通に俺のグラスで酒のんだり、俺の部屋で勉強したり、男と話すことだってできるし、ハイキックだってかませる。でも――――直接、触れられたくない。そうだろ?」


「うん」


「ってことはさ、もしかしたら、『男が嫌い』なんじゃなくて『男に触れられるのが怖い』んじゃないかって、ずっと思ってたんだ」


「……そっか」


 薄く笑った顔のまま、姫乃は俯いた。俺は黙って姫乃を見つめる。

 どれくらいそのままだったんだろうか。暗い部屋のカーテンのわずかな隙間から夕陽が差し込んで、それが消えて、夜のとばりが降り始めた頃になって、ようやく姫乃がなにかを呟いた。


「………たの」


「え?」


「襲われたの。あたし、小さいころ、知らない人に」


 その事を、予想していないでもなかった。姫乃の男嫌いは、その限定性から体質とか、性格とか、そういうものではないと思っていた。男に触れられることに対するトラウマや心的外傷なんて、起こる要因は限られている。


「……すごく怖かった。そいつは、いわゆるロリコンの変態オヤジでさ。無理矢理暗がりに連れ込まれて、身体中をまさぐられて……」


 喋っているうちに、姫乃の身体が震えはじめた。

 ガタガタ、ガタガタ。恐怖が、蘇っているのだ。ガタガタ、ガタガタ。両手で自分の身体を抱くようにして、姫乃は恐怖に堪えている。


「怖くて、怖くて、あたし……声もでなくて……」


「やめろ、姫乃」


「あたし、あたし、その男が……今も意識のそこにこびりついて……」


「もういい……」


「あの手が……気持ち悪い……あの手が……」


「やめろって!」


「触らないで!!!!」


 自分を傷つけ続ける姫乃の言葉を遮ろうと、伸ばした手は、また弾かれた。


「……姫乃」


 姫乃の顔に、あの痛々しい薄い笑いが戻った。


「ほら……やっぱりこうなっちゃった」


「え……?」


「だから、あたしは嫌だったの。こうなるってわかってた。だからあの時も断った、大学にきてからも、必要以上に近づかないようにしてた。なのに……」


 姫乃が、俯く。次に顔を上げた時、その目には涙がにじんでいた。


「どうしてあんたはあたしの中から消えてくれないの!?」


 何かが飛んでくる。枕だった。それから、ベットの周りにあったクッションやら写真立てやら音楽プレイヤーやらが立て続けに飛んできて、最後に姫乃が飛んで来た。

 床に大の字、真上に姫乃。押し倒されたみたいな格好だ。


「どうして……ねえ、どうして? 教えてよ。あんたが離れないの。忘れられないの」


「……」


「修也に好きって言われた時、本当は嬉しかったの。でも、あたしこんなんだから、絶対にいつか修也のこと拒んじゃう。だから……断った。でも、あたしの方が諦めきれなくて、また仲良くして、このまま少しづつ慣れていけたらって、修也とならって思ってたのに……」


 泣き笑いの顔から、一粒の雫が落ちた。

 俺の頬に落ちたそれは、熱くて、でもどこか冷たい。


「結局、ダメだった。修也のことも、あたし、受け入れられなかった」


「姫乃……」


「ごめんね……修也。ごめんね……本当に、ごめんなさい……」


「……」


 姫乃の瞳から零れる涙は、やっぱりどこか冷たい。

 ……そっか、諦めだ。

 もう、姫乃は諦めてるんだ。こんな、たった一回のことで、諦めて、悲しんでる。


「バカ」


「……えっ?」


「バカだって、言ったんだ」


 もう一度、いや何度でも。

 姫乃が諦めても、俺は諦めない。


「バカには、お仕置きだな」


「な、なにを……」


「今度は姫乃から言ってくれよ」


「……?」


「告白」


「……っ!? そ、そんなの……」


「言えない? なら俺も言わないぞ」


「え……それって……」


「いいから、早く」


「あ……うん」


 すうっと小さく息を吸い込む姫乃。

 その顔に柔らかな表情を浮かべて、薄い唇が言葉を紡いだ。


「……好きです、修也のこと。ずっと、好きでした」


 ドクン、心臓が飛び跳ねた。

 泣き笑いの儚い表情も、そこに浮かぶ照れた微笑みも、さらりと流れる黒髪も、まだ少し震えている小さな体も、全部が全部、愛おしく思えた。抱きしめたい衝動が全身を突き抜ける。

 でも、ダメだ。我慢しろ。俺はこいつに、言わなきゃいけないことがある。



「悪いな、その気持ちには応えられない」



「えっ……?」


 姫乃は、何を言われたのか分からないと言った顔をした。

 その顔が絶望か悲しみで歪んでしまう前に、言葉を重ねる。


「これでおあいこだ」


「……おあいこ?」


「ああ、これで、俺も一回、姫乃を拒んだ」


「……」


「俺のこと、嫌いになったか? 今の一回だけで、今までの全部がなくなったか?」


「そ、そんなこと……」


「なら、俺もお前に一回や二回拒まれたくらいで、嫌いになんかなったりしない」


「……あ……」


「皆、こうやって、拒んで、受け入れて、また拒んで、また受け入れて。そうやってお互い歩み寄っていくんだと思う。だから、拒むことを恐れるな。いいんだよ、それでも」


 俺は、そこで言葉を区切った。

 しっかり、姫乃を見つめて、ゆっくり喉を震わせる。


「……それでも、俺は姫乃が好きだから」


 姫乃の瞳から、また涙が零れた。

 頬を伝って、俺の頬に落ちたその雫は、もう冷たくはなかった。ただ、暖かかった。


「修也……」


 二人、起き上がって、向かい合って床に座る。

 姫乃が、ゆっくり、俺に手を伸ばしてきた。その手が、二人の中間点で止まる。何を意味しているか、すぐにわかった。

 俺も、ゆっくり手を伸ばす。触れた途端、姫乃がピクンと反応した。


「だ、大丈夫か?」


「だい……じょうぶ」


 その言葉通り、彼女の震えが収まってくる。

 俺はそっと、割れ物を扱うようにそっと、その手を握った。


「……ありがと、修也。やっぱり、あんたじゃなきゃ、ダメみたい」


 そう言った姫乃の目に、もう恐怖は映っていない。

 俺は、ギュッとその小さな柔らかい手を強く握った。その手はもう、震えてはいなかった。





 * * *





 あれは高校一年の時。

 あたしの男嫌いを心配した世話焼きな友達が、あたしにある男子を紹介してきた。


「えっと、久木修也です。よろしく」


 一目見て、好感の持てるタイプだと思った。ルックスも悪くはない、坊主頭だからわかりにくいけど。

 だから、あたしには勿体無いと思ったし、なによりあたしは男と仲良くなんてできない。もし好きになんかなっちゃったら、絶対につらくなる。


「……白崎姫乃」


 素っ気ない声。こういう態度は、もう慣れた。

 こういう態度をとった時、反応は大抵二つに別れる。申し訳なさそうに怯える人と、いけ好かない奴だと憤る人。でも、彼は……。


「白崎さんか……その割には真っ黒だな」


 そう言って、笑った。予想外の反応だった。


「……は?」


「服だよ服。私服にこだわりとかあるの? やけに黒一色だけど」


 うちの高校は制服が指定されておらず、皆、改造したなんちゃって制服やらジャージやら私服で通っていた。あたしは私服派だ。


「こだわりはないけど……、普段はよくモノクロを着てるかな。今日黒いのは、白がタンスになかったから」


「へー」


「ちょっと、せっかく説明したのに何その気の無い返事は!」


「いや、普通にへーって納得しただけだって!」


 なんだか妙だった。

 最初に気の無い返事をしたのはあたしなのに、仲良くなんてしないって思ったばっかなのに……なんであたし、こんなに自然と話せてるの?

 あたしにこの人を紹介した、あの子の気持ちが少しだけわかった気がした。


「あんた、修也だっけ?」


「い、いきなり呼び捨てですか白崎さん……」


「修也も呼び捨てでいいわよ」


「女王様のようだな」


「うるさい」


 修也を睨んで黙らせる。


「怖いなあ……。まあいいや、ほい」


 修也が右手を差し出した。


「……?」


 ポカンとその手を眺めるあたし。


「握手だよ握手」


「あ、ああ。そういうこと……」


 促されるまま、その手を握る。

 優しく、握り返された。


「ま、改めてよろしくな、白崎」


「う、うん」


 笑顔で教室を去っていく修也を見送って、それからあたしは呆然と自分の右手を見つめた。


「……触れた、男の子に」


 あの事件以来、初めての事だった。

 あたしはその時、確かに感じていた。運命なんて言葉より、拙くて、微かな予感。


「修也となら……もしかしたら……」


 それが正しかったとわかるのは、もっとずっと先のことだったけど。





 * * *






 梅雨が明けて、日差しが日に日に強くなっていた。

 隣を歩く姫乃は、早くも半袖だ。さっき「もう半袖か?」って訊いたら「修也だって腕まくってるじゃない、半袖と同じよ」なんて言われた。そんなこともないと思うのだが……。


「お、久木に姫~。今日もラブラブですな」


 ニタニタと笑いながら近づいてきたのは三谷だ。


「……お前も半袖か」


「ツッコむのはまずそこかい。てか、長袖まくってるなら半袖着た方が早くないか」


「だよねー」


「お~、姫も半袖仲間ですな」


 なぜかそこから二人で半袖トークが開始された。長袖党の俺は会話に入れない。

 一人でため息を吐いていると、後ろからポーンと背中を叩かれた。


「なーに、ため息なんか吐いてるの久木くん」


 後ろから現れたのは、姫乃の友達だった。その数3人。


「長袖党は孤独なんだよ」


「は? ながそでとう? なにそれ」


「いや、知らんでいい」


 姫乃の友達たち(全員半袖)を見て、またため息を吐く。なんだよ、もうそんなに長袖は少数派なのか?


「……ははーん。私わかった。」


「へ?」


「可愛い彼女を三谷くんに取られて、いじけてるんでしょ?」


「違う!」


 そりゃあ、ちょっとは嫉妬とかないわけではないが、こんなしょうもないことで、いじけたりなんかしない。


「ダメだよ久木くん。男なら力づくでも、惚れた女は取り返せー!!」


「せー!!」


「せー!!」


 3人が、同時に俺を突き飛ばした。

 女性とはいえ、3人分の力を受け止めきれるわけもなく。俺は姫乃たちの方へ飛ばされてしまう。


「うわああ! ちょ、避けてくれええ!」


「きゃあっ!」


 身体に感じる、柔らかい感触。

 掌には、ものすっごいプ二プ二したマシュマロみたいな物体が……、これは……まさか……。


「あ、なんだ二の腕か」


「し……修也……?」


「はっ!?」


 マズイ。二の腕だからって、事態は何も変わらない。

 状況を客観的に見て見よう。俺は、姫乃に半ば抱き付くような形になってしまっていた。しかも、姫乃は半袖だから、二の腕には直接さわっているわけで。


「……き……き……」


 みるみる真っ赤になっていく姫乃。

 とっさに身構えるが。


「きゃあああああああああ!!!」


「ごふっ!!」


 見事なハイキックに、俺の顔面をは撃ち抜かれた。

 あの一件以来、姫乃の男性恐怖症は少なくとも俺に対しては改善しつつあり、手くらいなら繋げるようになった。なったのだが、最近は俺が不意に触ってしまったりすると、条件反射でハイキックが飛んでくるようになってしまったのだ。

 あの時のように怯えられるよりは全然マシなのだが……。


「あ、ごめん修也! 大丈夫!? 修也!?」


 薄れゆく意識の中、俺は焦る姫乃の声を聞きながら俺は思った。

 確かに、俺は姫乃の男性に対する恐怖を少しは取り除いてやれたのかもしれない。でも、大きすぎるそれに隠れていた、小さな病まで取り除くことはできなかったのだと。そう



 ――男嫌いは治せない。




白崎さんの髪型について。

作中では、長めのショートボブとありますが、自分はセミロングくらいを想像しています。そのへん割と適当ですので、皆さんのお好みでどうぞ。

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