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『船長! 航海長! 出港準備が整いましたぜ!』
伝声管から聞こえてきた声に、アデライードは頭上を振り仰いだ。
「すぐ甲板に上がるわ! 全員、定位置に待機!」
『アイ!』
「俺は先に行ってる」
短く言って、サイファが医務室を出ていった。
その後ろ姿を見送ってから、アデライードは立ったままだったカーツに向き直る。
この船の乗組員に迎えることに決めた青年は、並んで立つと意外と背が高いことに気付いた。
荷役をしていたり、以前は飛船乗りだったというだけあって、身体は引き締まっている。
明るい色の柔らかそうな金髪に、碧緑の瞳。彫りの深い顔立ちはシュヴァルツ帝国人らしいが、帝国人に多い堅苦しさはない。
先ほどサイファと話していたときは、緊張していたのか鋭い目付きだった。だが今は、目尻が緩んで親しみやすそうな雰囲気に戻っている。
「もう出港になるわ。しばらく慌ただしくなるから、船員のみんなへの紹介は上空に行ってからね。カーツはどうする? それまではここにいる?」
「よければ、俺も甲板に上がらせてください。この船がどんな船か見てみたいんです」
先ほどサイファに言われたことを気にしているのか、カーツの言葉遣いは丁寧なものに変わっていた。
アデライードにとってはくすぐったく感じるが、船員として雇うと決めた以上は、船上の秩序のために仕方がない。
「もう身体は平気なのね? じゃあ、一緒に行きましょうか。クォーターデッキの端にいてちょうだい」
念のために船医にも視線だけで確認するが、メレディスも頷いたので、本当に大丈夫なのだろう。
「ありがとうございました」
船医に向かって頭を下げるカーツを待って、アデライードも医務室を後にした。
出たところは、窓のない短い廊下になっていて薄暗い。右手は通信用の小部屋とアデライードの船長室。そして左手が甲板に繋がる扉だ。
その扉を開けると、目を射る明るさが差し込んできた。
反射的に琥珀色の瞳を細めて、扉を開け放つ。
「アデル船長! みんな待ちくたびれてますぜ!」
甲板に現れたアデライードを見かけた船員が気安く声を掛けてくる。
「待たせたわね。出港するわ! みんなも準備はいい?」
「もちろんですよ!」
口を揃えて返ってきた答えに、アデライードは破顔した。それから、ざっと甲板の様子に目を走らせる。
この飛船には、第一マストとメインマスト、二本の帆柱がある。甲板に立つ柱の間は二十歩ほど。その甲板の表面は、長年ブラシで磨かれて木材が白くなっていた。
甲板には予備の綱や木材、帆布が所狭しと、だが整然と置かれている。その間を、出港準備に忙しく立ち動いている十人ほどの男たちは、この『黒の天鵞絨』号の船員の半分だ。
残りの半分は、飛船を飛行させる動力源の遺産を見ていたり、船倉で荷を確認したり、船外の最後の整備をしたりしているはずだ。
「なかなかに使いこまれた船ですね……でも、いい船だ」
アデライードの背後に従っていたカーツは、船上の様子を見てそう呟く。
「ありがとう。カーツの言う通り、この船は、廃棄寸前だったものを譲り受けているから、かなり古いけれど、みんな大切に想ってるのよ」
「うん。それはなんとなくわかります」
カーツがすんなり同意してくれたことは嬉しかった。たいていの新入りは、この飛船の古さを見て、まずは不安をあらわにするばかりなのだ。それに対して、カーツは船の状態を正確に観る目を持っているようだ。
そして何より、自分の船を褒められて喜ばない船長はいない。
「クォーターデッキはこっちよ」
今出てきた扉のすぐ横に、上へ向かう傾斜の急な階段が取り付けられていた。
そこを上がれば、船尾上層甲板である。
クォーターデッキは、それほど広い空間ではないが、飛船のいわば指令塔だ。船の方向を決める舵輪があり、船内各所と繋いだ伝声管が集まり、船長はここで船中の情報を把握して、指示を出す。
そこには既にサイファがいて、舵輪を握る船員と何やら話し込んでいた。
「じゃあ、カーツはどこか邪魔にならないところにいてね。あんまり端に寄り過ぎて、船縁から落ちたりしないように」
「アイ」
素直に答えたカーツは、クォーターデッキの上り口とは反対側の端、甲板の様子がよく見える柵のあたりに移動した。確かにその場所なら、甲板上を行き交う船員たちを妨げることもないだろう。
それを見届けてから、アデライードは航海長に近付く。
「サイファ、お待たせ。出港しましょう」
「ああ。準備は整っている」
無愛想な返事だが、それはサイファのいつものことだ。アデライードは頷いて、船の前方に向き直る。
それから、胸いっぱいに息を吸い込むと、右手を振り上げた。
「出港よ!」
その指示を待っていたとばかりに、ごおおんっ、と動力炉遺産が唸りを上げた。飛船全体を揺らす動力炉の振動が、足元にも伝わってくる。
「桟橋確認!」
アデライードの傍らに移動していたサイファの指示に、船員の男たちが機敏に反応する。
桟橋と甲板をつなぐ渡り板は既に外され、船倉の跳ね上げ式の扉も格納されている。
桟橋では、港湾係官が離陸を許可する白い旗を振っている。
それらを確認し終わって、サイファはアデライードに頷いてみせた。
「よし。離陸!」
少女船長の号令に続いて、動力炉がさらに大きく鳴った。
身体に下向きの力がかかる。
それが軽くなったと感じたときには、もう飛船は浮き上がっていた。
船体を支えるために、両脇に何本か突き出していた棒が、するすると船内に引き込まれる。
その間にも、船はぐんぐんと垂直に上昇を続ける。
地上は既に、港に泊まる他の飛船がいくつも見下ろせるほどに遠い。人の姿は辛うじて判別できるくらいだ。
やがて、ずいぶんと下になった桟橋から、ピーッと高い笛の音が届いた。水平移動可能な高度に達した合図だ。
「展帆!」
「アイ!!」
甲板に向かってアデライードが放った声に、男たちはいっせいに頷くと、帆柱に取り付いた。
するするとシュラウドを登り、帆桁に移る。帆を纏めていた綱が外されると、ばさりと白い帆が広がった。
甲板に残っていた船員は、帆の向きを制御する帆綱を引っ張る。帆桁が引かれて軋む音と、呼吸を合わせる掛け声が船上に響く。
帆を膨らませる風が、クォーターデッキも吹き抜ける。アデライードの鮮やかな赤金の髪がその風になぶられて軽やかに広がる。
ほどなくして、帆の展開が終わった。
その様子をじっと見ていたアデライードは、陽光を弾く帆の白さに目を細めて、にっこりと微笑んだ。
「お疲れさま。それじゃ出発よ!」
「十二時方向へ全速前進!」
航海長の指示に従って、飛船が徐々に速度を上げながら、水平方向に進み始める。
アデライードたちの新たな船路の始まりだった。