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ドルトムント港の港湾事務所から出たところで、アデライードは同行者に気付かれないようにこっそり溜め息をついた。
「ったく、役人のヤロウ、威張りやがって……! 俺は技師なんだぞ……!」
アデライードの後に続いて出てきた船員のウェンリーは、不機嫌な呟きを吐き続けている。
「何が『お前は何が言いたいんだ?』だ。ちょっとくらいの訛りがなんだってんだよ。てめぇがおキレイな帝国語喋ってるのは、単にこの国生まれなだけだろうが……」
まだしばらくは腹の虫が収まらなさそうなウェンリーを、アデライードは振り返った。
「この帝国の役人が高飛車なのは仕方ないわよ。何しろ西大陸随一の勢力を誇るシュヴァルツ帝国だもの。わたしたちみたいな民間の発掘屋なんて、彼らから見たらどうでもいい存在でしょ」
いちいち気に掛けていたらやっていられない、とアデライードは思う。だが、ウェンリーは苛立ちを鎮めきれないようだ。
「船長は、ヤツらに馬鹿にされたままでいいのかよ」
「わたしたちが有能な発掘屋で、勇敢な飛船乗りだってことは、わたしたち自身が一番わかっていることじゃない。他の飛船乗りに侮られたわけじゃないんだし、放っておけばいいわ」
まだ不服そうな顔のウェンリーだったが、アデライードはそこで話を打ち切ると、自分たちの船に向かって歩きだした。
港湾事務所のお堅い事務官と、気性の荒い者が多い飛船乗りでは、諍いが起こりやすいのは仕方がない。アデライードとしては衝突は避けたいから、できることなら彼らを引き合わせずに済ませたかった。
だが、発掘された遺産を、正規に港で通過させるためには、遺産の専門家である技師の立ち会いが不可欠だ。『黒の天鵞絨』号の所属技師であるウェンリーを連れて来ないわけにはいかない。
険悪だった事務所の空気を追い出すように、アデライードは大きく息を吸い込む。活気溢れる港の風に晒されて、気分はずいぶん上向いた。
昼下がりの港は、様々な音に満ちていた。
上空から聞こえるのは、入港してくる飛船の動力炉遺産が発する、ごぉんごぉん、という重低音。
かつーん、かつーんと軽快に響くのは、船体を修復する木槌と鑿の音。
それらに重なるのは、荷を積み込む船員や荷役たちの掛け声。荷を運ぶ馬や驢馬の嘶き。所構わず始められる商売人たちの声高な取り引き。血気盛んな飛船乗りたちが些細なことで始める喧嘩。制止する声と囃し立てる声。船乗り相手に、日用品や食品その他必要と思われる物を売り付けようとする物売りや女たちの声。
そんなものが全部集まって、港独特の旋律を生み出している。
港が違ってもその旋律は変わらない。アデライードにとっては、幼い頃から馴染んできた、心地よさすら感じられるものだ。
「よう、アデル! 船の調子はどうだ?」
「おかげさまで、古い船だけど、よく頑張ってくれてるわ! そっちはこれから出港? 気を付けて!」
「アデライード! 最近は成果上げてるか?」
「まあまあね。そろそろ新しい遺跡が出てほしいところだけど、いい場所知らない?」
「黒天鵞絨の嬢ちゃん! またヤツとやり合ったそうじゃないか!? 決着つかねーなぁ」
「次は絶対に決めてみせるわよ! そっちこそ、奥さんと決着ついたの!?」
「やあ、アデル嬢! 美人のお母さんは元気かい?」
「故郷の港で元気にしてるはずよ!」
「アデル船長! うちんとこの干し豆を仕入れないかい? 安くしとくよ!」
「うちの船の財布は、締まり屋の航海長が握ってるの。彼と交渉して!」
アデライードが歩いていると、船の上や道端から、次々と声が掛かる。彼女はそのどれに対しても、気安く明るい声で返事をしていた。
雑多な港の中でもアデライードの赤金の髪は目を惹いた。
その髪に縁取られた整った顔立ち、真っ直ぐな眉の下の琥珀色の瞳は、いつも好奇心旺盛に輝いている。
厳つい男たちの中にあっても埋もれずに快活に動き回る少女の姿は、他の飛船乗りたちから好意的な目で見られている。
そうしてあれこれと言葉を交わしながら、アデライードとウェンリーが自分たちの船の手前まで戻って来たときだった。
どさどさっと、重い音が耳に入ってきた。
続いて慌てたような人々の声。
「ありゃー、荷でも崩れたかな」
「うちの船の方ね。急いで戻りましょう!」
動きの鈍いウェンリーを残して、アデライードは駆け出す。
すぐに下層の桟橋に着くと、そこには小さな人だかりができていた。
「まずは荷をどけろ! もう一度崩れないように、上から慎重に!」
動転した現場の中で、一人冷静な指示を飛ばしているサイファの後ろ姿を見付けて、近付いた。
「何があったの? みんな大丈夫?」
「アデル。……見ての通りだ。考えなしのリュークのせいでな」
サイファが軽く顎を向けた先には、既にサイファに厳しく叱責されたのだろう、悄然として肩を落としている見習いの少年の姿があった。
「アデル……ごめん。オレのせいで……」
「アデライード船長、だろう。弁えろ」
「……船長。ごめんなさい。オレが飛び降りたら、ちょうど荷が通り掛って……」
「リューク……処罰は船に戻ってからね。ひとまず先にここを片付けましょう。サイファ。荷は大丈夫?」
「幸いなことに、崩れたのは織物の包みだ。嵩張るし重さもあるが、これくらいで傷付くものじゃないだろう」
そう言っている間にも、荷役の男たちと船員たちの手で、山になっていた荷は少しずつ荷台の上に戻されていく。
「そう。なら良かっ……待って! そこっ!」
アデライードの視界に、金色の柔らかそうな何かが映った。
最初は、包みがほどけて、織物の糸が覗いているのかと思った。
だが見直してみると、その金色の下には肌色が見える。すぐにそれが人の頭だとわかった。
「誰か下敷きになってるわ!」
「何!?」
「おい、誰だっ?」
男たちが騒然となった。
荷崩れ直後に周囲を見回したときには、知ってる顔は揃っていたので、誰も巻き込まれていないだろうと皆が思い込んでいたのだ。
「急いで荷を除いて! それからリューク! メレディス先生を呼んできて!」
言いながら、アデライード自身もその人物の上にある荷をよける作業に加わる。
リュークが船医を呼びに甲板に駆け戻っていく。
様子を見ていたサイファやウェンリーも加わって、荷が片付けられていく。
すぐに荷の下敷きになっていた人物の全身が出てきた。
それは若い青年だった。
織物の糸かと思った柔らかそうな金色の髪は、閉じられた目に乱れてかかっている。
身に着けているのは船員と同じ簡素なシャツとズボン。だが、船員を表す空色のスカーフはない。
頭でも打ったのか気を失っているが、ざっと見た限りでは特に怪我をしている様子はなかった。息もちゃんとある。
荷で汚れた顔は、ここシュヴァルツ帝国人らしい彫りの深さだ。
「誰? 知ってる人はいる?」
少なくとも、『黒の天鵞絨』号の船員ではない。
荷役たちを伺うと、彼らも心当たりがないのか、互いに顔を見合わせている。
「……誰も知らないの?」
改めて問いかけたアデライードに、その場にいた者たちは、揃って首を振った。