2
「アデル船長!」
「お気を付けて!!」
背後から掛けられる仲間たちの声が、彼女を守るように黒天鵞絨のマントに吸い込まれてくる気がする。
顔は前に向けたまま、ちらりと左舷の向こう側の空に視線を送った。
カーツに確保してもらった好機は今しかないのだ。無駄にはしたくない。その点でも、ここで負けるわけにはいかない。
心の中に温かな碧緑の瞳が浮かんだ。
あの異質な飛行艇の中でも、きっとカーツは変わらない瞳でこちらを見てくれているのだろう。何の不思議もなくそう思えた。
そのことでまた黒天鵞絨の重みと厚みが増した気がした。
船首甲板に続く階段を、一歩ずつ踏み締めながら上る。
イーサンも乗り込んできた船員たちも未だにやにやと笑っていたが、その場から動かずに大人しくアデライードを待っていた。
そのただ中に、恐れることなくアデライードは立ち止まる。
「言った通り、一対一の勝負よ、イーサン。あなたが勝てばこのマントはあなたのもの。わたしが勝てば、そちらの飛船と『黒の天鵞絨』号の名前を返してもらうわ」
「いいのか? 帝国軍に追われているんだろう。マントも『黒の天鵞絨』号の名前も手放せば、お尋ね者の札もなくなるぞ」
「そもそもはイーサン、あなたの罪の濡れ衣よ。あなたが悔い改めて出頭すれば解決するの」
「お互いにできないことを言い合っていても仕方がない。アデル。お前の酔狂に付き合ってやろう。その黒天鵞絨と私の飛船を賭けて」
「あなたの飛船じゃないわ」
「なに。すぐに名実共にそうなるさ」
イーサンは背後の男たちを控えさせると、ゆっくりと前に出てきた。アデライードの数歩手前で足を止めて、腰に戻していた剣を抜くと片手でゆったり構える。
アデライードも薄手のナイフを腰から引き抜くと、身体の正面で両方の手でしっかりと握った。
このナイフで、緑深い遺跡に潜る際に邪魔な蔓や蔦を切ったり、あるいは夜行性の危険な獣を仕留めたりはしたことはあるが、人を傷付けたことはない。
一方のイーサンは、ウェンリーをあっさり斬り捨てたことから見ても、人に対して武器を使った経験も多そうだ。
喉を鳴らして唾を飲み込んで、アデライードは目の前に立つ男を睨み据える。
今さら経験の差を気にしても仕方がない。何より、武器使用の経験を自慢にするつもりはない。
(ただ、守りたいのよ。船員のみんなを。この黒天鵞絨のマントを。父さんの誇りを——それがすべて)
そう自分に言い聞かせる。
深く息を吸って、軽く止める。その息を鋭く吐き出すと同時に、アデライードは甲板を強く蹴った。
低い位置からイーサンに近付く。剣の間合いの内側に入り込むつもりだった。
けれど、突き出したナイフはあっさりとイーサンの剣に跳ね上げられる。
衝撃に腕を痺れさせつつも、なんとかナイフは取り落とさなかった。
身体を捻って転がるように後退し、床板に片手を付いて素早く身を起こす。
「ちょこまかと動くのは昔から得意だったな、アデル。身軽に動くには、そのマントは重いんじゃないか?」
イーサンの挑発には乗らない。
嘲弄の言葉は無視して、アデライードは再びイーサンの元に向かった。
彼の脇をすり抜けて背後に回ろうとして、けれどまた剣に阻まれる。
同じようなことが重なって繰り返され、気付いたときには、アデライードは船首甲板の船縁に追い詰められていた。
軽い身ごなしのおかげでまだ一筋も傷を受けてはいなかったし、瞳の強い輝きは少しも減っていない。けれども、口から吐き出される息は荒く、額からは汗が吹き出ている。
一方のイーサンはまだまだ余裕だった。息も乱さず、アデライードのナイフはすべて躱していた。
アデライードは素早く周囲に視線を走らせる。左舷の向こうに一瞬意識を奪われ、次にイーサンの船との衝突で折れた斜檣とたるんだ索具が目に入った。その索具は、船首甲板を越えて、第一マストにつながっている。第一マストの最下段の帆桁は、船首甲板のすぐ先だ。
アデライードは横に走り出した。
彼女が自分に向かってくるものと思っていたイーサンは、予想外の動きに反応が遅れる。その隙に船首甲板の端まで来たアデライードは、そのまま勢い良く踏み切った。
ふわり、と黒天鵞絨が翻り、そのマントが落ち着いたときには、アデライードの身体は帆桁の上に移動していた。
「自ら逃げ道を断つようなものだぞ」
船首甲板の端に追い付いたイーサンが、呆れたように言う。それにアデライードは笑って返した。
「甲板でふんぞり返っていたあなたには、もうシュラウドに登る腕がなくなってしまったかしら?」
「……ふん。いいだろう。足場の悪いところに自分から向かうなら、付き合ってやるさ」
イーサンはいったん甲板に下りて第一マストの根元まで行くと、剣を片手に持ったままシュラウドを登り始めた。それを見て、アデライードはさらに上の帆桁を目指す。
風に揺れるシュラウドを登るアデライードとイーサンの姿を、甲板にいるサイファを始めとした船員たちは、ただ固唾を飲んで見つめていた。迂闊に声を上げることも手を出すこともできず、皆、眉が険しく寄り、拳が堅く握り締められている。
天辺の帆桁に辿り着いたアデライードは、危なげない足取りでその上に立ってイーサンを待つ。
シュラウドも帆桁も、子供の頃からの彼女の遊び場だった。船長になっても、シュラウドに登ることは日課だった。この場所だったら、剣技の差を埋められるかもしれない。
やがて遅れてやってきたイーサンも、帆桁の上にゆっくりと立ち上がった。
「さて。そろそろケリを付けようか。今からでもマントを差し出してくれれば、悪いようにはしないよ、アデル。お前は偉大なるロイの娘だ。それなりの扱いはしてやろう」
息を弾ませるアデライードを嬲るように、イーサンは唇の端を引き上げた。薄灰の瞳の目尻も細められているのが、かえって嫌な気分を増殖する。
「思ってもいないことを言わないで! 父さんを陥れておきながら!」
「おや、心外だな。私は今でも変わらずにロイを崇拝しているよ」
肩を竦めてみせたイーサンの態度は、アデライードの感情をいっそう煽る。
「ふざけないで。だったら、どうしてあなたがその船の船長をしているの。どうして、父さんを裏切ったのよ!」
「裏切ってなどいない」
「……どこがっ!? あなたは父さんに何をしたと……っ!」
「私は、ロイを永遠に偉大な存在にしただけだよ」
「……え?」
剣を構えてアデライードを追い詰めているというのに、イーサンの視線はどこかここではないものに向けられていた。
「ロイは本当に素晴らしい男だった。発掘屋としても、飛船の船長としても。彼の部下として空を駆けるのはとても誇らしかった。……だが、ロイも年齢には勝てなかった。四十を過ぎてから、わずかずつだが衰えが見られるようになってきた。しかし、そんなことを許すわけにはいかない。ロイはいつまでも偉大な船長でなくてはならない。だから、誰の目にも彼の衰えが明らかになる前に、彼が素晴らしさを維持している間に、私がロイの老いを止めてやったんだ。それが長年ロイの片腕を担ってきた私に相応しい役目だろう?」
滔々と語り終わったイーサンは満足気に息を吐き出した。
イーサンの言葉が途切れると、アデライードの周囲は静かだった。不思議なくらい音が耳に入ってこなかった。
代わりにアデライードの中では、たった今イーサンから聞かされた言葉が何度も巡っていた。
台詞が一巡するごとに、彼女の内側でふつふつと沸き上がってくるものがあった。それは、怒りとか悲しみとか、単純なものでは言い表せない。複数の想いが入り交じっていて、ただ、アデライードを前に駆り立てた。
「……そんな。そんな勝手な理由で、父さんを……っ!」
持っていたナイフを力の限りで投げ付ける。
自分の語った内容に陶酔していたイーサンだったが、身を捩ってナイフを避ける。
ナイフは彼の左肩を軽く切り裂いただけで、向こうへと飛んでいく。
反対にイーサンが剣を大きく振り上げる。
そのとき、飛船を四度目の衝撃が襲った。
突然の振動に、帆桁の上に立っていた二人の身体も大きく傾ぐ。
「飛行艇部隊!」
急接近してきた軍団の姿に、下方の甲板から驚愕の声が上がる。
だが、先の一瞬で飛行艇の接近に気付いていたアデライードは、心構えができていた。
素早く身を屈めて、帆桁に掴まり、揺れに耐える。
一方のイーサンは、剣を振り上げていたこともあって、完全に対応が遅れた。
体勢を立て直すことができないまま、帆桁から足が離れる。そのまま落ちていくかに見えたが、帆桁のすぐ下でイーサンは止まっていた。
とっさに剣を放り投げて、辛うじてシュラウドの端の一本を握ったようだ。
「……くそっ!」
アデライードだったら、簡単に索具に手足をかけて、すぐに帆桁に戻ってこられる場所だ。だが、イーサンは揺れる索を上手く掴めずに身体を捩っている。
なんとかもう片方の手もシュラウドに伸びかけた時、更なる衝撃が飛船に加わった。
大きく揺れた船体に、乗っていた全員が身体を揺さぶられる。
シュラウドも大きく波打った。
「イーサンっ!」
身体を支え切れなかったイーサンの手が索から離れて、揺れの勢いで大きく空中に投げ出された。
帆桁に抱きつくようにして衝撃に耐えていたアデライードの目前で、飛船と飛行艇の隙間を、イーサンの身体が落下していく。
それはまるで時間が引き延ばされているかのようにゆっくりと、アデライードの目に焼き映された。
飛船と飛行艇の影を過ぎ、何もない空中に放り出された身体は、そのまま地上の緑に吸い込まれるようにどんどんと小さくなっていく。
こちらを見つめるイーサンの顔は、最初こそ驚きと悔しさに歪んでいたものの、途中で見慣れた冷たい笑顔に変わった。
その表情が見えなくなって、やがては地上の森の緑に紛れて、彼の身体の行方もわからなくなる。
「イーサン船長!」
「船長!!」
「イーサンっ!!」
イーサンの部下もアデライードの船員たちも船縁に集まってそれぞれの思いで叫んでいたが、どれひとつとして届くことはなかった。
「……アデル」
地上を見つめたまま動きを止めていたアデライードだったが、甲板から見上げていたサイファの声が聞こえた気がして身体を起こした。
「……」
何か言葉を返そうとして、けれど音になっては何も出てこなかった。
そのまま無言でシュラウドに移り、滑らかに甲板まで降りてくる。
降り立ったところで、ふと、甲板に転がっていたイーサンの剣が視界に入った。持ち主は船上から揺り飛ばされたのに、剣の方は甲板上に残っていたようだ。
アデライードはそれに近付いて、そっと持ち上げる。ずしりとした重みが手に掛かった。
逆手に持ち替えて、思い切り甲板に突き立てる。
がっ、と鈍い音がして、剣先が甲板に潜り込む。
縫い止められた剣の柄に片手を乗せて、アデライードは甲板を見渡した。
二つの飛船の男たちが入り交じって、彼女の次の言動を注視している。
こちらからは見えないが、すぐ隣に横付けされている飛行艇の中からも視線を感じる気がする。
それらをぐるりと見据えて、アデライードは静かに宣言した。
「争いはこれで終わりよ。『黒の天鵞絨』号は返してもらうわ」
ばさり、と黒天鵞絨のマントを払う。
つられて舞い上がった赤金の髪が、鮮やかに陽光を弾く。
唇を噛み締め眉根を寄せたアデライードだったが、その姿はとても鮮やかで、船員たちの瞳に深く刻まれたのだった。




