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飛船の下では、地上の景色が高速で流れて行く。
複雑に動く風がアデライードの赤金の髪を舞い上げる。
乱れる髪を気にせず立つ彼女の傍らで、航海長のサイファが細かく指示を叫ぶ。
「速度落とすな! 面舵! 高度上げろ!」
舵手はその指示に忠実に舵輪を回す。動力炉遺産が唸りを上げる。船体が軋んで小刻みに揺れながら、機敏に角度と高さを変える。
「みんな、固定具の準備はいい? 接舷したら、少しでも先にあっちの船に渡るのよ!」
自分も鈎縄を片手に、アデライードは舷側に集まった船員たちを奮い立たせる。
呼応する声は、目と鼻の先に迫ったイーサンたちの船にも届いたのだろう。対抗するかのように、向こうからも怒号が沸き起こった。
二つの飛船は、接触しそうな距離まで近付いている。
背後から迫ってきたイーサンたちの船に対して、少しでも有利な位置で接舷しようとサイファが巧みに船を操っていたおかげで、相手よりも僅かに高度を保って右舷側に誘い込むことに成功していた。
船に乗り移るには、高い方が断然に有利だ。
アデライードは舷側から身を乗り出して向こうの船の様子を確認する。敵船の甲板にも縄や武器を持った男たちが群がっていた。
その中に薄灰色の冷酷な瞳を見付けて、アデライードは奥歯を噛み締めた。
イーサンの方もアデライードの姿に気付いたのだろう。不利な形で接舷されそうな状況にも関わらず、唇を歪めて嘲笑を見せる。
「イーサン……っ!」
舷側を握る手に力が籠る。そんな彼女を力付けるように、背後から仲間たちの声が上がった。
「あんな卑怯なヤロウにこれ以上好き勝手させねぇぞ!」
「ロイ船長の代わりになんかさせるか!」
「アデル船長が一番だ!!」
その声に背中を押されて、アデライードはサイファに叫んだ。
「サイファ! 接舷!」
「アイ!」
サイファが舵手に指示を出そうとしたそのとき。
がくんっ、という衝撃を伴って、アデライードたちの船が大きく揺らいだ。
「……っえ!?」
何が起きたのか、すぐにはわからなかった。
目の前をイーサン船の舷側が掠める。
飛船の高度が下がっている、と理解すると同時に、動力炉遺産の重低音が途絶えたのにも気が付いた。
「何っ!? 動力炉に何かあったの、ウェンリー!?」
動力炉遺産の側に付いているはずの技師に問いかけるが、返事は戻ってこない。
「どうしたのっ!?」
応答のない伝声管に焦れて、動力室まで様子を見に行こうかと舷側を離れる。そのとき、二回目の衝撃がきた。
止まっていた動力炉が再び唸りを発する。身体がぐっと押し上げられる感覚。下がりかけていた船体が持ち直し再上昇する。
そのことに安心できたのは一瞬だった。
「危ない!!」
アデライードの警告は間に合わなかった。
出力を回復した動力炉が全力で持ち上げた船体は、舵手の制御を越えていた。
三回目の衝撃が一番大きかった。
甲板にいた面々は投げ出されまいと必死に手近なものに掴まる。
飛船全体が悲鳴を上げるように軋む。
船腹が擦れ、木材が裂ける嫌な音が耳に入る。
「ああっ……!」
音の方向を見たアデライードの瞳に映ったのは、彼女の飛船の無惨な姿だった。
イーサン船に擦り寄るように突き込んだ船首は、しかし向こうの船腹には擦り傷程度しか与えていない。一方でこちらは舳先の斜檣がばきりと折れ、固定されていた索具がだらりと緩んでいる。
しかも、それをゆっくり嘆いている暇も、何が起こったか冷静に分析する暇もなかった。
「よし、今だ! 乗り込めーっ!!」
イーサン船の甲板から掛け声が聞こえた、と思ったら、鈎縄や縄梯子が上から放り投げられてきた。
はっ、とアデライードは頭上を仰ぎ見る。
今の異常で形勢は逆転していた。
相手の方が高さがある上に、こちらは細い船主を向こうの舷側に接している。向こうから乗り込むには都合が良く、こちらが乗り移ろうとするには非常に不利な状況だ。
「みんな、構えてっ!」
突然の事態にまだ呆然としていた船員たちは、アデライードの声に我に返って身構える。敵が乗り込んでくるのを防ぐのはもう難しいが、ただ蹂躙されるわけにはいかない。
船首甲板にイーサン船から次々と男たちが乗り込んできた。甲板で迎えるアデライードの仲間たちと睨み合って対峙する。
そこに一歩遅れて一人の男が乗り込んできた。飛船乗りにしては穏やかそうな笑顔と、それを裏切る冷酷な薄灰色の瞳。イーサンは腰に下げた剣を鳴らしながら悠々と歩いて、船首甲板の端に片足を乗せアデライードを見下ろした。
「やあ、アデル。直接会うのはいつ以来だろうな。ようやく決着がつけられそうじゃないか」
「まだどうなるかわからないわ、イーサン……っ!」
けっして雰囲気で負けるわけにはいかない。アデライードはこの二年間のありったけの思いを琥珀の瞳に込めて、イーサンを睨み据えた。
アデライードとイーサンの背後に集う船員たちも、それぞれが互いの船長を盛り立てようと熱い視線を交わす。いつ争いの口火が切られてもおかしくないくらい、両者の緊張が高まる。
けれど、その張り詰めた空気を乱す者がアデライードたちの背後から現れた。
「イーサンの旦那!」
「……ウェンリー!?」
飛び出してきたのはウェンリーだった。先ほど暴走した動力炉遺産を見ていたはずの技師がなぜこんなところにいるのか。何より、なぜイーサンに擦り寄っているのか。
アデライード側は皆、目まぐるしく変わる状況に戸惑いを隠せない。
「イーサンの旦那。どうですか? 上手くやりましたよね、俺」
「……ああ、そうだな」
「でしょう! 今の動力炉の混乱と、こないだ教えた新遺跡の場所。これで約束通り、俺をそっちの船に乗せてくれますよね!?」
「……何ですって、ウェンリー!?」
ウェンリー自身が明かした真相に、アデライードは目を見開いた。
新遺跡の情報をイーサンに洩らしたのは、ウェンリーだったのだ。自分の犯行を隠すために、カーツに罪を擦り付けようとしていたのか。今の動力炉の暴走も、遺産担当の彼なら簡単なことだ。
カーツとの通信で『気を付けろ』と言われたことを思い出す。ウェンリーが内通者であることをカーツは知っていたのだ。この飛船の通信内容を聞けたのだから、ウェンリーとイーサンのやり取りも聞いていたのだろう。
けれど、にわかには事実を受け入れたくなかった。確かにウェンリーは扱いやすい船員ではなかった。それでも二年間は行動を共にしてきた仲間だったのだ。
「ウェンリー……あなたが、イーサンに協力していたなんて……」
「ふん。悪いが俺はもうあんたについていく気はないぜ、アデル。男にふらふらたぶらかされるヤツを船長にしておく馬鹿どもと一緒にいるのもうんざりだ。俺はイーサンの旦那の船で技師としてやり直すんだ」
「なんだと、このヤロウ……っ!」
「馬鹿はどっちだ!」
嘲る態度を見せるウェンリーに、船員たちがいきり立つ。
だが、ウェンリーはそんな同僚たちのことなど気に留めずに、イーサンに向かって歩き出す。
イーサンもその背後の男たちも、仲間に裏切られたアデライードを嘲笑っているのか、にやにやとした笑いを浮かべている。
「イーサンの旦那、約束ですよ。褒美をくれるんでしょう」
ウェンリーがイーサンの前に辿り着いたときに、その笑みが一番深くなった。見ていたアデライードが、ぞわりと嫌な感覚を覚えるほどに。
「ああ、そうだな。私が自ら与えてやろう」
そうしてイーサンが大きく腕を振った。
次の瞬間、耳にこびりつくような苦悶の叫びが響く。
続いて目に入ったのは、吹き出す多量の血。
「……ウェンリーっ!!」
「……っぐぁ……だ、旦那……な、なんで……?」
「船長を易々と裏切るような愚か者を誰が雇うか。しかも、ロクな能力もない技師を」
イーサンは冷めきった瞳でそう言い放つと、たった今ウェンリーに斬りつけたばかりの剣でその身体を押しやる。かろうじて立ったままだったウェンリーは、後ろに倒れこんで、そしてそのまま動かなくなった。
自分が斬り捨てた相手の服で血に汚れた剣を拭って、イーサンは剣を腰に戻す。
「ふん。自分が利用されていたとも知らずに、馬鹿が」
そう言い捨てたイーサンの背後で彼の船員たちが笑い声を上げた。
人が一人殺されたというのに、それを気にする様子のない男たちに、アデライードは目眩がしそうになった。
「イーサン……っ! なんてことを……っ!!」
「おや、アデル。私はお前の代わりに裏切り者を処分してやったんだ。感謝してくれたっていいだろう?」
「……っ!」
あまりにもあっさりと言われて、アデライードはその場に立ち尽くす。
怒りは薄暗い闇がひたひたと押し寄せるように、ゆっくりと足元から全身を這い上がってきた。
拳を握り締める。唇を噛み締める。ぎゅっと目を閉じる。眉根が険しくなる。
頭の先まで怒りに覆われて、けれど心の一部は冷静だった。その心が、今の状況を静かに分析する。
そして、琥珀色の瞳を開き、じっと敵の男を睨み据えた。
「イーサン……あなたの目的はわたし一人、この黒天鵞絨のマントだけでしょう。だったら、無駄な争いは避けて、わたしと一対一で勝負しましょう」
「……ほう」
「おい、アデル! 冗談を……っ」
面白そうに眉を上げたイーサンに対して、アデライードの背後にいたサイファは焦って彼女の前に立ちはだかった。
「本気よ。今のイーサンの仕打ちを見たでしょう。正面から戦ったら、被害は確実に大きくなる。それは避けたいの」
「だからって、一人でなんて無茶を言うな。アデル、お前に何かあったら俺は……っ」
「私は構わないよ。アデルが船長として責任を全うしようというなら、それに敬意を表して、相手をしてやろうじゃないか」
切羽詰まったサイファの頭上を越えて、余裕たっぷりのイーサンの声が届く。自分が負けるとは少しも思っていない様子だ。
そのイーサンの態度にサイファの焦りがより深まる。
「アデル……っ!」
そんなサイファに、アデライードは落ち着いた笑顔を見せた。
「無謀かもしれないとは思うけど、まったく勝算がないとも思えないの。わたしだってこの二年間、それなりに頑張ってきたんだから」
発掘屋をしていて、腕力では男には敵わない。経験も父やイーサンにはまだ及ばない。その代わりに、身軽さ、身体の柔らかさ、変化を捉える視線、判断力、そういうものを磨いてきた。
「だから、わたしを信じて。わたしは、この黒天鵞絨の後継者なんだから」
マントの端を持ってばさりと広げる。
滑らかな天鵞絨の表面が陽光を受けて輝く。
それを見て、サイファは長い息を吐き出した。
「ここで行かせるから、俺はアデルに甘いんだ」
不機嫌に呟いてゆっくりと身体をずらしたサイファを、アデライードは引き留めた。両腕をサイファの身体に回して、ぎゅっと抱きつく。
「ありがとう、サイファ。後は頼んだわね」
突然のことにサイファは黒い瞳を大きくした。抱き締められた腕が震えながらアデライードの背に伸びかけて、けれど触れる前に元の位置に戻る。
「……頼まれない。頼まれないから、何事もなく戻ってこい」
子供の我が儘のような口調に、アデライードは頬を弛めた。
「それもそうね。じゃあ、言い直すわ。ありがとう、サイファ。みんなで待っていてね」
「ああ。行ってこい」
アデライードの腕から抜け出たサイファは、彼女の背後に回ると、肩越しにマントを整える。
それが終わるのを待って、アデライードは船首甲板に向かって足を踏み出した。




