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その日の空は久々に晴れ渡っていた。
陽光を存分に浴びて白く輝く満開の帆は、適度な風によって滑らかな曲線に形作られている。地上の緑の絨毯のような森には、アデライードたちの飛船の影がくっきりと浮かんでいた。
「視界良好。敵船影を視認」
クォーターデッキの船尾寄りから後方を眺めて、アデライードは航海長の報告を聞いていた。
既に肩に纏っている黒天鵞絨のマントが風に煽られる。豊かな髪が一緒に舞い上がって、赤金と漆黒の対比が鮮やかに翻る。
「距離は四。射程内だが、今日は撃ってこないだろう」
「そうね」
隣に立つサイファの意見にはアデライードも同意だ。
飛船同士の争いは、ほとんどが相手の船そのものや積み荷が目的だ。だから大砲は船を足止めさせる以上の攻撃には使われない。相手を墜落させてしまっては意味がないのだ。
これまでアデライードとイーサンは、まずは互いの船を止めるために鬩ぎあっていた。もっぱら大砲の応酬と射程の速度競争で、接船するほど近付いたことはなかった。
けれど、今回は違う。
『今日こそ決着を付けようか、アデル』
通信装置がイーサンの伝言を受け取ったのは今朝方。オラニエ共和国まであと一日程度の距離になるシュヴァルツ帝国の辺境まできたときだった。
決着とはつまり接船して白兵戦に持ち込むということだ。接近戦になれば、怪我人も、そして時には死者も出る。だが、そうしなければ争いが決着しない。だからアデライードは承諾を返した。
こちらに逃げる気はないのだから、足止めの大砲も必要ない。それがサイファの判断だ。
「やっぱり、あの船はきれいね」
薄藍色の空に浮かぶ本来の『黒の天鵞絨』号の姿に、アデライードはつい見いってしまう。
優美な曲線の黒い船体。すっと延びた帆柱に張られた白い帆。その帆をつなぐ索の線。力強さと繊細さを併せ持っている。
「今度こそ、取り戻す」
同じく船を見つめていたサイファに、アデライードは硬く拳を握って頷いた。
既に敵を迎え撃つ船内の支度はできていた。甲板上は足場確保のために可能な限り物が片付けられている。船員たちはそれぞれ武器を携えていた。アデライードも腰に薄手のナイフを提げている。
あとは、いかに自分たちに有利な時機と体勢で接船するかだけだ。船員たちも甲板に出てイーサン一行の船の動きに注視していた。
変化に最初に気付いたのは、檣楼の見張り番だった。
「アデル船長! 九時方向を見てください! あれっ!!」
切羽詰まった叫びに、アデライード始め船上の皆の視線が、左舷側に集まる。
だが檣楼手が何を発見したのかすぐにはわからなかった。
最初は、イーサンの船よりはかなり遠く、空色が霞むあたりにいくつかの点が寄り集まっているのが見えた。
鳥にしては大きいし速度もある、と思っているうちに、その点はどんどん接近してきて、距離が十五になる頃には、それの正体が判別できるようになってきた。
「……なんだ、あれ?」
「数が多いが……」
「っあれは……!」
「シュヴァルツ帝国飛行艇部隊……っ!!」
誰かの悲鳴のような叫びに、皆がそれを確かめるように彼方を凝視した。
近付いていたのは、飛船とはまったく異質な飛行物体の集団だった。
つるりとした流線型の細長い胴体。その両脇には平らな翼が突き出るように伸びている。帆も持たないのに悠々と空を進む銀色の姿——それは、飛行艇と呼ばれる。
飛船の動力炉は、先人たちが空を飛ぶのに使っていた乗り物の一部を取り出したものだ。乗り物ごと掘り出せないのは、たいていは外側が朽ちて脆くなっていて使えないからなのだが、ごく稀に乗り物部分ごと発掘され、空に浮く力も維持しているものがある。それが飛行艇だ。
その貴重な飛行艇で編隊を組み、空中の戦力としているのがシュヴァルツ帝国軍飛行艇部隊で、そんなことができるのも、国内に有力な遺産を複数保持しているこの帝国ならではである。
「なんで飛行艇部隊がこんなところに!?」
見慣れた飛船とはまったく異なる威容に、船員たちは引き攣った。
「待てよ、飛行艇部隊っていやぁ、カーツのヤロウが……」
「そういえばあの偉そうな軍人がそんなこと言ってたなぁ!」
「じゃあ、まさかあそこにカーツも乗ってるのか!?」
船上のざわめきが大きくなった。甲板からクォーターデッキのアデライードを気遣わしげに見上げる者もいる。
それらの会話はすべてアデライードにも聞こえていた。隣に立つサイファも心配そうな顔になっている。
そんなサイファに向けて、アデライードは大丈夫だ、というように微笑んだ。周囲にもわかるように努めて明るい声を出す。
「もしかしてわたしを追って来たのかしら。濡れ衣だっていうのに、面倒ねぇ」
飛船の倍程の早さで近付いてくる飛行艇の集団を睨んで、溜め息をつく。
それはアデライードの本心だった。
もちろん、あの部隊の中にカーツがいるかどうかは気になる。だが、飛行艇にカーツが乗っていたところでどうせ言葉を交わす機会はない。彼の本心を確かめることはできない。
今すぐできないことを思い悩むよりも、今はイーサンとの対決を帝国軍に邪魔されないかどうかの方が重要だった。
「飛行艇部隊がこの空域にたどり着くには、せいぜい半刻ほどだろうな」
「その前にイーサンとケリをつけるのは厳しいわね」
眉をひそめて、さてどうするか、と考えようとしたときだった。
『アデル船長! 通信です! 帝国軍から……カーツのヤロウです!!』
伝声管から響いた船員の声にアデライードの動きが止まった。
即座に反応したのはサイファだった。伝声管の向こうにいる船員に鋭い問いを送る。
「本当か? 用件はなんだ?」
『すんません、俺には通信装置の応え方がわからないんで……』
通信遺産の操作は技師でなくても慣れた船員なら可能だ。だが今日は熟練船員が戦闘要員として甲板に配置されているため、通信装置担当は経験の浅い船員だったようだ。情けなさそうな答えが返ってくる。
サイファは軽く舌打ちして、一瞬だけアデライードに視線を向けると、すぐに伝声管に怒鳴り返した。
「俺が行く! 待ってろ!」
「サイファ! わたしも……っ」
「お前はここにいろ、アデル。大事なときに余計なことに気を取られる必要はない」
「いいえ、行くわ」
そう言い切ったアデライードに、しばらくの間サイファは逡巡していた。だが、彼を見上げるアデライードの琥珀色の瞳が静かに落ち着いているのを見て態度を決めた。
「……わかった。だが、俺も行く。これは譲らんぞ」
「ええ。もしわたしが間違った判断をしそうだったら、遠慮なく止めてちょうだい」
冗談めかして笑ったアデライードに、サイファは眉根を寄せた。
「そんなお前を見たくないから、行くなといってるんだぞ」
「ごめんね。でも、多分、平気だと思うの」
カーツの名前を聞いて、確かにアデライードの胸の鼓動は早くなった。顔を合わせることはないだろうと思っていたから気にせずにいられたのに、それが覆されたのだ。彼の本心を問いただしたい誘惑が頭をもたげてきたのは否定できない。
けれど、カーツと別れた直後のように、彼のことから逃げ回りたいという気持ちはもうなかった。メレディスと話をしたときから、ただ下を向いて目をつぶり耳を塞いでいることはなくなった。
今なら、カーツと会っても、自分がしなければならないことの優先順位は間違えないと思える。
「それに、帝国軍からの通信ですもの。わたしが応対しなくてどうするの。わたしはこの『黒の天鵞絨』号の船長よ」
わざと傲慢な笑顔になったアデライードを見て、サイファも苦笑した。
「それなら大丈夫そうだな。……了解、船長」
姿勢を正したサイファに、アデライードは答える。
「じゃあ、行きましょうか、航海長」




