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3

——懐かしい夢を見た。


 逞しい肩に翻る、漆黒の天鵞絨。

 陽に灼けた精悍な顔に良く似合う短い赤金の髪。

 クォーターデッキに悠然と立つ、赤と黒の色彩を纏った人影は、その船に乗る全ての者に安心感を与えていた。

「とーさん!」

 その人物に、同じ赤金の髪を持つ幼い少女が駆け寄った。

——あれは、昔の自分。たぶん、六、七歳くらい?

——黒く塗られた船体、ひと回り広い甲板。ああ、本当の『黒の天鵞絨』号だわ。

 どこか少し離れたところで、これは夢を見ているんだ、と冷静に判断している自分がいる。アデライードはそれが少しおかしかったが、懐かしい光景はそのまま続いた。

「よう、アデル! どうした?」

 足元にまとわりつく娘に嫌そうな顔もせず、船長のロイは豪快な笑顔を見せた。

「あのね、あのね。わたし……」

「アデル! 船長の邪魔しちゃ駄目だって!」

 頬を上気させて、何かを嬉しそうに報告しようとした幼いアデライードを、遅れてクォーターデッキに現れた声が止めた。

「サイファ」

 せっかくのところを遮られて口を尖らせたアデライードを軽く睨んで、茶色のスカーフを着けた見習いの少年は、ロイに向かって堅苦しく頭を下げた。

「すみません! 甲板で大人しくしているって約束してたんですが……」

「構わねーよ。そんなことより、お前もご苦労さんだな。見習いの仕事もあるのに、アデルの面倒まで見させて。助かるぜ」

「い、いえっ、アデルの世話は別に嫌ではないですっ」

 気安く労われて、サイファは顔を赤らめた。

——この頃はまだサイファも初々しかったのよね。

 眉を寄せて船員たちに鋭い指示を飛ばし、恐れられている今の航海長の姿を思い、アデライードは内心で苦笑した。

「それで、何の報告に来たんだ?」

 ロイはその場にしゃがみこむと、娘と視線を合わせた。

「うん! あのね、わたし、一番下の帆桁までシュラウドを登れるようになったのよ!」

「ほう。やったな」

「でしょう! 早くもっと上まで行けるようになって、父さんよりも高くなるから」

 帆桁の最下段と、クォーターデッキに立つ人の目線はだいたい同じだ。この頃のアデライードは、早くシュラウドを登り切る体力や腕力を付けて、高い視界を得たくて仕方がなかった。

「俺より高くか。どれ……これでどうだ!」

 そう言うと、ロイはアデライードを軽々と抱き上げ、肩の上に乗せた。

 肩車で急に視界が広がって、アデライードは歓声を上げる。

「シュラウドに登れるようになるのはいいが、その細っこい身体を吹き飛ばされないようにしろよ」

「はぁい」

 素直にそう応えたものの、アデライードはロイの赤金の頭に掴まって精一杯伸び上がっていて、どこまで聞いているのか。

「でも、アデルはスジがいい。さすが黒天鵞絨のロイの娘だよ」

 そのとき近付いて来た男に、夢の中だというのに、アデライードの意識は強張った。

——イーサン!

 一見穏やかな笑顔と、対称的に冷たい薄灰色の瞳。十年分ほど若い他は、今と変わらない雰囲気だが、その当時は彼に何の疑問も抱いていなかった。

「イーサン。そうは言ってもなぁ……あんまりお転婆にすると、セシリアに怒られそうだぜ」

 活発なアデライードの足を抑えながら、ロイは嘆息する。

「母さま? どうして?」

 耳に入った母の名に、父の肩に乗ったままアデライードが首を傾げた。

「娘なのに飛船乗りにするわけにはいかないだろうが」

「どうして!? わたしは父さんの子だから、飛船乗りになるんだもの」

——そう。ほんの小さな頃から、わたしは自分が飛船乗りになることを疑っていなかった。

 言い切った娘に、ロイは少し複雑な顔をした。

「アデル……飛船が好きか?」

「うん! 好きよ。だから乗りたい!」

「そうか。なら、いい。船は親子の義理で乗るもんじゃないからな。……じゃあ、いつか、アデルがこの『黒の天鵞絨』号の船長になるか?」

「わたしが? どうして? 船長は父さんでしょ」

「今はな。でも、将来はどうなるかわからないだろう」

「縁起でもないことを言うな! この船の船長はお前だ!」

 強い反発が、思ってもいなかったところから沸き起こった。

 アデライードもロイも驚いて、二人揃って声の主を凝視する。それは隣にいたイーサンだった。

「イーサン……だから、先の話だって言っただろ。俺だってジイさんになる頃には引退してるさ」

「それでもだ! 私は、黒天鵞絨のロイしか、勇敢なお前しか、船長とは認めない!!」

 イーサンの瞳は真剣だった。何も譲らないといわんばかりに、ただ一点を凝視していた。

 その頑なさに、アデライードは言葉にならない怖さを感じたことを覚えている。

——そう。このときのイーサンは何か怖かった。

——でも、それくらいにまで、父さんに心酔していたはずなのに、どうして父さんを裏切るようになってしまったの。

 その疑問の答えは、事件から二年経った今でもわからない。

 そして父はこのときのイーサンに特に感慨は抱かなかったようだった。

「……イーサン。無茶言うなよ」

 聞き分けの悪い子供に向けるような顔で笑っただけだった。

 イーサンは更に何か言いかけて、けれども口を噤む。

 クォーターデッキに、少しだけ気不味い空気が流れた。

 幼かったアデライードは、その空気が嫌で、わざと明るい声を出した。

「わたしは船長じゃなくてもいいよ!」

「アデル」

「別に船長になんかならなくたって、この『黒の天鵞絨』号に、みんな一緒に乗っていられればそれでいいの! 父さんと、サイファと、イーサンと、この船のみんなと、それからカーツと!」

「アデル? カーツって誰だ?」

 父の顔に疑問符が浮かんだ。

 あっ、と思ったときには、父も、サイファも、イーサンも、船員の皆も、そして幼いアデライード自身の姿も消えていた。

 誰もいなくなったクォーターデッキ。

 そこに一人だけ残ったのは、今の十七歳のアデライードだけだった。

——父さん! みんな!

 皆を呼ぶ声は、虚しく風に吹き流された。

 一人残されて、アデライードはただ呆然と立ち尽くす。

 ただ昔の懐かしい記憶を夢に見ているだけだと思っていた。実際、先ほどまでの光景は、アデライードが幼かったときに本当にあったやりとりだ。

 けれど最後の最後で、今のアデライードの意識が夢に割り込んだ。

 夢の中ながら、アデライードは不思議とそれを認識できた

——そう。わたしは、ただ一緒に船に乗っていたかった。みんなと。そして……カーツと。

 誰もいなくなったと思っていたクォーターデッキに人の気配を感じて、アデライードは視線を動かす。

——!

 少し離れたところに立っていたのは、柔らかそうな金髪の青年だった。

 カーツ! と、心臓が大きく跳ね上がる。

 青年は何も言わない。そしてその表情もなぜかぼんやりと霞んで、よくわからない。

 これこそ、本当に夢だ。

 カーツは、今いる本来の『黒の天鵞絨』号に乗ったことはないはずだし、それに甲板で彼と二人きりになったこともない。

——それなのに、どうしてここでカーツが姿を見せるの?

 自分はカーツに何を聞きたいのか。何かしてほしいのか。

 アデライードにはまだ自分の気持ちの整理はついていない。だから、夢の中で彼に会えても、どうしたらいいのかわからない。

 ましてや、彼の表情もはっきりしないのに。

 素性を隠していることに気付かなかったアデライードを愚かだと笑っているだろうか。

 捕縛すべき相手として、冷たく見下しているだろうか。

 それとも……以前と変わらない、明るい瞳のままなのだろうか。

 それがわかれば、アデライードは次の行動に移れる気がした。

 だから、少しでもカーツがよく見えるようにと、琥珀色の目を凝らす。

 一歩足を踏み出す。

 そのとたん、周囲が急に色褪せだした。

 意識がすうっと薄くなる。

 目覚めてしまう、と思ったときには遅かった。

 そのままアデライードの意識は覚醒し、夢の中に戻ることはもうなかったのだった。






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