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——懐かしい夢を見た。
逞しい肩に翻る、漆黒の天鵞絨。
陽に灼けた精悍な顔に良く似合う短い赤金の髪。
クォーターデッキに悠然と立つ、赤と黒の色彩を纏った人影は、その船に乗る全ての者に安心感を与えていた。
「とーさん!」
その人物に、同じ赤金の髪を持つ幼い少女が駆け寄った。
——あれは、昔の自分。たぶん、六、七歳くらい?
——黒く塗られた船体、ひと回り広い甲板。ああ、本当の『黒の天鵞絨』号だわ。
どこか少し離れたところで、これは夢を見ているんだ、と冷静に判断している自分がいる。アデライードはそれが少しおかしかったが、懐かしい光景はそのまま続いた。
「よう、アデル! どうした?」
足元にまとわりつく娘に嫌そうな顔もせず、船長のロイは豪快な笑顔を見せた。
「あのね、あのね。わたし……」
「アデル! 船長の邪魔しちゃ駄目だって!」
頬を上気させて、何かを嬉しそうに報告しようとした幼いアデライードを、遅れてクォーターデッキに現れた声が止めた。
「サイファ」
せっかくのところを遮られて口を尖らせたアデライードを軽く睨んで、茶色のスカーフを着けた見習いの少年は、ロイに向かって堅苦しく頭を下げた。
「すみません! 甲板で大人しくしているって約束してたんですが……」
「構わねーよ。そんなことより、お前もご苦労さんだな。見習いの仕事もあるのに、アデルの面倒まで見させて。助かるぜ」
「い、いえっ、アデルの世話は別に嫌ではないですっ」
気安く労われて、サイファは顔を赤らめた。
——この頃はまだサイファも初々しかったのよね。
眉を寄せて船員たちに鋭い指示を飛ばし、恐れられている今の航海長の姿を思い、アデライードは内心で苦笑した。
「それで、何の報告に来たんだ?」
ロイはその場にしゃがみこむと、娘と視線を合わせた。
「うん! あのね、わたし、一番下の帆桁までシュラウドを登れるようになったのよ!」
「ほう。やったな」
「でしょう! 早くもっと上まで行けるようになって、父さんよりも高くなるから」
帆桁の最下段と、クォーターデッキに立つ人の目線はだいたい同じだ。この頃のアデライードは、早くシュラウドを登り切る体力や腕力を付けて、高い視界を得たくて仕方がなかった。
「俺より高くか。どれ……これでどうだ!」
そう言うと、ロイはアデライードを軽々と抱き上げ、肩の上に乗せた。
肩車で急に視界が広がって、アデライードは歓声を上げる。
「シュラウドに登れるようになるのはいいが、その細っこい身体を吹き飛ばされないようにしろよ」
「はぁい」
素直にそう応えたものの、アデライードはロイの赤金の頭に掴まって精一杯伸び上がっていて、どこまで聞いているのか。
「でも、アデルはスジがいい。さすが黒天鵞絨のロイの娘だよ」
そのとき近付いて来た男に、夢の中だというのに、アデライードの意識は強張った。
——イーサン!
一見穏やかな笑顔と、対称的に冷たい薄灰色の瞳。十年分ほど若い他は、今と変わらない雰囲気だが、その当時は彼に何の疑問も抱いていなかった。
「イーサン。そうは言ってもなぁ……あんまりお転婆にすると、セシリアに怒られそうだぜ」
活発なアデライードの足を抑えながら、ロイは嘆息する。
「母さま? どうして?」
耳に入った母の名に、父の肩に乗ったままアデライードが首を傾げた。
「娘なのに飛船乗りにするわけにはいかないだろうが」
「どうして!? わたしは父さんの子だから、飛船乗りになるんだもの」
——そう。ほんの小さな頃から、わたしは自分が飛船乗りになることを疑っていなかった。
言い切った娘に、ロイは少し複雑な顔をした。
「アデル……飛船が好きか?」
「うん! 好きよ。だから乗りたい!」
「そうか。なら、いい。船は親子の義理で乗るもんじゃないからな。……じゃあ、いつか、アデルがこの『黒の天鵞絨』号の船長になるか?」
「わたしが? どうして? 船長は父さんでしょ」
「今はな。でも、将来はどうなるかわからないだろう」
「縁起でもないことを言うな! この船の船長はお前だ!」
強い反発が、思ってもいなかったところから沸き起こった。
アデライードもロイも驚いて、二人揃って声の主を凝視する。それは隣にいたイーサンだった。
「イーサン……だから、先の話だって言っただろ。俺だってジイさんになる頃には引退してるさ」
「それでもだ! 私は、黒天鵞絨のロイしか、勇敢なお前しか、船長とは認めない!!」
イーサンの瞳は真剣だった。何も譲らないといわんばかりに、ただ一点を凝視していた。
その頑なさに、アデライードは言葉にならない怖さを感じたことを覚えている。
——そう。このときのイーサンは何か怖かった。
——でも、それくらいにまで、父さんに心酔していたはずなのに、どうして父さんを裏切るようになってしまったの。
その疑問の答えは、事件から二年経った今でもわからない。
そして父はこのときのイーサンに特に感慨は抱かなかったようだった。
「……イーサン。無茶言うなよ」
聞き分けの悪い子供に向けるような顔で笑っただけだった。
イーサンは更に何か言いかけて、けれども口を噤む。
クォーターデッキに、少しだけ気不味い空気が流れた。
幼かったアデライードは、その空気が嫌で、わざと明るい声を出した。
「わたしは船長じゃなくてもいいよ!」
「アデル」
「別に船長になんかならなくたって、この『黒の天鵞絨』号に、みんな一緒に乗っていられればそれでいいの! 父さんと、サイファと、イーサンと、この船のみんなと、それからカーツと!」
「アデル? カーツって誰だ?」
父の顔に疑問符が浮かんだ。
あっ、と思ったときには、父も、サイファも、イーサンも、船員の皆も、そして幼いアデライード自身の姿も消えていた。
誰もいなくなったクォーターデッキ。
そこに一人だけ残ったのは、今の十七歳のアデライードだけだった。
——父さん! みんな!
皆を呼ぶ声は、虚しく風に吹き流された。
一人残されて、アデライードはただ呆然と立ち尽くす。
ただ昔の懐かしい記憶を夢に見ているだけだと思っていた。実際、先ほどまでの光景は、アデライードが幼かったときに本当にあったやりとりだ。
けれど最後の最後で、今のアデライードの意識が夢に割り込んだ。
夢の中ながら、アデライードは不思議とそれを認識できた
——そう。わたしは、ただ一緒に船に乗っていたかった。みんなと。そして……カーツと。
誰もいなくなったと思っていたクォーターデッキに人の気配を感じて、アデライードは視線を動かす。
——!
少し離れたところに立っていたのは、柔らかそうな金髪の青年だった。
カーツ! と、心臓が大きく跳ね上がる。
青年は何も言わない。そしてその表情もなぜかぼんやりと霞んで、よくわからない。
これこそ、本当に夢だ。
カーツは、今いる本来の『黒の天鵞絨』号に乗ったことはないはずだし、それに甲板で彼と二人きりになったこともない。
——それなのに、どうしてここでカーツが姿を見せるの?
自分はカーツに何を聞きたいのか。何かしてほしいのか。
アデライードにはまだ自分の気持ちの整理はついていない。だから、夢の中で彼に会えても、どうしたらいいのかわからない。
ましてや、彼の表情もはっきりしないのに。
素性を隠していることに気付かなかったアデライードを愚かだと笑っているだろうか。
捕縛すべき相手として、冷たく見下しているだろうか。
それとも……以前と変わらない、明るい瞳のままなのだろうか。
それがわかれば、アデライードは次の行動に移れる気がした。
だから、少しでもカーツがよく見えるようにと、琥珀色の目を凝らす。
一歩足を踏み出す。
そのとたん、周囲が急に色褪せだした。
意識がすうっと薄くなる。
目覚めてしまう、と思ったときには遅かった。
そのままアデライードの意識は覚醒し、夢の中に戻ることはもうなかったのだった。




