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 身体の向きを何度変えても訪れない眠気に、アデライードは諦めて起き上がった。

 寝台を囲う厚手の布の外側は船長の執務場所。彼女の私的な空間はこの寝台の上だけだが、それでも他の船員よりはかなりマシだ。空間の限られる飛船では、航海長を含めた他の乗組員たちは、複数人がまとまってひとつの船室にハンモックを吊って寝るのが普通である。

 寝台の足元に掛けていたマントを夜着の上にそっと羽織ると、アデライードは布を捲って寝台から滑り出た。

 真っ暗な船長室内を苦もなく歩き、通信室と医務室の前を通り抜けて甲板に出る。

 この時間に起きているのはクォーターデッキにいる見張り番だけだ。船上の灯りはその見張りの近くと、あとは舳先と船尾、メインマストの下にあるだけで、甲板の端にまでは届かない。その暗さに紛れるように、アデライードは舷側に寄りかかった。

 今夜の空には月がない。厚い雲の切れ間から、ちらちらと瞬く星が覗いているだけで、飛船から見下ろす地上は真っ黒に沈んでいる。

 こんな静かな夜は、飛船が上下左右どちらに向かって進んでいるのかわからなくなる感覚に囚われる。

 頭上を見上げて微かな星の光に方向性を確認し直し、アデライードは舷側で頬杖をついた。

 舷側の木材は夜風に晒されてひんやりとしている。その冷たさに浸りながら、どれくらい闇に沈んだ地上を見ていただろう。

「まだ寒い時期ですから、あまり長く風に当たっていると風邪を引きますよ」

 背後から掛かった柔らかい声に振り返ると、船医のメレディスが立っていた。

「メレディス先生。もしかして起こしてしまった?」

 メレディスは船室ではなく医務室で寝起きしている。前を通った音が気に障ったのかもしれないと思った。

「いいえ。薬の整理をしていて夜更かししていたら、廊下を通る気配を感じたので。寝られないのですか?」

 船医はアデライードの隣に並んだ。クォーターデッキから漏れる灯りが彼の長い銀髪を輝かせる。その涼やかな光に、対照的な明るい金色の髪の光を思い起こさせられて、アデライードは頭を振った。

「何を悩んでいるんですか?」

「なんだかうまく寝付けなかっただけ」

「カーツのことを考えていて?」

 メレディスの率直な問いは、かえってアデライードの口を弛めさせた。他の船員たちは気を遣ってできる限りあの青年の話題を避けていた。それがわかっていたから、アデライードもまた心情を吐き出す機会を逃していたのだ。

「……自分でも、何を考えているのか、もうよくわからないわ」

 頬杖をついて暗闇を見つめたまま、そうぼそりと呟いた。

「カーツのことも考えるけれど……わたしの方が帝国軍に追われてしまったこととか、イーサンもオラニエに向かっていることとか、情報が漏れているかもしれないこととか、これからこの船をどうしていくべきなのかとか。いろいろ、ちゃんと考えて決めないといけないから」

 逃走するようにドルトムント港を出た後、アデライードは船の目的地を予定通りにオラニエ共和国の新遺跡に定めた。遺跡を探索するための装備は既に整えていたし、帝国内にいては軍にすぐに捕まえられるかもしれない。捕縛されてもきちんと事情を話せば濡れ衣だということは認められるだろうが、その間にイーサン一行が襲撃にくることも考えられたから、アデライードは行動を制限されない方を選んだ。

 だが、それが本当にこの船の乗組員たちのためになったのか、まだ判断がつかなかった。

 そんなアデライードの話をメレディスは黙って聞いていたが、やがて静かに口を開いた。

「貴女が考えているいろいろなことは、本当に今、悩まなければいけないことですか?」

「え?」

「イーサンたちのことも、この船をどうするかも、元々あった問題でしょう。それを急にあれこれ悩み始めたのは、本当に貴女が気に掛けていることから目を逸らしたいからではないですか」

「……っ!」

 淡々とした口調だったが、それは鋭くアデライードの心を抉ってきた。

 すぐには返す言葉が見当たらなくて、視線が彷徨う。ようやく口を開けたのはしばらくたってからだった。

「相変わらず先生は、優しい顔して厳しいこと言うのね」

「それを怒らずに受け止められるのは、アデルのいいところですよ」

 悪びれもせずにそう切り返されて、アデライードは苦笑するしかない。

「そう、ね。確かに、このところ気付くとカーツのことを考えてた。だから彼のことを考えなくて済むように、他のことを一生懸命考えてごまかしていたんだわ」

 自分でそう認めてしまえば、不思議と気分は軽くなった。

「カーツがわたしたちを騙していただなんて、思いたくなかった。でも、彼が帝国軍の軍人だというのが本当だったら、最初の頃に感じた違和感も、育ちが良さそうなのも、メレディス先生やサイファが指摘していたことも、遺産にとても詳しかったのも、全部説明がつく。ということは、やっぱりこの一月ほどわたちたちが接していたカーツは嘘だったんだ。それは認めなくちゃいけない」

 ずっと自分の中でもやもやしていたものを、アデライードは少しずつ紡ぎ出していった。

「一緒に仕事をしたことも、みんなと笑い合ったのも、それから、二人で出掛けたときの笑顔も……全部、帝国軍のための作り事だったんだわ」

 それに気付けなかった自分が情けなくて、喉の奥が湿っぽくなりつつも自嘲の笑みを浮かべる。

 きっと、メレディスも船員たちも、まんまとカーツの芝居に騙されていた自分を愚かな船長だと思っているだろう。

 だが、メレディスから返ってきたのは、意外な言葉だった。

「舞台の役者ではないですし、すべてを作り事で過ごすことはできませんよ」

「……どういうこと?」

「台詞が決められた役者と違って、カーツに接する我々は、その時々の本心で彼と関わっていた。するとカーツもその場ごとに反応しなければなりません。少なくともそれは、その時点の彼の本当です。そこまでをすべて虚構で作り上げることなど人には無理です。だから、カーツは彼の出自と目的に関しては嘘をついていたかもしれませんが、彼の行動がすべて嘘だったということにはなりません」

 すべてが嘘ではない——それはアデライードの中でごく小さな温もりを綻ばせかけた。

「本当に、そう、かしら? じゃあ、あのときの瞳も、嘘じゃなかった……?」

 脳裏を過ったのは、港町に出掛けたときの柔らかい瞳。あのすぐ後にカーツの正体が明らかになった。

 だというのに、あの日から一番繰り返して思い浮かぶのは、あのとき自分に向けられた碧緑の瞳なのだ。

「あのときがいつを指すのか私にはわかりませんが、それを決めるのはカーツと貴女の二人ですよ」

「わたしたち?」

「ええ。周囲が何を言ったところで、実際のことは当人たちにしかわかりません。そのときの気持ちを本当にするのも、作り事にしてしまうのも、貴女たち次第です」

「本当にするのも作り事にするのも……」

 じわじわとアデライードの内側の熱が高まっていく。期待というにはまだ不安が大きいが、それでもカーツのことを考えることすら避けていたときよりは、ずっと前を向ける気がしてきた。

「きっかけは嘘でも、その後に本当になるものなんていくらでもあります。例えばアデルの両親たちのように」

「父さんと母さま?」

「ええ。ロイとセシリアの二人も、出逢ったばかりの頃は意地と虚勢で喧嘩ばかりでしたから」

「あんなに仲が良かった二人なのに!?」

 大好きだった両親たちの思い出話に、ようやくアデライードに明るい表情が戻ってきた。

「だから、貴女とカーツの関係も、偽りで終わるかどうかはまだわかりませんよ」

「でもカーツは帝国軍人よ。もう会うこともないわ」

「それは言い切れません。それこそ、飛船の船長と貴族の令嬢が結ばれたくらいですから」

 メレディスに意味ありげに微笑まれて、アデライードも気付いた。確かに、その稀な出逢いの結果が自分なのだ。自分にも何が起こるかわからない。

「じゃあ、もしどこかでもう一度カーツに会うことがあれば、確かめられるかしら。何が嘘で、何が本当だったのか」

「アデルにその覚悟があれば、きっと大丈夫です」

 優しい灰色の視線を向けられて、アデライードは勇気付けられる。

「長い話に付き合ってくれてありがとう、メレディス先生。船員のみんなにも迷惑を掛けたわ。船長がこんなにぐずぐずしていたら、呆れられてしまってるわね」

 アデライードは舷側に手を付けて身体を起こし、豊かな髪を掻き上げる。あらわになった顔はずいぶんとさっぱりしていた。

「大丈夫です。皆わかっていますよ。これくらいのことなら、アデルは乗り越えてくることを。自分たちが選んだ船長ですから」

「でも、わたし自身の力ではないわ。メレディス先生が話を聞いてくれなかったらまだ悩んでいたもの」

「私は他の船員たちに羨ましがられます。アデルの助けになったのだから。皆、もっと貴女の力になりたいと思っているのです。貴女はいつも独りで頑張り過ぎるから」

「みんな、わたしを甘やかせすぎだと思うわ」

「いいんですよ。甘やかせてくれる人材がいるというのも、アデルの器量のうちです」

 メレディスに言われると、誉められているのか貶されているのかよくわからない気分になるが、とりあえず賛辞と受け止めておくことにする。

「さて、じゃあ、部屋に戻るわ。ありがとうね、メレディス先生」

「ゆっくり寝てください。お休みなさい」

 柔らかい微笑みの船医に小さく手を挙げて、アデライードは船長室に戻る。

 今夜は数日振りにきちんと眠れそうな気分だった。




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