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港に着いた頃には、空の端が水色から薄紅色にゆっくりと染まり始めていた。
もうすぐ出港しなければならない時刻だ。そう思って早めた足は、しかし飛船に近付いたところで止まってしまった。
上下の桟橋が分かれる袂のところに、見慣れない複数の人影を発見したからだ。
「何?」
「……!」
眉をひそめたアデライードの隣でカーツが息をのむ。
そこにいたのは、体格の良い数人の男たちだった。黒地に装飾過多にならないぎりぎりのところまで金糸で刺繍が施された襟の高い揃いの服。その左胸に飾られる威嚇する金色の獅子は、このシュヴァルツ帝国の紋章。それは、帝国軍の制服だ。
「帝国軍が何の用かしら?」
「アデライード……」
カーツがアデライードの服の裾を軽く引いたが、彼女は恐れる様子なく近付いていった。
『黒の天鵞絨』号の甲板からは、先に船に戻っていた船員たちが顔を出している。飛船に軍人がやってくることは滅多にない。何が起こったのか、不安と興味が半々に混じって状況を伺っている。
「軍人さんたち、この船に何か用ですか?」
「なんだ、小娘。お前もこの船の関係者か?」
最初に反応したのは、端にいた一番若そうな軍人だった。声をかけてきたのが少女だったので気を緩めかけたものの、飛船乗りの空色のスカーフに気付いて険しい顔に戻る。
「わたしはこの『黒の天鵞絨』号の船長です。この飛船に御用があるのであれば、わたしが伺います」
「船長? お前がか?」
軍人たちは明らかに胡乱げな視線になったが、そういう反応には慣れているアデライードは、顔を前に向けたまま待っていた。
すると、そんな彼女を援助するつもりなのか、甲板上の船員たちから明るい声が降ってくる。
「アデル船長ーっ! おかえりなさーい! 大丈夫ですかー?」
「こっちのことはいいから、あなたたちは仕事しなさい! もうすぐ出港よ!」
「アイ、船長!」
桟橋上を気にしつつも甲板上で働き始めた船員たちを見て、軍人たちもアデライードが船長だということを認めるしかなかったのだろう。互いに目配せして頷き合うと、アデライードの前に壁を作るように立ち並んだ。
「お前が船長であれば、出港させるわけにはいかない」
「どういうこと? 港湾事務所から出港許可書はもらってるわよ」
あまりにも一方的な通告に、アデライードは丁寧な口調を放棄してしまった。
だが、軍人たちは、そもそも最初から彼女の態度など気に掛けるつもりもなかったのだろう。
アデライードの台詞に耳を傾けることもなく、一人が懐から一枚の紙を取り出して突き付けた。
「『黒の天鵞絨』号船長、貴様を飛船航路での略奪行為容疑で捕縛する」
「……っな!?」
思ってもみなかった宣告に、アデライードは絶句する。
提示された紙には、軍人が読み上げたのと同じ文章が几帳面な文字で記されていて、公式文書であることを示す帝国の印章も捺されていた。
「待ってくれ! この子は違う……!」
それまで下がって様子を見ていたカーツが、焦ったように身を乗り出したが、軍人たちはそれを阻むように一歩踏み出した。
「何が違う。この娘は自ら船長だと名乗ったのだぞ」
「いや、アデライードが船長なのは間違いないが、そもそも……っ」
軍人たちはそれ以上カーツの抗議を聞く気はなかった。アデライードを取り囲むように、更に輪を狭める。
「ちょっと待って! 確かにわたしは『黒の天鵞絨』号の船長だけど、略奪行為をしているのはわたしたちじゃないわ!」
頭ひとつ分以上大きい男たちに囲まれても怯むことなく顔を上げているアデライードだったが、軍人たちはそんなことにも構わず、彼女の身体に手を掛けようとする。
「言い訳は後でじっくり聞いてやる」
「だから違うんだって! 話を聞いてよ!」
複数の手がアデライードの腕を掴もうと伸ばされてくる。アデライードは身を捩って抵抗するが、訓練された屈強な男たちには適わない。両手首を捕らえられて、頭を大きく振った。
カシャン、と軽い金属音が鳴る。
少し遅れて、ふわりと広がる、赤金の髪。
「……あっ!」
つい先ほどカーツに着けてもらった髪留めが、弾みで落下していた。
たったそれだけのことが、けれどアデライードの胸に強い衝撃を与える。
その髪留めを見つめたまま一瞬動きが止まってしまった間に、軍人たちはアデライードの両手を背中側にひとまとめにする。
今にもそこに縄を掛けようとしたところで、再びカーツが割り込もうとした。
「だから、彼女は違うと言ってるだろう……!」
けれど、そんなカーツの行動を縫い止める新たな声が、その場に放たれた。
「邪魔をするな。カーツァライル・フォン・グリュームバルト中尉」
それは決して大きくはないが、港の喧噪の中でもその場を従えるほどの鋭さを持っていた。
声の主が、軍人たちの背後からゆっくりと姿を現す。
その男は、その場の軍人たちの誰よりも規律正しそうに背筋を伸ばしていた。白い筋が混じった金髪をきっちりと撫で付け、黒い制服の肩には上級者であることを示す肩章がある。
「……隊長」
現れた男の姿を見て、カーツが噛み締めた唇の隙間から苦い呟きを漏らした。
隊長と呼ばれた男は、カーツに声と同じ鋭い視線を向けると、冷ややかに言い捨てた。
「己の任務を忘れたのか、グリュームバルト中尉」
「……いいえ」
擦れて消えそうな声でそれだけ答えてその場に立ち尽くしてしまったカーツと、鋭い気配を放つ軍人の男を見比べて、アデライードは呆然としていた。
「カーツ? 知り合い、なの……? 任務、って……」
アデライードの問いに、カーツは身体の両脇に垂らした腕の拳を、ぐっと握りしめた。
「……アデライード。その、俺は……」
「お前がカーツと呼ぶその男は、カーツァライル・フォン・グリュームバルトといって、シュヴァルツ帝国軍飛行艇部隊の一員だ。盗賊討伐のために、私の命で潜入捜査をさせていた」
「隊長!」
言い淀んだカーツを押しのけるように、隊長の冷たい声がアデライードに突きつけられた。
慌てて阻もうとしたカーツは間に合わなかった。明らかにされた真実は、アデライードの意識に、既にざっくりと切り込んでいた。
「帝国軍……潜入捜査?」
隊長の言葉は、嫌な冷たさをじわじわとアデライードの中で広げていく。指先や爪先はとても冷えているのに、頭の奥だけは目眩がしそうに熱い。
アデライードは軍人たちに腕を捕らえられていることも忘れていた。
ただ彼女の中では、この一月ほどのことが駆け巡っていた。
贈られた髪留め、二人で歩いた港町、並んで座った帆桁、遺跡で引き上げられた大きな掌、遺産を撫でる手つき、医務室で見せた鋭さ、崩れた荷の隙間から見えた金色の髪。
それに重なって思い浮かぶのは、明るい笑顔と柔らかい碧緑の瞳。“アデライード”と自分を呼ぶ声。
それらが、急速に色褪せて、ひび割れていくような感覚に襲われる。
「騙していた、の……最初から?」
「……アデライード」
震えるアデライードの声に、カーツは眉を歪めて何か言おうとしたが、結局それ以上続けることができずに、視線を逸らしてしまう。
それが、答えになった。
「……」
アデライードは、ぎゅっと目を瞑る。伏せた顔に赤金の髪が覆い被さる。
アデライードが大人しくなったのを諦めたからと思ったのか、軍人たちが再び彼女を後手に縛り上げようとしたときだった。
ごぉおんっ、と空気を振動させる轟音が響いた。
「アデル! 乗れ!!」
続いて甲板上から届いた彼女を呼ぶ声。
唐突に上がった飛船の動力炉の唸りに、軍人たちの手が一瞬止まる。
項垂れていたように見えたアデライードだったが、その好機を逃さなかった。
するりと身を捻って、軍人たちの隙間からその細い身体を通り抜けさせる。
軍人たちが我に返ったときには、既に飛船に辿り着いて、舷側を跨ぎながら、自分が今、走り抜けて来た渡し板を蹴り飛ばして外す。
「サイファ! 出港!」
逃げ出す機会を作ってくれた航海長に指示を出す。
心得ていたサイファがひとつ頷くと、飛船は更なる唸りを上げてその身を震わせる。事前準備なく急速に高出力にさせられた動力炉遺産が、抗議するように大きい重低音を発しつつも、船体を持ち上げた。
「危ない! 下がれ!」
渡し板を外されて立ち往生していた軍人たちが、浮上する飛船の吹き上げる風に巻き込まれまいと後退する。
予備動作なしに離陸を始めたアデライードたちに、周辺に停泊していた飛船の乗組員たちが、何事かと見上げてくる。港湾事務所の係官も手順違反の出港に駆け寄ってくる。
そんな人々をすべて取り残して、『黒の天鵞絨』号は上昇を続ける。
甲板に降り立って、舷側から身を乗り出しながら、アデライードはそんな港の様子を見つめていた。
軍人たちは悔しそうに、隊長の男も忌々しそうに船を見上げている中で、カーツだけは何かに耐えるように下を向いている。
それがかえってよかったと、彼が今どんな顔をしているのか知りたくないと、思ってしまった自分に、アデライードは唇を噛んだ。
舷側に額をつけて、大きく息を吐き出す。
それだけでは、体内で渦巻いているぐちゃぐちゃな感情を消すことはできなかったけれども、腹部に力を込めて立ち上がる。
そして航海長たちが待つクォーターデッキに向かって歩き出した。




