2
昼過ぎ早々に戻ってきたサイファと交代して、アデライードたちは飛船を降りる。
複数の飛船の重低音、船員や荷役たちのやりとり、そんな音で溢れた港に降り立ったところで、カーツはアデライードに手を差し出した。
「さて。どこから行きますか」
無造作に上に向けて広げられたその掌は、彼女の手が乗せられるのを待っているようにも見えた。だが単に質問の仕草かもしれない、と思い直して、アデライードは自分の手は動かさなかった。だいたい、カーツに手を引かれなければいけない道理はない。
「そうね。せっかく船を降りたんだから、まずは美味しいものを食べなきゃ」
冷たい温度を維持できる遺産のおかげで、航行中も食材の傷みを抑えることはできているが、それでも飛船上の食事は干し肉や干し豆中心の簡素なものになりがちだ。飛船乗りたちが地上に降りて最初に望むのは、新鮮で多彩な料理だった。
「アイ。じゃあ、美味いところを紹介しますよ、船長」
カーツは特に気にした様子もなく手を引き戻すと、港町の中心に向かって歩き出そうとした。
その背に向かって、アデライードは思い切って声を掛ける。
「カーツ! あの、その、ね。今は、船も降りてるし、自由時間だし、わたしに対して敬語じゃなくて構わないわ」
なぜ、たったそれだけのことを伝えるのに、こんなに躊躇いを感じるのだろう。自分でも不思議ながら、アデライードはカーツの顔ではなく足元あたりに視線を迷わせていた。
そんな彼女の態度をカーツがどう受け取ったかはわからない。
「……了解。じゃ、行こうか、アデライード」
ただ、ふっと柔らかな気配を感じで顔を上げると、目尻を緩めたカーツが目に入った。いつも明るい碧緑の瞳だが、そんな柔らかい色になったのを見たのは初めてで、ついその瞳に魅入ってしまった。
「アデライード?」
「……っ! ううん、何でもないわ! 行きましょう!」
鼓動を早めた胸中を悟られないよう、アデライードは歩き出す。その隣をカーツも歩調を合わせて進んでくれていた。
最初に向かったのは港を出たすぐのところにある広場。立ち並ぶ屋台からは、昼時を過ぎていることなど関係なく、空腹に訴える匂いが漂っている。
広場に置かれた卓と椅子に陣取って、カーツは複数の屋台から湯気の立つ料理を調達してくる。チーズと魚のすり身を詰めて焼いたパイ、新鮮な蒸し野菜に彩り鮮やかなソース、香草を振り掛けて揚げた魚、串焼きの肉、焼きたてのパン、樽から出してきたばかりの麦酒、甘い焼菓子。「こんなに食べられない!」と悲鳴を上げたアデライードだったが、気付いたら卓上の料理はすべて二人の体内に消えていた。
胃を落ち着けてから港町の中心部に向かい、商店が立ち並ぶ通りでまずは必要な日用品をそれぞれ買い揃える。それからカーツはアデライードを鮮やかな布が溢れる店に連れていった。気さくな女店主とあれこれ確認しあいながら、何枚もの服をアデライードの前に広げる。女店主に店の隅の簡素な仕切りの中に押し込まれて、次々と選ばれた服に着替えさせられる。試着し終わる度にカーツの前に出されて、再び品定めする。そんなことを数軒の店で繰り返す。着慣れない洒落着姿をカーツに見られるのは気恥ずかしかったが、色とりどりのひらひらした服にアデライードの心も浮き立った。
どの店の服も装飾品も庶民向けで特別高価なわけではない。発掘直後でアデライードの財布も膨らんでいるし、数着選んだところで影響はない。
けれど、結局アデライードはどの服も自分のものにはしなかった。
「本当にいいの? さっきの店の橙色のワンピースとか、今の店の緑色のとかは良く似合っていたのに」
「いいの。どうせ買ったところで、飛船の上じゃ動きにくくて着る機会がないし」
「もったいない」
「でも、楽しかったわ。こんなにたくさんの服を着たのは初めて! ありがとう、カーツ」
上気した頬でアデライードはカーツを見上げる。それにカーツも嬉しそうに微笑み返した。
二人がいるのは、港を見渡せる高台の広場だった。
歩き回って乾いた喉を途中で買った薄荷水で潤しながら、石垣に並んで凭れて休憩していた。
「そういえば、カーツはいろんなお店を知ってるのね。このドルトムント港にはよく寄港してたの?」
「……ああ、うん。それもあるけど、技師養成所がこの近くだったんだ」
カーツの視線が港とは反対の方角に流れた。そちらに養成所があったのだろうか。
「養成所の空き時間には、よくこの港まで来て飛船を見ていた。ときには頼み込んで停泊中の船の中を見せてもらうこともあった。どうやってあんな大きな船体を自在に操るのか、船員たちを質問攻めにもした。そうやって飛船にどんどん詳しくなりながらも、俺は諦めていたんだ。俺自身が飛船に乗って空を飛ぶことは」
「……え?」
カーツの口調は変わらなかったが、視線は港でも養成所の方でもない、もっと遠いところを向いていた。
迂闊に言葉を挟んではいけない気がして、アデライードは黙って次の言葉を待つ。
「……君がこのあいだ指摘したように、俺の生家はそれなりに位の高い貴族だ。兄がいるから俺が家督を継ぐようなことはないけど、一族の男たちはみんな重い地位に就いている。飛船乗りになるなんて許される雰囲気じゃなかった。技師養成所に入ることを説得するだけでも、子供だった俺には大仕事だった」
アデライードから見たら、今のカーツは十分な大人で、そんな彼の無力な子供の頃を想像するのは難しい。だが、彼にも何かを望んで足掻いていた時期があったのだと思うと、カーツと共感できることが増えた気がした。
「そうして何とか養成所に入って技師の知識を学びながら、でも卒業後の予定はまだ見えなかった。技師の仕事は遺産の鑑定にしろ加工にしろ、地上の方がたくさんある。発掘屋の飛船に乗り込むようなことが、家族から許されるとは思えなかったんだ」
帝国貴族の生活がどれほど縛られたものなのか、アデライードにはわからない。それでも、世間一般の感覚として、危険も多く不安定な発掘屋は、親が喜ぶ職業ではないことは知っている。
「でも、カーツは飛船に乗れたのよね?」
「……うん。まあ、空を飛ぶことはできるようになった。思っていた船ではなかったけれど」
「カーツ?」
横から見えるカーツの唇の端がぎこちなく持ち上げられた。
それがなんだか落ち着かなくて、アデライードの問いは小さく揺れる。何かまずいことを訊いてしまっただろうか。
しかし、それからアデライードに向けられた碧緑の瞳は、いつもの彼だった。
「俺の昔話なんか聞いてて退屈しない? ……たぶん、久々に港を見下ろせる場所に来て、ちょっと感傷的になってるんだろうね。こんなこと話すつもりはなかったのに」
肩をすくめたカーツに、アデライードは急いで首を振った。
「そんなことないわ。カーツのことならもっといろいろ知りたい」
「アデライード……」
「それに、この前は私の話を聞いてくれたでしょう。今度はカーツの番よ。それで? どうやって飛船に乗れたの?」
続きを促すと、カーツは腹を据えたように、話を再開した。
「養成所を卒業する少し前、いつものように港をぶらついていたら、ある人に声を掛けられた。以前から俺の姿を見て気にしてくれていたらしい。行き先がないなら自分のところに来い、と誘ってくれたんだ。俺には、その誘いが唯一の道筋に見えた。その場ですぐに頷いたよ」
その当時のことを思い出しているのだろう。カーツの瞳が嬉しそうに細まった。
「技師の資格を取ると同時に、俺はその人の船に乗り込んだ。実家には事後報告でほとんど縁を切った状態になったけど構わなかった。見習い船員を始めるには歳がいっていたから、一から覚えるのは大変だったけど、でも、楽しかった」
「わかるわ。わたしも最初の頃は父さんや他のみんなに怒鳴られてばかりだったけど、それでも、飛船の操船に関われるのがとても嬉しかったもの」
「そうだね。俺もその通りだ。そして俺を空に引き上げてくれたその人には、感謝してると同時に、頭が上がらないのが問題だ」
おどけた調子のカーツにアデライードは明るい笑い声を返す。
「その人が、カーツが前に乗っていた飛船の船長さんだったの?」
「ああ。俺がその人に敵わないのをいいことに、何だかんだとこきつかわれてたよ」
そう言いつつも、カーツの表情には嫌そうな色はない。仕方がない、とでもいう様子からは、その船長に心を許していることが伺えた。だから、アデライードは今のカーツの心境を思うと、複雑な気持ちになった。
カーツがアデライードの飛船に来てくれて良かった、と思う。けれどそれは、彼がそれほど信頼していた船長と別れなければならない事態になった結果なのだ。
そして、自分は、そんな彼に同じように信じてもらえる船長にならなければいけないのだ、とも思った。
「その船長さんと飛船と別れなければいけなかったのは、残念ね……」
「……えっ?」
思いがけないことを言われた、というように、カーツの瞳が見開かれた。
アデライードは、話の流れが唐突だったかもしれない、と反省して、言葉を付け足す。
「だって、ほら、前の船は破産してしまった、って言っていたでしょう?」
「……あ、ああ。うん、そうだね。俺がそう言ったんだ……うん。まあ、その人は船長ではあったけど、船主ではなかったから、今も同じように空を飛んでいるはずだ」
慌てた様子のカーツに、アデライードは顔を曇らせた。どうやら自分はまた不用意に、彼にとって嫌なことに触れてしまったらしい。
「あ、ごめんなさい……よけいなことを言ったみたい」
「ああ、いや、大丈夫。ちょっと意外だったんだ」
「意外?」
「……うん。俺は今、残念だとは思ってなかった。それはきっと、アデライードの飛船に乗ることができて良かったと思ってるからかな」
「カーツ……」
カーツの碧緑の瞳がアデライードにまっすぐ向けられる。
じっと見つめられて、鼓動が高まる。頬が少し暑い。
『黒の天鵞絨』号に乗ってよかった、と思ってるということは、アデライードのことも船長として少しは信頼してくれているということだろう。
そう思うと、胸の奥から、じんわりと温かく弾ける何かが広がってきた。
「さて。そろそろ港に向かおうか。陽も傾き始めたし」
空を見上げてカーツが言った。
つられて顔を上向けて、アデライードも頷く。
夕暮れにはまだ時間はあるが、確かにそろそろ移動した方がいいだろう。二人は港の方向に歩き出した。
「そうだ。結局さっきは何も買わなかったけど、せっかくだから、俺からひとつだけ贈り物をさせてもらえないかな。仕事の邪魔にならない何か、小さな髪留めか首飾りか、そのあたりのものを」
「別にそんな、いいわよ」
「いや、働き口を探していた俺を雇ってくれた恩もあるし、初給金から贈らせて。俺の満足に付き合うつもりでいてくれればいいから」
そこまで言われては、頷くしかない。
港近くの露店が立ち並ぶあたりまで来て、カーツは目についた装身具の店先を覗きこんだ。
そこには、町娘たちにも気軽に手が出せる程度の品々が所狭しと並べられている。可愛らしい造りのものから華やかな造りのものまで、装いは様々だ。
それらをざっと見渡して、カーツは迷いなくひとつの品を取り上げた。
「これなんかいいんじゃないかな。ほら、アデライードの髪に良く映えそうだ」
カーツの掌に乗るのは、大振りの髪留めだった。透かしの入った金色の台座に嵌められた大粒の硝子細工が、緑から青の濃淡を描いている。
「……この色、まるで……」
「え?」
「ううんっ、なんでもないわ。きれいな色ねっ」
硝子細工の色味がまるでカーツの瞳を模したようだ、とは言えなかった。それを告げてしまったら、この髪留めをもらうことに必要以上に意味付けしてしまいそうだった。
「君の髪には、これくらい嵩があるものの方が似合うと思って」
「兄さん、よくそのお嬢ちゃんのことわかってるねぇ。良かったら着けてみなよ」
奥に座っていた店主らしき男が、そう言いながらわざわざ鏡まで取り出してくれる。
「ほら、後ろ向いて」
カーツに言われるままに背を向けると、さわり、と髪が持ち上げられる感触があった。
それがカーツの大きな手だということに思い当たって、思わず振り返りそうになる。
「もうちょっと動かない」
髪をそっと梳るカーツの手の動きに耐えられなくて、アデライードはぎゅっと目を閉じた。
ぱちん、と金具を留める音がして、髪が後頭部の高いところでひとつに束ねられる。
「できた。やっぱり似合ってるよ」
恐る恐る目を開く。向けられた鏡の中には、困惑顔の自分がいる。
いつもはおろしっぱなしの髪が束ねられているので、少し軽くなった印象だ。そしてその束ねた根本に光るのは、隣に立つ青年の瞳のような硝子細工。
「どう?」
「よ、よくわからないわ。自分に合ってるかどうかなんて」
「良く似合ってるよ。まるでお嬢ちゃんのために誂えたみたいだ」
店主が鏡を掲げながら調子よく畳み掛けた。売るための方便だろうが、そう言われると気分は上がる。
そんなアデライードを見て、カーツも満足そうだ。
「じゃあ、これをもらうよ」
「まいどあり!」
支払いをしているカーツを待つ間、アデライードは頭を振ったり捻ったりして、鏡に映る髪留めをちらちらと確かめていた。
装飾品などほとんど身に着けたことのないアデライードにとっては、この程度でもなんだか落ち着かない。だが、カーツの瞳と同じ色の硝子細工の輝きを見ていると、心が弾んでくる。
思い過ごしとはわかっていても、露店から離れて港に向かう途中ですれ違う人たちが自分の髪と髪留めを見ているのではないか、という気さえしてしまう。
「大丈夫だよ。よく似合ってるから」
「でも、やっぱり慣れないわ」
「だいたい、君は育ちによっては貴族のお姫様だった可能性もあるわけだろ。それくらいの髪留め、気にしなくていいよ」
その言葉に、思わずアデライードの足は止まってしまった。
「お姫様、って、そんなこと、考えたことも誰かに言われたこともなかったわ」
「だって、アデライードの母上は貴族だったんだろう? ……まあ、俺も、深窓で親の言うことだけを聞いているようなお嬢様を、君が勤められるとは思えないけど」
「でしょう? たとえ母さまがどんな出身だったとしても、わたしは黒天鵞絨のロイの娘よ。飛船乗り以外になることはないわ!」
誇らしげにそう言い切って、アデライードは唇の両端を引き上げた。その笑顔は、髪留めよりも強く彼女の魅力を輝かせるものだ。
それに眩しそうに目を細めたカーツが、けれど細めた瞳の奥で複雑に感情を揺らめかせていたことに、アデライードは気付いてはいなかった。




