3
甲板から見上げると、帆の間で翻るアデライードの赤金の髪は鮮やかでよく目に留まる。
第一マストの帆桁上にその赤金が見えるときは、船長の時間だから邪魔してはいけない、とカーツは船員仲間から言われていた。
これまでにも何度か一人で帆桁に座るアデライードの姿を見ていたが、たいてい半刻ほどで甲板に戻ってきていた。だから普段だったら、カーツも彼女の時間を妨げようとは思わない。
けれどその日は、そろそろ一刻になろうかというのに、アデライードが動く気配はなかった。
「今日は戻ってくるの遅いね、アデル」
「船長、だ。別に少しくらいゆっくりしていても、彼女の自由だ。飛船の航行には今のところ問題はない」
落ち着かないリュークを嗜めるサイファも、そうは言いつつもときどき帆桁に視線を送っては、アデライードの様子を気にしている。
一行はイーサンの飛船から逃れて無事に港に入り、破れた帆を補修して再び空に戻り、本来の目的地ドルトムント港に向かっているところだった。
「イーサンのヤツから逃げたのが、そんなに悔しかったのかなぁ」
「そんなに気になるなら、声を掛けてみればいいんじゃないか?」
「バカ! あそこにいるときのアデルは、邪魔しちゃダメなんだよ。これだから何も知らない新入りは……」
カーツの提案にリュークは呆れた顔を返した。
この船に乗ったときからリュークの彼に対する態度は刺々しい。きっと、自分の行動がきっかけでカーツが荷崩れに巻き込まれたことに後ろめたさがあるが、勝気な少年らしくそれを素直に認められなくて、ついぎこちない言動になっているのだろう、とカーツは思っている。
「じゃあ、新入りらしく俺は遠慮なしに行ってくるよ」
「え、おいっ。待てよ!」
慌てるリュークを置いて、カーツは第一マストに向かって歩き始めた。
直前にちらりとサイファに視線を向けてみる。航海長は苦い顔をしているものの、カーツを止める素振りはなかった。
(航海長も内心では気になって仕方がないけど、船員たちの手前、冷静なフリをしてた、ってところかな)
本当はサイファ自身が行きたかっただろうに、カーツに行かせるのは彼なりの妥協なのだろう。
甲板から帆桁までは、マストと帆桁の間に張られたシュラウドを伝って上る。
海上ほどではないが、飛船のシュラウドもそれなりに揺れる。カーツはそこを慣れた様子で上っていった。
手足を動かしながら、なぜ自分はこんなことをしているのだろう、と自問する。
普段のカーツだったら、邪魔するなと言われているところに用もないのに出向いていったりはしない。彼がよく言われる、誰にでも人当たりがいい、という評価は、裏を返せば誰にも深入りしないということだ。
けれど、アデライードについては、なぜだか気に掛けないといけない、と感じていた。
(彼女の何が特別なんだろう)
最初に見たときから、アデライードは印象的な少女だった。
黒天鵞絨を纏い、強い意思に輝く琥珀色の瞳は魅力的で、船員たちから船長として信頼を寄せられているのもわかる。
だが、カーツには気になることがある。
ウェンリーを助けに地下に潜ったときの噛み締めた唇。イーサンという男と対峙したときの白くなるまで握りしめられた拳。それらに一抹の危うさを感じた。
そして、その感覚を見過ごしてはいけない気がしたのだ。
帆桁の天辺に辿り着いたときには、当然ながらアデライードも上ってくるカーツに気付いていた。
「やぁ、俺もそこに行っていい?」
「ええ」
アデライードは特に嫌な顔をすることもなく、カーツが隣に座るのを受け入れた。
どうやら、ここにいるときのアデライードを邪魔しないというのは、船員たちの間で彼女には内緒で決められた協定のようだ。
帆桁に腰を下ろして、カーツは帆や索具が風に煽られてたてる音を聞きながら、周囲を見回す。
目の前に広がる雲の少ない青空、下方に続く林野の緑と小さな町や村。甲板よりは強い風を受けながらそれらを視界に収めると、細かいことはどうでもよくなってくる。
「ああ、気持ちがいいね、ここは」
思わず漏れた声に、アデライードは頷きながら笑った。
「今日は敬語じゃないのね」
「ここに一人でいる君に対しては、その方がいいかな、と思って。不愉快だったら止めるよ」
「ううん。構わないわ」
そのまましばらく二人は無言で流れる景色を眺めていた。
やがて先に口を開いたのはアデライードだった。
「何か聞きたいことがあって、ここまで来たんじゃないの?」
「……うん。いろいろあって、何から聞いたらいいか迷ってる」
「この船のみんなは全部知ってることだから、聞いてくれたら答えるわよ」
そう言われると、かえってどこから切り出すべきか迷う。カーツはしばらく言葉を探した。そして、アデライードには顔を向けず、前方を見たまま話し始める。
「俺が『黒の天鵞絨』号という発掘屋について噂で聞いていたのは、船長が黒天鵞絨のマントを身に着けた赤金の髪の豪快な男で、仲間内の信頼が厚いということと、一方で、盗賊紛いに飛船の航路を荒らしているということと、この二つだった」
そっとアデライードの様子を伺うが、カーツが話す内容にまだ特段の反応は見られない。
「そして俺が実際に出逢ったのは、黒天鵞絨のマントに赤金の髪の可愛い女の子だった。船長として信頼されてるのはわかるけど、噂とはずいぶん違う。どれが本当なんだろう?」
そこで隣の少女に顔を向ける。アデライードはにこっと笑った。
「どれも本当のところはあるし、どれもすべてが本当じゃないわ」
風に吹き流された髪を押さえて、アデライードは続ける。
「カーツが噂で聞いた最初の人物が、初代『黒の天鵞絨』号のロイ船長。二年前に行方不明になった、わたしの父さんよ」
そう言ったアデライードは、まだ笑顔のままだ。
「父さんは、“黒天鵞絨のロイ”と言えば発掘屋仲間には通じるくらい腕の立つ発掘屋だった。豪快で大胆で、厳しいけど優しくて、船員たちにはとても信頼されて慕われていた。わたしも同じ飛船に乗っていて、そんな父さんが誇りだった」
そこで、アデライードの顔が曇る。
カーツは何も言わずに続きを待った。
「事件があったのは二年前。父さんたちは発見されたばかりの遺跡を調べに出掛けた。危険だからとわたしは連れていってもらえなかった。そして……そのまま父さんと『黒の天鵞絨』号は戻ってこなかったわ」
帆桁に置かれていたアデライードの手に力が入る。
「当時、父さんの船で航海長をしていたのが、例のイーサンよ。彼は冷酷な男だったけれど、優秀で長年父さんに従っていたし、父さんも信頼していた。それなのに、アイツは父さんを裏切った……っ」
前方を睨み据えたアデライードの瞳は、まるでそこに憎らしい男がいるかのように強い光を宿す。
「何があったんだ?」
「調査に入った遺跡で、床が突然に抜けて、父さんと何人かが吸い込まれたって……そこまでは偶然なんだと思う。でもイーサンはそんなときに最悪の裏切り方をした。アイツは巻き込まれるのを避けるために、自分と繋がっていた父さんの命綱を切った。そして穴の中をロクに探しもせずに、父さんたちを見捨てて船に帰ってしまった……!」
カーツはハンブルク遺跡でウェンリーが下層に落下した直後のアデライードの様子を思い出した。
船長らしくなく硬直していたり、かと思ったら自分が救出に向かうことを強情に言い張ったり。
あれは、彼女の父親の最期と状況を重ねてしまっていたからだったのか。
「それは……仲間たちが納得したのか?」
「イーサンに付いてたヤツらは、被害を少なくするために仕方なく、っていう白々しい言い訳を受け入れたわ。前々から、規律に厳しい父さんよりも、一見穏やかだけど利益になるなら細かいことには目を瞑るイーサンの方に流れる船員もいたの。そしてイーサンは、『黒の天鵞絨』号の実権を握ってのうのうと帰ってきた」
「……君は納得できなかったんだね?」
「当たり前でしょ。わたしだけじゃないわ。遺跡には行ったけれど飛船に残っていた人たちにも、受け入れられない人はいた。サイファやメレディス先生もそう。そんな人たちと一緒になんとか飛船を手に入れて、わたしはもうひとつの『黒の天鵞絨』号を立ち上げた。いつか本来の飛船を取り戻そう、と約束して。それが、この船よ」
アデライードは身体を捻って下方を見る。甲板の上には彼女を船長と慕う男たちがいる。それを見て、アデライードの表情が和らいだ。
「あの黒天鵞絨のマントは、当時よくイーサンに奪われなかったね」
「遺跡に入る直前に、父さんがサイファにこっそり託していたらしいの。自分に何かあったらわたしに渡すように、って。初めての遺跡で危険が多いのは予想できたし、事故が起こらないとも限らないからだったんだろうけど。でも結果的には、まるで父さんの身に起こる不幸をわかっていたみたいだわ」
そう言ってアデライードは笑ったが、眉根は歪んでいて、見ているカーツの方が胸が痛む。
「マント自体は飛船と比べればたいしたものじゃない。でもあのマントがなければ、『黒の天鵞絨』号の正当な後継者だとは発掘屋たちも認めない。だからイーサンはわたしからあのマントを取り上げたい。名実ともに『黒の天鵞絨』号の船長になるために。それで、わたしたちとイーサン一行は、互いに争っているのよ」
そこまで話して、アデライードは一息ついた。これまでの説明でカーツもおおよその事情は理解できた。
「なるほどね。俺が聞いていた航路を荒らしている飛船は、イーサンの方だったのか……」
「盗賊紛いのことをさせられると思っていた?」
からかうようなアデライードの問いに、カーツは内面の動揺を隠そうとしたが、うまくはいかなかった。
「あ、いや、えっと……うん。実は、いつそういう事態になるか身構えてはいた。でも、みんなと一緒に過ごすうちに、君が船員たちにそんなことを指示するとは思えなくて、噂の信憑性を疑っていたんだ」
つっかえつつも何とか答えたカーツに、アデライードの笑顔が返された。
「ありがとう。信頼してくれて嬉しい」
細められた琥珀色の瞳が眩しくて、カーツは視線を彷徨わせてしまった。
「さて、これで全部話したわ。他に気になることはある?」
「そうだね……そもそもの話になるけど、君はどうして飛船に乗っているの?」
「え?」
「だって、飛船乗りに女性、しかも若い女の子はほとんどいない。力仕事も多いし、気性の荒い男たちも多いし、一般的にはけっして女性に向いてる仕事じゃないだろう」
アデライードは目を丸くしてカーツを見返していた。思ってもみなかったことを聞かれた、という顔だ。
「……そうね。小さな頃から父さんにくっついて乗っていたから、改めてそう言われると……」
帆桁に両手を付き、頭上のマストの先端を見上げながら、アデライードはしばらく考え込む。
「たぶん、わたしは飛船が好きなのよ。飛船から見える地上の景色も、動力炉遺産の唸りも、帆布の輝く白さも、甲板の木の手触りも、そこで働くみんなも……その他に理由を探すとしたら、母さまかな」
「君の母上?」
「ええ。父さんと母さまはとても仲が良くて、本当だったら母さまも父さんと一緒に飛船に乗りたかったんだけど。でも、迷惑を掛けられないからって、本拠地の港で待っているの。わたしはその母さまの代わりに飛船に乗って、父さんが見ているものを見て、母さまに伝えたかったのかな」
初めて聞くアデライードの家族の話にカーツは引き込まれた。飛船乗りとしては、そこまで深く彼女の個人的な事情を知る必要はない。けれどなぜか、アデライードについてもっと詳しく知りたい、という気持ちを抑えられなかった。
「迷惑を掛ける?」
「母さまは、もともとはどこかの貴族令嬢だったらしいの。それがどういうわけか発掘屋の父さんと出逢って、家を飛び出して飛船に乗ってしまった。でも実家から追っ手がかかって、逃げ回るのも大変だから、って、わたしを産んだのをきっかけに船を降りたの」
「へぇ……」
アデライードの両親たちの恋物語は、男心にはそこまで語り掛けてはこなかったが、ひとつわかったことはある。
「君の言葉遣いは、飛船乗りの中にいるわりには綺麗だと思っていたんだけど、それは貴族だったという君の母上の影響なんだね」
思ったことをそのまま口にしたのだが、返ってきたのは軽やかな笑い声だった。
「それを言ったら、カーツ、あなたの方こそ。わたし、誰かから『母上』なんて言われたの初めてよ。カーツもけっこう良いところの出じゃないの?」
「……っ」
アデライードにとっては何の気もなさそうな問いだったからこそ、かえって不覚にもカーツは言葉に詰まってしまった。
その気まずさをアデライードは敏感に察知したのだろう。
「あ、ごめん。無理に答える必要はないわ。だいたい飛船乗りになるような人たちには、ひとつやふたつは言いにくいことがあるものだし」
とりあえずカーツは曖昧に微笑んでやり過ごすことにした。
「さてと。今日はちょっと長くここに居過ぎたから、そろそろ戻らないとね。あなたと話せてよかったわ」
アデライードは両腕を大きく伸ばして深呼吸する。カーツもそれに倣って息を吸い込んだ。
「俺も、君のことを知れてよかったと思っているよ、アデライード」
帆桁の上に軽々と立ち上がって、アデライードは微笑む。
「これからもよろしくね」
カーツも一緒に立ち上がると、姿勢を正す。
「アイ、船長」
その返答は仕事に戻る合図だったが、船長と船員の立場に戻っても、カーツは今までよりもアデライードの存在がずいぶん近くになって厚みを増したように感じていた。
そしてその関係の変化を、自分だけでなく彼女も感じていてほしい、と思っていることにも気付いていた。




