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甲板の上に出ると、空は雲っていて陽光が少なかった。風も弱く飛船の操縦にはあまり向かない天候だ。
「風がないな……」
追ってきていたカーツの呟きを耳に入れつつ、アデライードはクォーターデッキに上った。
「サイファ! ヤツラは!?」
「七時方向に距離は五。こっちの方が高さは上だが、向こうの方が風上だ」
「風が弱いのが救いだけれど……ここで戦うのは不利ね」
飛船同士の戦闘における風の影響は、海上の帆船とあまり変わらない。降り注がれる陽光に差がない以上、風上にいる方が断然有利だ。
他に飛船ならではの要素としては、より高度が上の方が有利という面もある。だが、今回のように背後の風上に付かれてしまったら、その利はあまりない。もたもた旋回しているあいだにせっかく勝っている高さを合わせられてしまう。それよりは少しでも離れているうちに逃げた方が賢明だ。
「このあたりだったら次の港まで半日。今の動力炉の出力だったら陽が出なくても保つわね」
「ああ。カーツが直しておいてくれたのが功を奏した」
ちらりと向けられたサイファの視線に、カーツはたいしたことはしていない、と笑う。
「じゃあ、進路はこのままで速度を上げて! 振り切るわ!」
「アイ!」
甲板上の男たちが声を揃えて応える。それから早足で各自の持ち場に散っていく。
「カーツ! あなたは通信室に行って。確か前の船では通信遺産を扱ってたって言ったわよね」
「ええ。たぶん扱えます」
そう答えたものの、カーツだけはすぐには動かなかった。
「ちなみに、ヤツラってのは何なんです?」
「今はゆっくり説明してる時間はないわ。とにかく負けられない相手なの」
それ以上の質問の余裕はカーツには与えられなかった。
「アデル! これを持ってきたよ!」
「リューク! アデル船長だと言ってるだろう」
繰り返される小言を空笑いで躱しつつ、見習い船員の少年が駆け寄ってきた。腕には黒天鵞絨のマントがある。
それをサイファは不機嫌なまま取り上げると、アデライードの背後に回ってそっと肩に掛けた。
「ありがとう、サイファ。リュークもね」
右肩の留具を嵌めながら告げられた感謝の言葉に、リュークは自慢気な顔を返した。
「その黒天鵞絨は、アデルに相応しいんだ。イーサンのヤツなんかに渡すわけにはいかない。オレの船長はアデルだけなんだからな!」
「もちろんよ。いつか絶対に『黒の天鵞絨』号も取り返すから」
にっこり笑って、アデルは甲板に向き直る。
滑らかな黒天鵞絨の上で、艶やかな赤金の髪が揺れる。その輝きに、サイファが目を細めた。
「みんな! 今日は分が悪いから対決しないけど、けっしてヤツラに負けたわけじゃないからね! 次の機会まで待ってて!」
よく響く爽やかな声に、甲板上の男たちが拳を挙げる。
「わかってるぜ、船長!」
「次こそは、ヤツラに俺たちの名前を騙ったことを後悔させてやりましょう!」
「『黒の天鵞絨』号の船長は、アデル嬢ちゃんだけだ!」
敵を前に撤退するという状況にも関わらず、船内の意気は高まっていた。
そんな様子を、通信室に向かうカーツが様々な感情が入り交じった複雑な瞳で見つめていたことに、アデライードは気付いていなかった。
やがて、メインマスト上の檣楼手から、二つ目の報告が届いた。
「敵船、砲門の準備を始めてます!」
この時代の大砲は、鉄球を飛ばして対象物を破壊する機能しか持たない。弾そのものが破裂するわけではないので、飛船が攻撃を受けても即、致命傷にはならないが、当たり処が悪ければ航行に支障が出る。
発掘屋たちの飛船は、軍船や盗賊船ほど多くの大砲を積んでいるわけではないから、その大砲は威嚇や足留めの意味合いが強い。
とはいえ、のんびり弾が打たれるのを待っているわけにもいかない。
「速度を上げて距離を離して!」
アデライードの指示に従って飛船の動力炉が唸りを上げて加速を始める。しかし、それは少し遅かった。
大きな炸裂音がしたかと思うと、船のすぐ脇を何かが通過して舳先に触れないぎりぎりのあたりで落下していく。
「まだ射程内よ! 急いで!」
舷側から地上を見下ろして、民家や畑がないか視線を走らせる。幸い、流れ弾による被害の心配はしなくてよさそうだ。
その確認が取れたところで、アデライードは改めて船尾に向かい、自分たちを追ってくる敵船の姿を睨み据えた。
薄灰色の雲の中に浮かぶ飛船は、彼女たちの船よりもひと回り大きい。
優美な曲線を描く竜骨、真っ直ぐに伸びる三本のマストと、そこに張られた白い帆。黒く塗装された船体は重厚に見えるが、実際には軽快に動き回れることをアデライードは誰よりも知っている。
「イーサンなんかに好きなように連れ回されてごめんね……絶対に取り戻すから」
自分自身に誓うように力を込めて呟くと、何かを振り切るように一瞬だけ瞼を閉じる。
続いて二度目の炸裂音がした。黒い船腹から突き出た砲門が、今度はぴたりとこちらを向いている気がした。
「気を付けて!」
ぐんぐん近付いてくる鉄黒の球が、アデライードの真上を過ぎる。
ばふっ! という音とともに、メインマストに張られた帆布が不自然な形に歪む。索具を引き摺って絡みながら、破れた帆がゆっくりと落下する。
無理な力を加えられた帆桁が、苦しげに軋みを上げる。
「ちっ! 当ててきやがった」
眉を険しく寄せたサイファが、破損した帆の回収を命じる。絡まった帆と索が、無事な他の帆を邪魔してはかなわない。
「マストに当たらなかっただけマシだわ。動力炉が改善した今なら、少しくらい帆がなくても困らない……そうだわ。サイファ! 動力炉の出力をちょっと落として!」
「何? また大砲を撃ち込まれる気か?」
「いいから。煌糸との接続が悪かった頃の出力まで下げて。わたしが合図するまでのしばらくの間だけで構わない」
突拍子もない指示だったが、真剣なアデライードの視線から何かを読み取ったのか、サイファが頷く。
『船長! あっちの船から通信が入っています!』
そのとき、伝声管からカーツの声が聞こえた。
「大砲が当たってから通信だなんて、相変わらずイヤミなヤツ!」
甲板の整理を手伝っていたリュークが顔をしかめた。周囲にいた男たちが頷いている。
「ちょっと行ってくるわ。ここはお願い。たぶんないとは思うけれど、もし三発目を準備しているようだったら、そのときは全速で逃げて」
無茶な気は起こさないように、と念押しして、アデライードは通信室に向かった。
通信室は三人ほど入れば一杯になってしまう小さな部屋だ。その壁際に通信ができる遺産が置かれている。
黒っぽい箱状の台座の上にあるつるりと滑らかで透明な板は、硝子のようにも見えるが硝子よりもずいぶん薄く軽い。そこが離れたところにいる人物の顔を映し出して音を伝える。
他の遺産同様、アデライードにはそれがどういう仕組みで動作しているのかはわからない。ただ、あらかじめ互いの通信遺産同士の波長を交換しておけば、その相手と通信ができるという使い方を知っているだけだ。そして、日常ではそれで十分だった。
アデライードが通信装置の前に立ったときには、透明な板の表面が乳白色に薄く光って、相手側がこちらを待っている状態だった。
「繋ぎますか?」
隣で遺産を操作していたカーツの問いに、アデライードは頷くだけの返事をした。
するとカーツは迷いない指使いで通信を受諾する操作を進める。初めて触れた遺産にも関わらず、彼の操作方法に戸惑いは見られない。
やがて透明板の表面の光が強くなって一度明滅した後に、曇っていた板に一人の男の姿が現れた。
『やあ、こんにちは、アデル』
「……イーサン。久し振りね」
僅かに滲んで板に映るのは、四十歳を少し過ぎた男。飛船乗りにしては一見穏やかそうな笑顔をしているが、薄灰の瞳は冷酷な色を浮かべていて、相対する者に落ち着かない印象を与える。
『まだそのマントを羽織っているのか。華奢なお前にはそれは大きい。背伸びして無理に身に着けることはないのに』
「余計なお世話よ。このマントは絶対に譲らないから」
『そう突っ張るな。私だって何も無理矢理奪おうとは思ってないんだ。アデル、お前が進んでそれを渡してくれれば、悪いようにはしない。なんだったらお前たちをこっちの飛船で雇ってやってもいいんだ』
イーサンと呼ばれた男の撫でるような声に、アデライードの眉が釣り上がった。
「偉そうなこと言わないで! あなたにはその飛船を統べる正当な権利はないのよ! 父さんを裏切って勝手にその船を奪ったくせに!」
『過ぎたことはどうでもいいだろう。現にこの『黒の天鵞絨』号を指揮しているのは私だ。お前の方こそ、そのオンボロ船で勝手に『黒の天鵞絨』号を名乗っているじゃないか』
「父さんの名を引き継ぐのはわたしよ。このマントは父さんがわたしに残してくれたもの。あなたなんかにそう易々と渡すつもりはないし、その船も絶対に取り戻してみせるんだから!」
琥珀の瞳に決意を浮かべて、アデライードはイーサンを睨み据える。通信遺産の横に控えて成り行きを見ていたカーツが、その瞳の強さに思わず息をのんだ。
だが映像の向こう側の男には、それは伝わらなかったようだ。
『強がりを言っていられるのも今のうちだけだ。もうすぐ私たちの船がそっちに追い付く。私の部下たちが乗り込んできたら、そんな態度ではいられなくなる』
「簡単には追い付かれないわ」
『どうだか。さっきの大砲で帆の半分は使い物にならないはずだ。そのボロ船じゃあ、帆がなきゃこの曇り空は乗り切れないだろう。既にずいぶん船足が落ちてるじゃないか』
嘲るようなイーサンの言葉に、アデライードはにっこりと微笑んだ。
「残念ね。そうでもないのよ」
そして、通信室にも備えられた伝声管に向かって叫んだ。
「サイファ! 全速前進!」
短い返事のすぐ後で、真下にある動力室から伝わる動力炉の唸りが大きくなった。身体にかかる横方向の力で飛船が加速し始めたことがわかる。
『……なっ! いつの間にそんな速度が出せるように……っ?』
「じゃあね、イーサン! 次に会うときは、絶対にその船も返してもらうから!」
それだけ言うとアデライードはカーツに目配せした。
心得ていたようにカーツが通信装置を操作する。悔しそうに顔を歪めるイーサンの姿を最後に、板の表面の光が消えて透明な状態に戻っていた。
それを確認してから、アデライードは大きく息を吐き出す。ずっと力を込めて握っていた両手を、ゆっくりと開いた。
「……おつかれさまでした」
カーツが遠慮がちに掛けてきた声に、アデライードは下を向いていた頭を元に戻す。
「無事に港に辿り着くまで安心はできないわ。わたしは甲板に戻るから、カーツはまだしばらくここをよろしく」
硬い口調でそう答えると、振り返ることなく足早に通信室を後にしたのだった。




