プロローグ
さあっ、と帆の間を吹き抜けてきた風が、アデライードの赤金の髪を前方に舞い上げた。
「……晴れ渡った空、穏やかな追い風。船路には最適な日ね」
爽やかな声音で、空を見上げて呟く。
視線の先には、マストの先端と一面に碧色の空が広がっていた。
彼女が腰掛けているのは、第一マストの天辺の帆桁だ。
高さならば隣に立つメインマストの方が高いし、狭いながらも足場のある檣楼もあるのだが、アデライードはここの方が気に入っている。
風を切って進む船との一体感が、より得られるからだ。
大きく膨らむ帆の白色と船材の薄茶色しかない船上で、アデライードの髪色はよく目立つ。
身に着けているのは男物の簡素なシャツとズボンだけ。だが、波打つ豊かな髪が陽を弾くと赤金の光が揺れて、とたんに少女の雰囲気は華やかになる。
陽に灼けるのも気にせずに顔に掛かった髪を大きくかき上げて、琥珀色の瞳を前に向けた。
どこまでも続く青空のところどころに浮かぶ雲は薄く軽く、船の運行に影響を与えることはなさそうだ。
ふと、その空の右下方を黒い影が横切った。
「あら。今日はずいぶん高いところまで上がって来てる」
大きな翼に風を受けて滑空する鳶を追って、視線を下げる。
船縁の外には、野山の緑と麦畑の黄褐色が広がっていた。二色が交互に入り交じった合間には村落が点在し、遠くには石造りの都市城壁もある。
それらの上を横切っていく小さな流線型の影が、アデライードの乗る船のもの——そう。この船は、海原ではなく、空の上に浮かんでいるのだ。
船の形は、海洋を進む帆船と変わらない。違うのは、船を浮かせる力が海水ではなく、『先人の遺産』だということ。
今ではもう誰もその仕組みを解明できない遺産の不思議な力。そのおかげで大空を進める船のことを、人々は”飛船”と呼ぶ。
竜骨の優美な曲線を晒して、鳥のように高く早く飛行する飛船とその船乗りたちを、地上にいる者たちは憧れを持って見上げていた。
「……アデル! アデライード! アデライード船長ーっ!」
しばらくして、マストの足元から少女を呼ぶ大きな声が聞こえた。
緊迫した声にアデライードは素早く足を帆桁の上に引き上げる。帆桁の高さを気にすることなく軽やかに索具の梯子に飛び移り、するすると滑り降りるように甲板へ移動する。
「アデライード船長! 十時方向やや下に、敵船影です! 距離は八!」
迎えた船員の慌ただしい報告に、アデライードは無言で頷く。そしてシュラウドを降りてきた勢いのまま船尾に向かって走りだす。
船尾甲板で一段高くなっているクォーターデッキの上まで辿り着くと、そこには褐色の肌をした青年が待っていた。
「ヤツらの船だぞ、アデル」
黒い瞳に冷静な色を湛えて、青年はアデライードを迎えた。
「サイファ。二時の方向に、一羽だけ鳶が上がって来ていたわ」
「……それは」
「ええ。そのあたりに、きっと細い上昇気流がある。上手く風を味方に付けるわよ」
「舵手に伝える」
すぐに甲板を走り回っている船員たちに指示を飛ばすサイファの姿に、アデライードは満足気に微笑んだ。
「アデル、これを」
戻ってきたサイファが、両腕に抱えていた黒い布を広げた。
それは艶やかな光沢のある黒天鵞絨のマントだった。
毛羽の細かい滑らかな表面は、かなり質の良い証拠。そんな布をたっぷり使った豪華なマントは、アデライードの踵に届くほど長い。
「ありがとう」
振り返った彼女の背に、サイファがそっとそのマントを着せ掛ける。
アデライードは素早く肩の留具を嵌めると、クォーターデッキの端まで移動した。
ばさり、と大きくマントを翻す。
華奢な少女を覆い隠してしまいそうなその黒天鵞絨は、けれど少しも彼女の存在感を損なっていなかった。
それどころか、赤金の髪との対比も鮮やかに、いっそうアデライードの魅力を増している。
甲板を忙しく駆け巡っていた船員たちが、自分たちの船長の姿を見付けて、僅かに足を止める。
その彼らに向かって、アデライードは琥珀色の瞳をきらきらと輝かせた不敵な笑顔を見せた。
「みんな! ヤツらに、『黒の天鵞絨』号を名乗れるのはわたしたちだけだって、思い知らせてやるのよ!!」
高らかな宣言に、船員たちが奮い起こされる。
「おーっ! その通りだーっ!」
「俺たちの名を騙る臆病者なんか、蹴散らしちまえーっ!」
「アデルが唯一の船長だぞーっ!」
それぞれに拳を振り上げて叫び、甲板の上は高揚した空気で満たされる。
そんな船員たちを従えて、アデライードは右腕を真っ直ぐ伸ばし、船の行く先を定めた。
「『黒の天鵞絨』号、敵船左舷に向かって、前進!」