三四郎に一礼
どうもぼくには、人並みの勇気というものがないらしい。しかもそれだけでなく、コミュニケーション能力なるものも欠如しているようで。
真正面の座席に座っている女の子を見ながら、ぼくは溜息を吐いた。
電車で通学しているとき、いつもぼくの目の前に座っている女の子。名前も年も住んでいるところも知らない子だが、ぼくは常々彼女と友達になりたいと思っていた。
ぼくは自分が手にした本を見やった。夏目漱石の三四郎。好きで何度も読んでいる本だが、残念ながらぼくの周囲に夏目漱石を語れる人間はいない。
そっと、彼女の方へ視線を移す。ぼくの学校とは違うセーラー服。きれいに編まれたおさげ髪が、窓から差し込む夕日に照らされて薄っすら橙に染まっていた。ひざの上に広げられた本のページを静かにめくるのは、白くて細い指。少し日に焼けて赤みが差したその本を、ぼくは知っている。夏目漱石の、三四郎。
彼女とぼくはきっと、趣味が似ているのだ。
今までもこっそりと彼女が読んでいた本をチェックしていたのだが、ことごとくぼくの愛読書だった。これは、運命といっても良いのではないか。英語で言えばディスティニーなのではないか。そんな気持ち悪いことを考えるほど、彼女の読書傾向はぼくの心をくすぐるものだった。
いや、もし彼女との出会いがディスティニーでないとしても。周囲に話の合う友達がいないとなれば、少しでも仲良くなれる可能性のある彼女とお近づきになりたいと思うことくらい、当然ではないだろうか。
ぼくの薄ら寒い念を感じたのだろうか、彼女がふと顔を上げた。
はたと視線がぶつかる。
ぼくはあわてて彼女から目をそらし、三四郎の表紙に視線を落とした。
ああ、ぼくの意気地なし。うつむいたぼくを見つめる、彼女のいぶかしげな表情が目に浮ぶようだ。
そうこうしているうちにも、窓からの景色は早々と移り変わっていき、ぼくが降りるべき駅が近づく。それは、彼女と共有する時間の終了をも意味するものだ。
今日も話しかけられなかった・・・・・・。
ぼくはしょんぼりと肩を落としてかばんの中に本をしまった。また明日、登校するときに会えるだろうか。それならば、きっとそのときに――。
停車のアナウンスが響き、窓の外の風景の流れがゆるやかになった。小さな衝撃のあと、電車は止まり、お決まりのようにドアが開く。
ぼくは重い腰を上げ、電車からプラットホームへと降り立った。定期を手に持って改札口を通ろうとしたまさにそのとき、
「ねえ、あなた」
聞き覚えのない声。
驚いて振り向くと、そこにはおさげの彼女が改札の内側で立っていた。
少し緊張したような表情。彼女はすっと息を吸って、こう言った。
「あなたは、よっぽど度胸のない方ですね」
あなたは、よっぽど……?
どこかで聞いたようなその台詞。
どこか? ちがう、あの本だ。あの本の、ほんの序盤の方。
「あ、ええと」
ぼくはいつもの三倍くらいの速さで頭を回転させた。
彼女がなぜ突然話かけてきたのかだとか、そんなことは後で考えればいい。今ぼくが考えるべきは、彼女に対する返答だ。
こういうときは、どうやって返せばいいんだっけ。あなたはよっぽど、よっぽど……。
「ストレイシープ……?」
言えた。
ちょっと自信はなさそうだけど、ぼくと彼女をつなぐ、キーワード。
ぼくの答えは、彼女のおめがねにかなうものだったらしい。彼女の顔がぱっとほころんだ。にやり、ではなく本当に嬉しそうな笑顔。
こうなれば、勇気だのコミュニケーション能力だの、御託を並べている暇はない。勇気を出してくれたのは、彼女のほうだ。今度はぼくががんばる番。
「夏目漱石とか、好きなんですか」
ぼくの平凡すぎる台詞にも、彼女は笑顔のままで頷いてくれた。
かばんの中で眠っている三四郎に感謝をしつつ、ぼくもにっこり笑って見せた。