ずっと欲しかったもの
大学の図書館前にはいくつかベンチが並んでいる。その周囲には背が低い木々が植えられていて、足元には芝生が生い茂っていた。特に今のような春先は日差しが温かくて、昼食をここで食べる学生も多い。
そんな人だかりから少し離れたところでベンチに座っていると、また少し伸びてきた茶色の髪をそよぐ風を心地良く感じた。
今はカーキ色のスカートの上に黒い上着を羽織っているが、半袖になっても気持ちいいかもしれない。
ふと、足元にシロツメクサがいくつも生えていることに気付いた。白いその花を見て、小さい頃よく冠を作っていたことを思い出す。高く伸びたその花の茎に手を伸ばそうとした時、足元の影に気付いて顔を上げた。
「ごめん、遅くなって。待ったかな?」
「ううん。今来たところだから」
途端に恥ずかしくなって、地面に伸ばしていた手を慌てて隠す。黒くサラッとした短い髪を揺らしながら、慌てて来た様子である彼を見上げた。一六〇センチ近くの私より二十センチは高い彼は、私が何をしようとしていたかは気付いていないようだった。
「それで、話って?」
私から少し離れた隣に、チェックの赤いシャツに黒いジーパンを履いた彼が座ってから私は聞く。だがその問いにすぐには答えずに、図書館に出入りする人の流れを彼は見つめていた。
理工学部の彼とは学部も違っていたが、一年生の後期で取った教養の心理学の授業が親しくなるきっかけだった。
「隣同士で議論してください」と教授から言われ、ある中学生が描いた『家』の絵に秘められた深層心理に関して、偶然隣の席だった彼と意見を交換することになった。
「玄関に向かって並んで三人で歩いてる……真ん中にいるのは小さいから子供かな。中学生が描いたにしてはイメージが幼い気がする。何だかこの子、寂しいんじゃないのかな」
私は驚いた目で、初対面のはずの彼の顔を見ていたと思う。
「私も、この絵見た時にそう思った」
偶然なのかお互い考えていたことが似ていて、その後も教授の指示があるまで話が盛り上がった。
「君の名前、どこかで聞いたことがあるような気がする。よく聞いているような……けれど、思い出せない。なんでだろう、こんなことあまりないのに」
会話の最後でそんなことを言われ、次に顔を合わせた時も彼は私の名前を覚えてくれていた。そしてその時から、授業の度に隣の席に自然と座る流れになった。
お互い一年生だったが、彼は周囲の学生と比べてとても真面目な印象で、授業で扱った内容を心理学の立場から議論していた。
そんなやりとりを繰り返すうちに、私にとって彼が話しやすく感じたのかもしれない。半年という時間を過ごすうちに、彼に惹かれていったのも自然な流れだった。
だが、そうやって今まで私とよく話していたはずの彼が今日はまごついていることに驚く。このままこの状態が続くのかとも思ったが、意を決したのか彼が突然口を開いた。
「あのさ、僕と付き合えないかな?」
それまでのうろたえている態度とは対照的に、彼ははっきりと言った。まっすぐにこちらを見ていて、逆に私の方が戸惑って返す言葉に困ってしまう。
「あの、えっと……」
「いや、初めて好きになったのが君なんだけど、このまま片思いでもいいと思ってる。僕はあまり時間を作れないから恋人らしいことをしにくいし、話せるだけで嬉しかったから」
どうやら彼には、今の私は交際を迫られて困惑しているように見えたらしい。彼の方から、やんわりと断りやすいようにしてくれているようだった。
だが私は、むしろ彼の言葉に漠然とした不安を感じた。『恋人らしいことをしにくい』とはどういうことなのだろう。
けれどもこの場ではそれを口にせず、とりあえず彼の勘違いを解消することに意識を向ける。
「いえ。こちらこそ、よろしくお願いします。佐藤くん」
佐藤祐貴くんは驚いた顔つきでこちらを見る。今私が言ったことがまるで、有り得ないと分かっているような話──たとえば、月にはウサギが住んでいる──だったかのように。だがすぐに彼は冷静を取り戻し、腕時計を見た。
「それじゃあ、よろしく。和泉さん。じゃあ」
彼は私の方を向いて手を挙げると、背を向けた。
丁度その時、授業の終わりを告げる鐘が鳴り響いた。図書館のすぐ隣にある教会のもので、教室内で聞くよりも音が大きく聞こえる。
都内にある私立大学の中でも、ミッション系の校風が強いことがこの大学の一番の特徴だった。
その鐘が鳴り響く中、私の方を振り向かずに彼は講義棟の方へ歩いていく。彼の去り際に私は何も言えず、その後ろ姿を立ち止まって見つめているだけしか出来なかった。
*****
佐藤くんとは授業で会う度に会話をしていたが、メールアドレスは聞いていなかった。今までその必要性がなかったからだ。
二年生になってからもお互いの空きコマで心理学の授業を取っていて、それは木曜日の三コマ目だった。告白された後、次の週のその授業で初めて彼と会った。
「ねぇ、今度の土日どっちか会えないかな?」
私から誘うと、彼は考える素振りを見せた。
「土日か……ちょっと時間をくれないかな?」
理由を聞くと、彼は部活が忙しいからと答える。そういえば体付きは細いものの、中学時代からずっと卓球部だと以前、会話の中で彼は言っていた。
そして、うちの大学の卓球部は全国でも有名だとは噂でも聞いていて、会いにくいのも納得するしかない。
結局その場では、お互いの連絡先を交換して明日返事を聞くことになった。番号とアドレスが分かっただけでも進歩、と考えるべきなのだろう。
周囲の友人が付き合い始めた途端に恋人と二人で行動しているのを見慣れていたせいか、若干違和感がある。けれどもそれは私だけのようだった。そう考えると誰にも言えなかったが、少しだけ物足りなさを感じてしまう。
結局、翌日になって彼の方から「明日なら大丈夫。一時に正門で」とだけメールが来た。
彼はメールが苦手なのだろう。その事務的な内容に私も「分かった」とだけ書いて返した。
当日、十分前に正門に行くと佐藤くんは既にいた。
「ごめん、待たせちゃって」
「いや、僕も今来たところだから」
ふと、一週間前と真逆だと気付くと少し笑いそうになったが、彼は全く気付いていないようだった。私はこぼれそうになった笑みを隠すと、先に歩き出した彼を急いで追った。
誘ったのは私の方でも、どこに行くかなどは決めていなかったことを歩きながら伝えた。
ぶらぶらして行く場所を決めるのかと思いきや、彼はそのまま迷うことなく大学から駅方面に歩き続ける。行き先を告げられぬまま、彼の少し後ろを私も歩いた。
やがて緑色の看板を彼は確認すると、ビルの合間の細い路地に入っていく。私は彼の行動の意味がよく分からなかったが、慌ててその後ろ姿を追った。
細い路地を歩き進めていくと、『Coffee』と書かれたレトロな看板がある一軒のお店に着いた。
どうやらカフェのようで店の前にはや植木鉢の他に、古びた鳥籠が飾られているのが印象的だった。ガラスが嵌め込まれた白い木製の扉などがあり、一目見て洋風の装いだと分かる。
テラス席があるのを見て、今日みたいな天気だと気持ち良さそうだと感じた。
「ここ、ケーキがおいしいって聞いたんだ。入ってみる?」
その口調から、佐藤くんもこのお店に来るのは初めてのようだった。その割に、迷うことなくここまで歩き続けていたことに驚きを隠せない。
「もしかして、調べてくれたの?」
私がそう聞くと、彼はまるでそれが当然かのような顔をした。
「こういうの、男がリードするものだって部活の先輩に聞いたから。勝手に調べたりしてごめん」
「ううん、嬉しい」
今までこんなデートらしい経験をしたことがなく、私は喜びを隠せずについ微笑んでいた。彼はそんな私の様子を気にすることなく白い扉を開ける。知らないお店に行くことが苦手というか億劫に感じる私は、彼から離れないようにその背中を追った。
店に入ると窓の大きさが目を引いた。外からの光が多く入り、店内の照明が控えめな明るさでも感じが良いように思える。
焦げ茶色をした木目調のテーブルには椅子の数だけ、レースで縁取られたオフホワイトのランチョンマットが敷かれていた。
私たちは窓際の席に座ると、注文を聞きに店員の女性がやってくる。よくあるファミレスのような安っぽい制服ではなく、フリルが付いた白いエプロンをしているのが目に眩しかった。
「ご注文はいかがなさいましょうか?」
メニューも殆ど見ていなかった私は戸惑ったが、彼はセットメニューらしきものを二人分注文していた。
「ここはケーキも付いてくるランチメニューがおすすめなんだってさ」
店員が去ってから、彼がそう答えてくれた。初めての店なのもあって、彼がこうして全部話を進めてくれたことに私は安心感を覚える。頼りになる人だな、と思った。
食事が来るまで、佐藤くんとゆっくり話をした。もちろんその内容は授業のことや身近なことなど、他愛もないことばかりだったが、彼と会話をしていると楽しかった。
食後のケーキも堪能し、店を出た時には二時間近くも経っていた。ビルが迫ってくるような狭い路地を抜けると、再び大通りに出る。
「そろそろ帰らなきゃいけないから。じゃあ、また」
時間は三時を過ぎたあたりだったが、そう言って彼は駅に向かって歩き始めた。
今まで楽しい時間を過ごしていたはずなのに、一人残された私は、途端に崖から落とされた心地になってしまう。
けれども普段の生真面目さに加え、他の女の子といるところを全く見ないことから、彼に二股されているなどは考えなかった。
むしろ、私のことが好きなはずなのに、どうしてこんなに冷たいのかが釈然としなかった。それこそ不安を呼んでいる。
そう思っていても、こちらを振り返らず歩く彼の背中を見届けると、私も反対方向に歩き始めるしかなかった。
*****
それから、休日の度に彼を自分のアパートに誘った。古びたアパートな上に片付けが苦手な私だったので、初めて中に入った時は彼も少し眉をひそめていたように見えた。
けれども私が何度も誘っているうちに、土曜日になると大学から徒歩で十分くらいの位置にある私のアパートに彼は来るようになった。
いつも一時をちょっと過ぎたぐらいの時刻に彼は来ると、遅めの昼食を一緒に作ったりする。キッチンに立つと、食器棚の中のあまり使っていない数種類の調味料の並びが目に付いた。
一人暮らしを始めてから一年が経ったが、実家にいた頃は殆ど料理をすることもなく、腕もイマイチだ。
一人暮らしを始める際に、台所に何が必要かも分からず、器具や調味料も見様見真似で揃えたものだった。
その一方で、実家暮らしであるはずの佐藤くんは料理の手際も良く、必要な物がないとそのことを指摘してくる。
「みりんって置いてないの?」
この日も、彼はガス台の下の扉を開けて声をかけてきた。
「買ってないよ。何の料理に使うか分からないし」
私が真顔で答えると、彼は心底残念そうな表情をする。
「君は煮物を作る時に何を使っているんだい?」
「煮物? 作ったことがないから分からない」
そう言うと、佐藤くんは溜息を吐いた。
「今度買っておいて。僕が使うから」
私が作るものなんて、チャーハンとかオムライスぐらいだ。それらでさえ、彼からはご飯をパラパラとさせた方がいいとか玉子が固いと言われてしまう。
そして、もっと火力を強くして焼くべきだとか、卵料理を作るときには隠し味に牛乳を入れた方がいいと力説する。
だが、食べられるならそれでいいと思う私は料理にそれほど興味がなく、彼の小言を黙って聞いていてもそれを次に生かすことはあまりなかった。
彼と一緒に台所にいても皿を出すことぐらいしか出来ず、そのうち邪魔にしかならなくなった。
けれども彼には言えなかったが、自分が普段台所で料理をしているだけでも随分マシじゃないのかと内心思っている。
実家にいる頃は『料理』という行為自体に魅力を感じるどころか、身近なものとしてさえ感じていなかった。
テレビでよく、夕食の一家団欒とか母親が台所に立つシーンがあったりするが、どちらもドラマ特有の家族像だとなんとなく漠然と思っていた。
そんな私だったから、彼が何度目かに来た時には部屋で待っているように指示された。彼が昼食を作ってくれることだけで助かったし、それで構わなかった。
しかしそうなると、料理以外で彼と過ごせることが少ない。彼が料理したものを食べ、お互いの読んだ本の話などをした後、いつも夕方前に彼は腰を上げる。
「まだ居たらいいのに」
「でももう帰らなきゃいけないから」
その理由が私にはよく分からなかったが、彼は申し訳なさそうに私を一度だけ抱擁した後、そう言っていつも早く帰る。
告白された際に、『時間をあまり作れない』と彼が言ったことの意味が、こういう場面になってやっと分かった気がする。
心理学の授業前の僅かな休み時間と一、二週間に一度の土曜日に過ごす三時間程度が彼と話せる唯一の時間だ。
それらはあまりにも儚くて、彼が帰った後、ひとりになった私を孤独にするには十分だった。
「ねぇ、もっと長く居られないの?」
いつものように時間を見計らって彼が立った時、耐え切れずにそう言った。その頃には梅雨の雨が一日中降り続くような時期になっていた。
「付き合う時に言ったとおり、あまり時間を作れないんだ。もし我慢出来ないなら、いつだって別れていいから」
彼は困った顔をしながらそう口にする。そんなことを言って欲しかった訳じゃない私はそれ以上何も言えず、彼を玄関まで送るしかなかった。
そしてドアが閉まると、朝からずっと続く単調な雨音が部屋中に響くのを憎く感じた。
*****
それからいつも私の家で会っていたが、彼の家に初めて招待されたのは夏休み前のことだった。その日の午後は休講で、お昼過ぎから佐藤くんの家に向かう。
大学の最寄り駅から三十分くらい電車に乗った。教えてもらっていたのと同じ駅名を確認して降りたが、二十三区から出ることがあまりなかったせいか、今まで聞いたことがない駅だった。
都内と都下は違うとよく言う。同じ東京都でも、都内の人間が都下と呼ばれる地域に行くことは少ない。
都内から出ると開発を免れた地域が多く、改札を抜けると昔ながらの商店街らしき通りが続いているのが見えて、私にとって逆にそれが新鮮だった。
彼は改札を抜けてすぐの広場で待っていた。私が手を振ると、彼も気付いて手を上げる。
「無事着いたみたいで良かった」
佐藤くんはそう言って私を迎えてくれた。二人で並んで歩いていると、十分くらいで彼の家に着く。
そこは郊外によくある住宅街の中に佇む一軒家で、芝生の生えた青い庭が門の外からでも見えた。ベランダの物干し竿には洗濯物が干してある。
家には誰もいないとは聞いていたが、知らない人の家はいつも緊張する。玄関に入ると、床のフローリングが光を反射しているのと、真っ白い壁紙が目に付いた。
物が整然と並べられている中、有名なキャラクター物の大きなぬいぐるみが多くあり、その一つと目があった。自分とは縁がないそれらを見て、『幸福な家庭』という言葉が何故だか脳裏に浮かぶ。しかしリビングに入ってからも明らかに女の子向けと思える文房具やぬいぐるみがそこかしこにあり、さすがに不自然だった。
「これ、お母さんの趣味?」
「え、言ってなかったっけ。僕には──」
その時、玄関が開く音と共に「ただいま!」という声が響いた。
驚いた私と対照的に、彼は安堵の笑みを浮かべた。
「あ、帰ってきた」
やがて、バタバタという足音の後にリビングのドアが開いた。
「お兄ちゃん、おかえりなさい! ……だぁれ、その人?」
声の主は随分と身長が低く、黄色い帽子を被っていた。後ろに背負った赤いランドセルにはよくある交通安全の黄色いカバーがかかっている。
「美穂、知らない人にはまずは挨拶だろ」
佐藤くんが少し声を尖らせて言うと、途端に女の子の表情が暗くなった。
「……佐藤みほです」
それだけ言うと、女の子はドアを閉めて出て行ってしまった。
「ごめん、人見知りが激しいみたいなんだ。後で叱っておくから」
「妹さん? 随分小さいね」
驚きながらも私が言うと、佐藤くんも頷いた。
「ああ、小学校四年生なんだ。僕と九歳差」
結構歳が離れている兄妹なんだなと思った。私の友人の中で小学生の兄弟姉妹がいるのは見たことがない。
「親御さんの帰りは早いの?」
何気ない質問のつもりだった。だが、彼はソファーに座ると少しだけ私から目を背けた。
「母は美穂が生まれる時に亡くなったんだ。父は仕事でいつも遅くまで帰ってこない。だから、家のことは全部僕がやってる」
「そんなこと、聞いてないよ」
初めて聞いた話だった。私は戸惑いを隠せなかった。
「僕が家のことやらないと、妹一人じゃかわいそうだから。土日は基本的に部活も休みだけど、試合がない日曜は家族で教会に行ってる。だから最初に言ったんだ。
君のことは好きだけど、あまり時間を作れないって」
彼は多くは語らなかったが、きっと家族三人で日曜礼拝に行くのはお母さんのことがあるのだろう。そんなことを言われたら、普段彼がいない時に感じる不満とかを言えるはずがなかった。
彼の部屋でいつも通り話した後、部屋を出る時になって彼の方から私を引き寄せてきた。けれどそれも一瞬で離され、私は玄関まで送られる。
「じゃあ、気を付けて」
これから夕飯を作るという彼は駅まで送れないと言っていた。私はそれに内心落胆しながらも、知らない街を一人で歩いた。自分が今抱いているこの感情を正常だと思いたい。
けれども佐藤くんと妹さんの暮らしを見て、私が立ち入る隙はなかった。四年生の割には少し幼い気がしたが、兄にしか甘えられない状況では仕方ないのかもしれない。
妹さんにとって彼は父親代わりのようだった。そんな存在を私が取り上げる訳にはいかない。
けれども、どうしてもこの感情を抱いてしまう。寂しい、羨ましい、妬ましい、寂しい、寂しい、寂しい──
今の私が抱いている感情はひょっとして異常さを秘めているのかもしれない。小学校四年生にそんな感情を抱くなんて。けれども、これが正常と思いたい気持ちもあった。
そんなことを考えながら、今日初めて来た街を歩いていた。
*****
テスト週間も終わり、あとは補講さえ終われば夏休みだった。
あまり人付き合いが得意ではなかった私だったが、大学では学科が一緒の四人グループで行動している。
授業や休み時間に一緒にいることが多い四人でもそれ程深く話した事はなく、プライベートで個人的に会うような間柄ではない。
けれども、時々は彼女たちの誘いに乗ることもあり、このうち由梨の提案により久しぶりに飲み会をすることになった。
金曜日は五コマ目まで補講が詰まっていたが、四人とも同じ授業を受けていた。いつものように横一列に並んで授業を受けた後、大学近くのダイニングバーに行く。
四人で集まる時はよく行くそのバーは女性でも入りやすい佇まいだった。こぢんまりとした空間に程よい明るさの照明で雰囲気も良く、私たちのグループにとってお気に入りの店だ。
店内奥のテーブル席に四人で着いてしばらく世間話をしながらカクテルを口にしていると、三人とも段々酔いが回ってきた様子でいた。
お酒を特段好きなわけではないが、いくら飲んでも酔わない体質の私は、こういう時はいつも三人を傍観している役だった。
「もう、絶対あんな男となんか付き合わないんだから!」
この飲み会を企画した由梨に何かあったとは思っていたが案の定、由梨の口からそんな言葉が出ていた。
由梨はこの日とても荒れていて、それ程強いわけではないのに既に片手の数以上にグラスを空けている。
「由梨が悪いわけじゃないって、悪いのはその男だよ」
「本当だよ! 由梨がお父さんいなくて大変なんだから、それを分かってあげるべきだったじゃない」
他の二人もそう口を揃えていた。話を聞く限り、由梨は半年付き合っていた彼氏と別れたらしい。その原因が、離婚して父親がいない由梨と彼氏の考え方の違いにあったようだ。
「お兄ちゃんはいつも仕事で遅いし、あたしが帰らなきゃお母さん一人でご飯食べるんだよ?
それにあたし、授業多く取ってるから予習しなきゃで、そんな時間あるわけじゃないし。
だから、泊まったりとかあまり出来ないでいたら、他に女作って同棲してたなんて信じられない……」
いつの間にか由梨が泣いているのを、二人は慰めている。だが、私はその輪に入らずに端の席で三人を眺めていた。
───私は由梨よりも、その彼の気持ちの方が分かってしまった。
由梨の彼氏のことも私は知っていた。同じ学科で、何度か話したことがある。
私は察しがいい方で、彼と話しているうちに彼がどちらかと言うと難アリと分類されるタイプだと感じ取っていた。
実際、二人が付き合い始めたばかりの頃に、地方から来た彼が実家や地元の友人などと一切連絡を取っていないことを由梨から聞いていた。
彼は常に由梨といたがり、二人が付き合っている間、由梨が私たちの輪から離れることが多かった。
「私だって、友達といたい時もあるのにね。それに、まだ付き合い始めたばかりなのに、同棲したいって言ってるの。
あたしって実家暮らしだし、そういうの無理って思っちゃうからどうしよう」
既に由梨は悩んでいるようだった。だがその話を聞いた時、『私なら叶えられるのに。私だったら分かってあげられるのに』と思ってしまったことは由梨には言えなかった。
どちらかと言えば、由梨の彼氏と同じことを私は望んでいた。
だから友人である二人が頷き、由梨の彼氏を責め立てていることに私は同意出来なかった。
由梨が家族を大切にしたかったように、その彼氏だって大切にしたい家族をただ作りたかっただけだと分かってしまったから。
そんなことを考えながら、目の前にあるカクテルが注がれたコップに口付ける。
目の前の三人と比べたらひどく冷静なように見せていたが、ピンク色をしていて甘い液体のこれを飲むだけで、不満を人前で吐き出せてしまうことさえ本当は羨ましかった。
*****
『夏風邪は馬鹿しかひかない』とはよく言うが、体温計を見ると37.5度と表示されている。
夏休みが始まって一週間ぐらいした頃だった。珍しく風邪をひいてしまい、熱はそれほどないが体中がだるい。
一度は眠ってみたものの、再び起きた時には夕暮れ時で空腹がお腹に響いた。
空腹で落ち着かないのに加え、何か食べなければ薬を飲むことさえ出来ない。食べ物や飲み物を買いに行きたいが、そんな気力さえ出なかった。
「少し熱があって、今寝てる。買い物行きたいけど動けない」
大学の友人は皆実家に帰っている時期で頼めるのは佐藤くんしかおらず、少し迷ったがそう書いてメールを送る。
それから、うなされながらもまた少し眠った。一時間ほどで目が覚めたが、体調の悪さは変わらなかった。
「もう夜だから、妹を連れ出すのも家に一人で置いて行くのも出来ないよ。だからごめん。明日なら土曜日だから行けるよ。それか、友達に頼んで」
佐藤くんからの返信はこう書いてあった。私はそれを読んだ時、苛立ちを隠せなかった。
「友達は実家に帰ってて頼めないの。会いたい」
そんなことを書き、私にしては珍しく再度送る。そして体が弱っていると、普段以上に人に会いたくなるらしい。
気を紛らわせるために普段は見ないテレビを点けたが、何を話しているのか頭に入ってこない。三十分して携帯の振動音が鳴るまで、私はただひたすら彼のことを考えていた。
「俺しか今いないし、家に帰って来れるのが夜遅いのにそれまで小学生の妹を一人にして行くことは出来ないよ。今日はゆっくり寝て治して」
私は彼の言うことが理解出来なかった。赤ん坊なら分かるが、小学校四年生なら家に置いておくぐらい当たり前のことじゃないのだろうか。
途端に、熱でぼんやりとした頭に植木鉢や割れた皿が転がっているリビングが浮かんだ。そして、ひっくり返ったソファーの上に自分の足を抱えて座っていた姿。
───その日も、夜になっても誰も帰って来なかった。片付ける人がいない家はどんどん荒れていく。
学校に行くのと入れ違いに帰ってくる母がテーブルに置くお札の数だけが、日に日に増えていった。私はそのお金を殆ど使わず、ただ待っていた。ずっと。
やがて大人になってやっと、誰も帰って来ないことを察した。そんなことを今になって思い出していくうちに、深い霞がかったように意識は朧げになった。
アパートのテレビは点いたままだった。いつの間にかニュースの画面になっていて、NHKのアナウンサーのような年配の男性が映っていた。
「臨時ニュースをお伝えします。
一人につき一票、自分以外の人を選んで投票し、その得票数がゼロだった場合、該当者を殺処分出来るという人口選別条約の即日公布・施行案に日本は調印しました。
これにより、世界レベルで起きている人口の増加は飛躍的に抑止することが出来るでしょう」
あぁ、じゃあ私は死ぬんだ。
アナウンサーがそう告げた時、迷いもなくそう考えた。別居中である私の両親はお互いの愛人を選び、友達はその両親から選ばれ、友達自身は愛する誰かを選ぶ。
そして私が選ぶたった一人は、自らの家族を選んでしまう。そうやって誰からも選ばれない私は、世界から見れば間違いなく必要ない人間だろう。自分でそれを一番分かっていた。
*****
目が覚めると、大量の汗をかいていた。
カーテンを開けたまま眠っていて、窓の外には青白い闇が広がっている。都会の夜は明る過ぎて星が見えないと、地方出身の友人がいつかぼやいていたのを何故だか思い出した。
私は立ち上がり、水を汲みに流しに立つ。そしてコップから水を口に含むと、ゆっくりとそれを咀嚼して飲んだ。
──小さい頃から、ずっと欲しかったものがあった。
それが今、とっくに手に入れられる歳だ。けれども結局、大人になることに言いようのない恐怖を感じた私は大学に通い、手に入れるのはもっと先の話に自らしてしまっている。
私には、守るべき存在はない──それはつまり、守ってくれる存在もいないことを意味している。そんなこと、随分前から気付いていた。
ふと、携帯の着信音が鳴った。手に取ると、『佐藤祐貴』と表示されている。日付が変わる寸前という時刻で、こんな時間に佐藤くんから電話が掛かってくることに驚いた。
そもそも電話なんて、付き合ってから一、二度した程度で全て私からだった。
不思議に思いながら通話ボタンを押すと、いつかは聞き慣れたいと感じる少し低い声が耳元に届いた。
「ごめん、遅くに急に掛けるなんて」
「ううん、丁度起きたところだったから」
電話から聞こえてくる声から、いつもと同じ佐藤くんの姿が思い浮かぶ。それはいつだって優しく、そして同時にその優しさによって私から適度な距離を取る彼だ。
「心配だったんだ。でも今日は妹が早く寝なくて、こんな時間まで電話出来なかった」
「そっか。妹がいるから、来れなかったのも仕方ないもんね」
あんな夢を見たばかりだったせいか、苛立ってしまったのをつい隠し切れずに少し卑屈になって答えた。
「どうしたの? 何だかいつもより様子が変な気がするけど」
堪らなくなって、私は今までずっと聞かないようにしていたことを口にしてしまう。
「どうして、彼女より妹を優先することを当然だと思うの?」
「もしかして怒ってる? でも、家族だし俺が父親のようなものだから一人にさせて寂しい思いさせたくないし、どうしても優先してしまうんだ。君ならそれも理解してくれてると思ってた」
『理解してくれてると思ってた』なんて、勝手過ぎる。電話口で私は叫んだ。
「そんなこと言われても、分からないよ。私だって、誰もいないんだよ。佐藤くんしかいない」
ずっと胸に秘めていた思いを気が付くと言葉にしてしまっていた。泣いたってどうしようもないことなんて、もう随分昔から知っていたからいつも泣かないようにしていたのに、どうしたってそれは止まらなかった。
「そう言っても、君にだって家族はいるだろう?」
────あぁ、この人は何も知らない。
「そんな人誰もいない。たとえ私がどこかに消えたって、誰も探さない。
もし、『人口過多だから人間を節約しよう』って、選ばれた人たちだけ生きられる世界になったら、誰からも選ばれない私は死ぬ側になってしまう。
だから私は、どうしても求めてしまうんだよ。あなたに──」
見ていて欲しい。探して欲しい。選んで欲しい──どうか、私だけを。
けれども最後までそれを言わずに、私は通話終了のボタンを押した。
それが、残された僅かな理性で出来ることだった。
一度に言ったせいか息切れをしながら電源ボタンを押していたが、画面が暗くなると私は携帯をベッドに向かって強く投げる。携帯は勢いよくベッドの上のタオルケットにめり込んだ。
付き合って四ヶ月を過ぎただけの単なる恋人相手に、ここまで求める方がおかしいと自分でも分かっていた。
けれども、もう耐え切れなかった。
夢を見て余裕が無かったせいもあるが、ずっと言葉にしなかった苛立ちが今更溢れ出す。次から次に出る涙を拭かずにベッドに倒れこむと、タオルケットを口に当てて雄叫びのような声を殺した。
*****
そのまま夜明けが来るのを待っていたら、再び眠ってしまっていた。起きた時には朝の十時になっていて、涼しい今のうちに買い物をしに近くのスーパーまで足を運ぶ。空腹が堪えたが、体調は昨日より少し良くなっていた。
二十分くらい家を空けていたが、帰ってきて鍵穴に鍵を入れると、開けたはずなのにいつもと違って手ごたえがなかった。
ドアノブをひねると、ドアが開いている。どうやら閉めずに買い物に行ってしまっていたらしい。
ゆっくりとドアを開ける。すると物音が室内から聞こえてきたのと同時に、いないはずの声がした。
「おかえり。開いてたから勝手に入っちゃった、ごめん。でも、ちゃんと寝てなきゃ駄目だよ。色々買ってきたけど、入れ違いになってしまったじゃないか」
佐藤くんはそう言って、玄関で迎えてきた。
「どうして」
驚きのあまり、それしか言葉が発せない。ふと、『明日なら土曜日だから行ける』と彼がメールで書いていたことを思い出す。
夢を見る前と変わらない彼の顔を見て、胸の鼓動が一つずつ早くなるのをいやでも感じてしまう。
どこにもいかないように縛り付けたい、だけどそんなことは出来るはずもなく私はいつも彼を逃がしてしまう。
けれども今、確かに。私の目の前に佐藤くんはいる。
「……昨日はごめん。あの電話の後に考えたんだけど」
玄関先で彼から急に言われ、靴を脱ぐのも忘れてその場で立ち尽くしてしまう。彼も気恥ずかしいのか、少し声を潜めた。
「妹もいつかは、守らなくてよくなる。でも和泉さんのことは、望めばずっと守り続けられる。
もし、神様に『一人だけこれから守る人を選べ』って言われたら……間違いなく君を選ぶ。昨日、そう決めたんだ。
今まで不安にさせてごめん。けれど、こんな自分を好きになってくれてありがとう」
思いもしなかったことで頭が混乱したが、何を言われたのか理解した途端に私は佐藤くんに飛び付きたくなった。
そんな柄にもないことをしたことは今までなかったが、今なら出来る気がする。それぐらい嬉しかった。
だがふと、視線を感じて部屋の奥の方を見ると、妹さんが机の前に座ってこちらを見ているようだった。それに気付くと恥ずかしさのあまり、慌てていつもの平然さを装う。
「妹さんも来てくれたんだ」
少し驚きながら妹さんの方を再び見たが、持ってきたおもちゃに視線を向けていた。
「勝手に連れて来てごめん。いつも美穂の習い事の合間にここに来てたんだけど、今日急に休みになっちゃってさ。
お見舞いに行きたいって美穂に話したら、一緒に行きたいって。ほら、美穂」
みほちゃんは呼ばれるとすぐにこちらを向いた。はじめからこちらを伺っていたのは知っていたが、それにしても反応が早くてみほちゃんの表情は少し緊張しているように見えた。
みほちゃんは駆け寄ってくると、私に手紙らしき紙を渡した。
「この前は、ごめんね。どうやって話していいか分からなかったの。だからはい、これ」
それは雑誌の付録についているような星型のかわいいメモで、『カゼ、だいじょうぶですか? はやく元気になってね。こんどあそぼう』と書かれていた。
普段子供と関わる機会がなかったが、純粋に嬉しかった。
「ありがとう。これもらったから、早く元気になれるよ」
膝を曲げて柄にもなく笑いかけると、途端にみほちゃんも笑顔で「うん!」と頷いてくれた。
子供という存在にどう接していいか分からなかったが、私が分からないならみほちゃんだって同じだ。
それなのに、みほちゃんの方から頑張って私と接そうとしてくれている。そんなことに今更になって気付き、小学生に気を遣わせてどうすると、今までのことを反省した。
それから、佐藤くんがご飯を作ってくれている間、みほちゃんと遊びながら待っていた。
「こら、美穂。風邪ひいてるんだからちゃんと寝かさないと駄目だろう」
「はーい。ごめんなさい」
二人分のチャーハンと私のおかゆをテーブルに並べながら、佐藤くんはそう言って眉をひそめた。みほちゃんは叱られて大人しくなってしまった。
「けど、昨日より良くなったから」
「そっか。すまなかったな。けど、なら良かった」
佐藤くんはそう言ったが、私が遊んでいたことを気にしていない様子に、兄妹揃って少し嬉しそうだった。
そして三人で、佐藤くんが作った料理を食べた。
「お兄ちゃんの料理、すごくおいしいでしょう?」
「うん。おいしいね」
私がみほちゃんと目を合わせてそう言っているのを、佐藤くんはゆっくりと眺めていた。私はみほちゃんの隣に座っていたが、自分でも驚くくらいにみほちゃんと自然に接せていた。
話しているうちに楽しく、今まで妹もいなかったけどこういうのもいいかもしれなかった。
それに偶然名前も似ていて、端から見れば本当の姉妹に間違えられるかもしれないとまで考えた。
「僕たち、こうしてると何だか家族みたいだな。『美穂』と『香穂』で名前も揃ってるし」
初めて名前を呼ばれてドキっとしたのと、同じようなことを考えていたから少し驚く。
「そっか、かほだもんね! じゃあ、みほのおねーちゃんなの?」
「そうだよ」
佐藤くんが頷くと、みほちゃんは大きな笑顔を私に向ける。
「みほ、おねーちゃんも欲しかったから嬉しい!」
眩しいくらいにまっすぐなその子を見て、私は羨ましい以上に微笑ましく思った。守っていきたいと思いたくなった。
「おねーちゃんも嬉しいな」
そう言って、私も笑った。
それから、三人で出かけたり会ったりすることが多くなった。
家に帰り、遊び疲れて寝ているみほちゃんを挟んで二人で横になっていると、佐藤くんは私の手を握った。
「こうしている今がすごく幸せだ。ありがとう、妹を受け入れてくれて」
「ううん、私も──幸せ」
川の字のように三人で寝そべっている中で、私は自分の手を彼の手のひらの上にそっと重ねた。
ずっと欲しかったものを手に入れた気がした。