再会とオルゴールの旋律
十一月。木枯らしが吹き始め、サナトリウムの庭も冬支度を始めていた。
咲の病状は、一進一退を繰り返していた。心不全の兆候である浮腫が足に出始め、息切れも目立つようになってきた。
そんなある日、湊は一枚のチラシを街で見かけた。
『天宮貴子 ピアノリサイタル 〜愛する娘へ捧ぐ〜』
会場は、隣町の市民ホール。日時は今日だ。
湊は迷わずサナトリウムを飛び出した。
咲の「死ぬまでにしたいこと」リストの最初にある願い。『お母さんに「さようなら」を言うこと』。
だが、咲が本当に言いたいのは、別れの言葉ではないはずだ。
市民ホールの楽屋口。湊は警備員を押し切り、中へと入った。
廊下の奥から、ピアノの音が聞こえてくる。ショパンの「別れの曲」。
湊がドアを開けると、鏡の前で震えている貴子の姿があった。
「……誰?」
貴子は鏡越しに湊を睨んだ。以前会った時よりもさらに痩せ細り、化粧で隠しきれない疲労が滲んでいる。
「瀬戸湊です。サナトリウムの職員です」
「帰って。私は誰とも会いたくないの」
「咲が待っています。今日、会いに来てください」
「無理よ! 今から本番なの。それに……私にはあの子に会う資格なんてない」
貴子は顔を覆って泣き崩れた。
「あの子の手術費、一億五千万……。それを稼ぐために、私はあの子を置いて海外へ行った。嫌いだったピアノを弾き続けて、体を売るような真似までして……。でも、結局間に合わなかった。あの子は移植を受けたけど、私は借金まみれで、あの子のそばにいてやることもできなかった!」
湊は静かに近づき、彼女の肩に手を置いた。
「間に合っていますよ。咲は生きています。そして、あなたを恨んでなんかいません」
「嘘よ! 捨てられたと思ってるはずよ!」
「いいえ。彼女はあなたのピアノを誇りに思っています。……行きましょう。リサイタルなんて中止にすればいい」
「できないわ! これが最後の仕事なの。借金を返すための……」
「借金なら、俺がなんとかします。元医者ですから、多少の蓄えはあります」
湊の言葉に、貴子は驚いて顔を上げた。
「……どうしてそこまで?」
「咲が、俺の大切な人の命を預かっているからです」
一時間後。
サナトリウムのロビーに、貴子の姿があった。
リサイタルをすっぽかして駆けつけた彼女は、ステージ衣装のドレスのままだった。
咲は車椅子に乗って、ロビーの中央で待っていた。
二人の視線が交差する。
長い沈黙。
先に動いたのは貴子だった。彼女はハイヒールを脱ぎ捨て、裸足で駆け寄ると、咲を強く抱きしめた。
「咲……っ! ごめんね、ごめんね……!」
「お母さん……」
咲の目から涙が溢れ出す。
「痛かったでしょ、寂しかったでしょ……。ママが悪かったの。ずっとそばにいてあげられなくて……」
「ううん。わかってたよ。お母さんが私のために頑張ってくれてたこと」
咲は貴子の背中に手を回した。
「ありがとう、お母さん。私を生かしてくれて」
リストにあった「さようなら」という言葉は、そこにはなかった。
あるのは、再会と感謝の言葉だけ。
湊は柱の陰で、その光景を見守っていた。
貴子はバッグから、小さな木箱を取り出した。
「これ……あなたが小さい頃、欲しがってたでしょ?」
アンティークのオルゴールだった。
咲が震える手で蓋を開ける。
繊細な音色がロビーに響き渡った。
――ラ、ラ、ソ、ミ……レ、ミ、ファ、ソ……
湊は息を呑んだ。
そのメロディは、咲がいつも口ずさんでいたあの曲。そして、妹・澪の未完成のソナタと同じ旋律だった。
「……この曲」
咲が驚いて貴子を見る。
「ええ。あなたが手術を受ける前、病院のロビーで誰かが弾いていた曲よ。あなたが『綺麗な曲』って言ってたから、ママ、耳コピしてオルゴール職人に作ってもらったの」
そうか。
湊の中で謎が解けた。
澪は入院中、よくロビーのピアノを弾いていた。手術前の咲は、それを聴いていたのだ。
記憶転移だけではない。二人の魂は、生前から音楽を通じて共鳴していたのだ。
咲はオルゴールを胸に抱き、幸せそうに微笑んだ。
その笑顔は、湊が見た中で一番美しかった。




