表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/18

再会とオルゴールの旋律

十一月。木枯らしが吹き始め、サナトリウムの庭も冬支度を始めていた。


咲の病状は、一進一退を繰り返していた。心不全の兆候である浮腫が足に出始め、息切れも目立つようになってきた。


そんなある日、湊は一枚のチラシを街で見かけた。


『天宮貴子 ピアノリサイタル 〜愛する娘へ捧ぐ〜』


会場は、隣町の市民ホール。日時は今日だ。


湊は迷わずサナトリウムを飛び出した。


咲の「死ぬまでにしたいこと」リストの最初にある願い。『お母さんに「さようなら」を言うこと』。


だが、咲が本当に言いたいのは、別れの言葉ではないはずだ。


市民ホールの楽屋口。湊は警備員を押し切り、中へと入った。


廊下の奥から、ピアノの音が聞こえてくる。ショパンの「別れの曲」。


湊がドアを開けると、鏡の前で震えている貴子の姿があった。


「……誰?」


貴子は鏡越しに湊を睨んだ。以前会った時よりもさらに痩せ細り、化粧で隠しきれない疲労が滲んでいる。


「瀬戸湊です。サナトリウムの職員です」


「帰って。私は誰とも会いたくないの」


「咲が待っています。今日、会いに来てください」


「無理よ! 今から本番なの。それに……私にはあの子に会う資格なんてない」


貴子は顔を覆って泣き崩れた。


「あの子の手術費、一億五千万……。それを稼ぐために、私はあの子を置いて海外へ行った。嫌いだったピアノを弾き続けて、体を売るような真似までして……。でも、結局間に合わなかった。あの子は移植を受けたけど、私は借金まみれで、あの子のそばにいてやることもできなかった!」


湊は静かに近づき、彼女の肩に手を置いた。


「間に合っていますよ。咲は生きています。そして、あなたを恨んでなんかいません」


「嘘よ! 捨てられたと思ってるはずよ!」


「いいえ。彼女はあなたのピアノを誇りに思っています。……行きましょう。リサイタルなんて中止にすればいい」


「できないわ! これが最後の仕事なの。借金を返すための……」


「借金なら、俺がなんとかします。元医者ですから、多少の蓄えはあります」


湊の言葉に、貴子は驚いて顔を上げた。


「……どうしてそこまで?」


「咲が、俺の大切な人の命を預かっているからです」


一時間後。


サナトリウムのロビーに、貴子の姿があった。


リサイタルをすっぽかして駆けつけた彼女は、ステージ衣装のドレスのままだった。


咲は車椅子に乗って、ロビーの中央で待っていた。


二人の視線が交差する。


長い沈黙。


先に動いたのは貴子だった。彼女はハイヒールを脱ぎ捨て、裸足で駆け寄ると、咲を強く抱きしめた。


「咲……っ! ごめんね、ごめんね……!」


「お母さん……」


咲の目から涙が溢れ出す。


「痛かったでしょ、寂しかったでしょ……。ママが悪かったの。ずっとそばにいてあげられなくて……」


「ううん。わかってたよ。お母さんが私のために頑張ってくれてたこと」


咲は貴子の背中に手を回した。


「ありがとう、お母さん。私を生かしてくれて」


リストにあった「さようなら」という言葉は、そこにはなかった。


あるのは、再会と感謝の言葉だけ。


湊は柱の陰で、その光景を見守っていた。


貴子はバッグから、小さな木箱を取り出した。


「これ……あなたが小さい頃、欲しがってたでしょ?」


アンティークのオルゴールだった。


咲が震える手で蓋を開ける。


繊細な音色がロビーに響き渡った。


――ラ、ラ、ソ、ミ……レ、ミ、ファ、ソ……


湊は息を呑んだ。


そのメロディは、咲がいつも口ずさんでいたあの曲。そして、妹・澪の未完成のソナタと同じ旋律だった。


「……この曲」


咲が驚いて貴子を見る。


「ええ。あなたが手術を受ける前、病院のロビーで誰かが弾いていた曲よ。あなたが『綺麗な曲』って言ってたから、ママ、耳コピしてオルゴール職人に作ってもらったの」


そうか。


湊の中で謎が解けた。


澪は入院中、よくロビーのピアノを弾いていた。手術前の咲は、それを聴いていたのだ。


記憶転移だけではない。二人の魂は、生前から音楽を通じて共鳴していたのだ。


咲はオルゴールを胸に抱き、幸せそうに微笑んだ。


その笑顔は、湊が見た中で一番美しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ