表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/18

受け継がれる赤いマフラー

十月に入り、朝晩の冷え込みが厳しくなってきた。


サナトリウムの空気も、どこか寂しげに沈んでいる。


最古参の患者、星野静江の容態が悪化したのだ。


彼女は末期の肺がんだった。もう何ヶ月も前から「お迎えが近い」と笑っていたが、ついにその時が迫っていた。


静江の個室は、彼女が編んだ毛糸の作品で溢れていた。コースター、膝掛け、帽子。どれも温かみのある色合いだ。


湊は静江のベッドの傍らに座っていた。点滴の管に繋がれた彼女の手は、枯れ木のように細い。


「……湊さん」


酸素マスクの下から、掠れた声が漏れる。


「はい、静江さん」


「あのね……お願いがあるの」


静江は震える指で、サイドテーブルを指差した。そこには、編みかけの赤いマフラーと、編み棒が置かれていた。


「これ……完成させたかったんだけど、もう目が霞んで……」


「俺がやりましょうか? 不器用ですが」


「うふふ……いいのよ。これはね、未完成でいいの」


静江は湊の手を握った。その手は冷たかったが、不思議な力強さがあった。


「人生も同じよ。やり残したことがあっても、誰かがそれを引き継いでくれれば、それは終わりじゃない。……命も、想いも、繋がっていくものなの」


湊の胸に、その言葉が突き刺さった。


妹の手術は失敗した。未完成で終わった命。


だが、その命は今、咲の中で鼓動を続けている。


それは「失敗」ではなく「継承」だったのではないか?


「湊さん……あなたは、自分を許してあげなさい。そして、愛する人を守りなさい。……その手袋の下の手で」


静江はそう言い残し、その夜、静かに息を引き取った。


眠るような大往生だった。


翌日、湊は静江の遺品である赤いマフラーを首に巻いて、庭に出た。


編み目は不揃いで、端の糸は解けかけている。だが、驚くほど温かかった。


庭では、咲がベンチに座り、スケッチブックに向かっていた。


だが、筆は止まったままだ。


「描けないのか?」


湊が声をかけると、咲は悲しげに首を横に振った。


「うん……。青い蝶のお話、どうしても結末が思いつかないの」


彼女はスケッチブックを開いた。そこには、片羽のない蝶が、花畑でうずくまっている絵が描かれていた。


「この蝶はね、空を飛びたいの。でも、羽がないから飛べない。他の蝶の羽を奪ってまで飛びたくないって泣いてるの」


「……それは、君のことか?」


湊の問いに、咲はハッとして顔を上げた。


「……私、わかっちゃったの。海人さんが見せてくれた写真。あの家、あの犬。……私の心臓の持ち主は、海人さんの恋人だった人なんでしょ?」


湊は息を呑んだ。彼女の勘は鋭い。


「そして、その人は……湊さんの知ってる人なんでしょ?」


咲の瞳が、湊を射抜くように見つめている。


嘘はつけない。だが、真実を告げるにはまだ早すぎる。


湊は静江の言葉を思い出した。『誰かが引き継げばいい』。


彼は咲の隣に座り、彼女の肩を抱いた。


「……いつか話す。全てを。でも今は、信じてほしい。君の心臓は、誰かの犠牲なんかじゃない。託された希望なんだ」


咲は湊の胸に顔を埋めた。


「怖いよ……。私、生きてていいのかな。誰かの大切な人を消してまで」


「いいんだ。生きてくれ。君が生きることが、その人の願いなんだから」


湊は咲の背中を優しく撫でた。


その時、咲がふと思い出したように言った。


「そういえば、前に話したドナーへの手紙……戻ってきたって言ったけど、あれ、嘘だったかも」


「え?」


「夢の中でね、誰かが読んでくれてたの。男の人。すごく悲しそうな顔で、でも愛おしそうに、私の手紙を読んで泣いてた」


湊の心臓が止まりそうになった。


あの日。宛先不明で戻ってきた手紙を、院長からこっそり受け取り、独りで読んだのは湊自身だった。


『ありがとう。あなたの命を、大切に使います』


その文字に涙を落とした記憶。


それさえも、彼女に伝わっていたのか。


「……届いていたんだよ、きっと」


湊は震える声で言った。


「その男の人は、君の手紙に救われたんだ。だから、君の想いは無駄じゃなかった」


咲は顔を上げ、涙に濡れた瞳で湊を見つめた。


「本当?」


「ああ。俺が保証する」


咲は安堵したように微笑み、再び湊の胸に寄りかかった。


秋の風が、二人の間を吹き抜けていく。


静江から託された赤いマフラーが、二人を繋ぐ運命の糸のように、風になびいていた。


だが、スケッチブックの上の青い蝶は、まだ飛べずにいた。


彼女が自分の羽(命)を肯定できるまで、物語は終わらない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ