受け継がれる赤いマフラー
十月に入り、朝晩の冷え込みが厳しくなってきた。
サナトリウムの空気も、どこか寂しげに沈んでいる。
最古参の患者、星野静江の容態が悪化したのだ。
彼女は末期の肺がんだった。もう何ヶ月も前から「お迎えが近い」と笑っていたが、ついにその時が迫っていた。
静江の個室は、彼女が編んだ毛糸の作品で溢れていた。コースター、膝掛け、帽子。どれも温かみのある色合いだ。
湊は静江のベッドの傍らに座っていた。点滴の管に繋がれた彼女の手は、枯れ木のように細い。
「……湊さん」
酸素マスクの下から、掠れた声が漏れる。
「はい、静江さん」
「あのね……お願いがあるの」
静江は震える指で、サイドテーブルを指差した。そこには、編みかけの赤いマフラーと、編み棒が置かれていた。
「これ……完成させたかったんだけど、もう目が霞んで……」
「俺がやりましょうか? 不器用ですが」
「うふふ……いいのよ。これはね、未完成でいいの」
静江は湊の手を握った。その手は冷たかったが、不思議な力強さがあった。
「人生も同じよ。やり残したことがあっても、誰かがそれを引き継いでくれれば、それは終わりじゃない。……命も、想いも、繋がっていくものなの」
湊の胸に、その言葉が突き刺さった。
妹の手術は失敗した。未完成で終わった命。
だが、その命は今、咲の中で鼓動を続けている。
それは「失敗」ではなく「継承」だったのではないか?
「湊さん……あなたは、自分を許してあげなさい。そして、愛する人を守りなさい。……その手袋の下の手で」
静江はそう言い残し、その夜、静かに息を引き取った。
眠るような大往生だった。
翌日、湊は静江の遺品である赤いマフラーを首に巻いて、庭に出た。
編み目は不揃いで、端の糸は解けかけている。だが、驚くほど温かかった。
庭では、咲がベンチに座り、スケッチブックに向かっていた。
だが、筆は止まったままだ。
「描けないのか?」
湊が声をかけると、咲は悲しげに首を横に振った。
「うん……。青い蝶のお話、どうしても結末が思いつかないの」
彼女はスケッチブックを開いた。そこには、片羽のない蝶が、花畑でうずくまっている絵が描かれていた。
「この蝶はね、空を飛びたいの。でも、羽がないから飛べない。他の蝶の羽を奪ってまで飛びたくないって泣いてるの」
「……それは、君のことか?」
湊の問いに、咲はハッとして顔を上げた。
「……私、わかっちゃったの。海人さんが見せてくれた写真。あの家、あの犬。……私の心臓の持ち主は、海人さんの恋人だった人なんでしょ?」
湊は息を呑んだ。彼女の勘は鋭い。
「そして、その人は……湊さんの知ってる人なんでしょ?」
咲の瞳が、湊を射抜くように見つめている。
嘘はつけない。だが、真実を告げるにはまだ早すぎる。
湊は静江の言葉を思い出した。『誰かが引き継げばいい』。
彼は咲の隣に座り、彼女の肩を抱いた。
「……いつか話す。全てを。でも今は、信じてほしい。君の心臓は、誰かの犠牲なんかじゃない。託された希望なんだ」
咲は湊の胸に顔を埋めた。
「怖いよ……。私、生きてていいのかな。誰かの大切な人を消してまで」
「いいんだ。生きてくれ。君が生きることが、その人の願いなんだから」
湊は咲の背中を優しく撫でた。
その時、咲がふと思い出したように言った。
「そういえば、前に話したドナーへの手紙……戻ってきたって言ったけど、あれ、嘘だったかも」
「え?」
「夢の中でね、誰かが読んでくれてたの。男の人。すごく悲しそうな顔で、でも愛おしそうに、私の手紙を読んで泣いてた」
湊の心臓が止まりそうになった。
あの日。宛先不明で戻ってきた手紙を、院長からこっそり受け取り、独りで読んだのは湊自身だった。
『ありがとう。あなたの命を、大切に使います』
その文字に涙を落とした記憶。
それさえも、彼女に伝わっていたのか。
「……届いていたんだよ、きっと」
湊は震える声で言った。
「その男の人は、君の手紙に救われたんだ。だから、君の想いは無駄じゃなかった」
咲は顔を上げ、涙に濡れた瞳で湊を見つめた。
「本当?」
「ああ。俺が保証する」
咲は安堵したように微笑み、再び湊の胸に寄りかかった。
秋の風が、二人の間を吹き抜けていく。
静江から託された赤いマフラーが、二人を繋ぐ運命の糸のように、風になびいていた。
だが、スケッチブックの上の青い蝶は、まだ飛べずにいた。
彼女が自分の羽(命)を肯定できるまで、物語は終わらない。




