夢の中の風景と来訪者
九月の風には、微かに秋の匂いが混じり始めていた。
サナトリウムの庭では、コスモスが風に揺れている。
湊は庭のベンチのペンキを塗り直していた。刷毛を動かす手は、以前よりも安定している。あの嵐の夜以来、右手の震えは少しだけ治まっていた。完全に消えたわけではないが、制御不能な発作は起きていない。
カシャッ。
乾いたシャッター音が響いた。
湊が顔を上げると、大桜の根元に一人の男が立っていた。
長身で、日に焼けた肌。無造作に伸ばした髪を後ろで束ね、首からは高価そうな一眼レフカメラを下げている。年齢は湊と同じくらいだろうか。
男はファインダーを覗いたまま、レンズを少しずつ動かしている。その先には、車椅子で読書をしている咲の姿があった。
「……何をしている」
湊は刷毛を置き、男に近づいた。不審者かもしれない。
男はカメラを下ろし、人懐っこい笑顔を向けた。
「ああ、ごめん。あまりにも絵になる風景だったから、つい」
「ここは病院だ。無断撮影は禁止されている」
「わかってる。許可は取ってあるよ。院長先生にね」
男はポケットから名刺を取り出し、湊に差し出した。
『フリーランス・フォトグラファー 成瀬海人』
「成瀬……?」
湊はその名前に聞き覚えがあった。だが、どこで聞いたのか思い出せない。
「あんたが瀬戸湊さんだね。やっと会えた」
海人の表情から笑みが消え、真剣な眼差しに変わった。
「俺のこと、覚えてないかな。まあ、会うのは初めてだけど。……澪から聞いてなかった?」
澪。
妹の名前が出た瞬間、湊の心臓が跳ねた。
「お前……澪の知り合いか?」
「知り合いっていうか……恋人だったんだ。彼女が亡くなる直前まで」
湊は絶句した。妹に恋人がいたなんて初耳だった。澪は入院生活が長く、恋愛などしている暇はないと思っていた。
「嘘だ。澪はそんなこと一言も……」
「言えなかったんだよ。兄貴は心配性だから、僕みたいな根無し草のカメラマンなんて絶対反対するって」
海人は苦笑いをして、視線を遠くの咲に向けた。
「それに、彼女は自分の時間が残り少ないことを知っていたから。……僕を縛りたくなかったんだ」
海人は再びカメラを構え、咲にレンズを向けた。
「やっと見つけた。澪の心臓が、どこへ行ったのか」
「やめろ!」
湊は海人の腕を掴んだ。
「あの子に近づくな。あの子は何も知らないんだ。ドナーが誰かも、澪のことも」
「知る権利があるんじゃないか? 自分の命のルーツを」
「知れば傷つく! 自分が誰かの犠牲の上に生きていると知れば、あの子は……!」
「壊れる? それとも、強くなる?」
海人は湊の手を振りほどき、静かに言った。
「澪は言ってたよ。『私の心臓をもらった人が、私の代わりに世界を見てくれたら嬉しい』って。……あの子、いい顔をしてるね。澪に似てる」
その時、咲が二人に気づき、手を振った。
「湊さーん! お客さん?」
海人は湊を制するように前に出ると、咲に向かって歩き出した。
「こんにちは! 素敵な場所ですね。一枚撮らせてもらってもいいですか?」
「えっ、私ですか? すっぴんだから恥ずかしいな」
咲は照れながらも、カメラを向けられると自然に微笑んだ。その笑顔は、確かに澪の面影と重なるものがあった。
撮影の後、海人は持っていたタブレット端末を咲に見せた。
「僕が世界中で撮ってきた写真です。よかったら見てください」
咲は画面をスワイプしながら、目を輝かせた。
「わあ、綺麗……これ、ウユニ塩湖? こっちはサントリーニ島?」
「詳しいですね」
「絵本の資料で見たことがあるの。行ってみたいなあ……」
咲の手が止まった。
画面に映し出された一枚の写真に、彼女の視線が釘付けになった。
それは、緑豊かな草原に建つ、赤い屋根の小さな家。庭には白いゴールデンレトリバーが寝そべっている。
「……これ」
咲の声が震えた。
「この家……私、知ってる」
「え?」
「夢で見るの。この赤い屋根、この犬……名前はバロン。そうでしょ?」
海人と湊は顔を見合わせた。
海人がゆっくりと頷く。
「正解。これは、僕と澪……僕の恋人が、将来住もうって約束していた家なんだ。犬の名前も、彼女が決めていた」
咲は口元を押さえた。
「どうして……私、行ったこともないのに……」
彼女の胸の中で、心臓が激しく打ち鳴らされているのが、湊には聞こえるようだった。
記憶転移。
それは単なるオカルトではない。臓器には記憶が宿る。科学では証明しきれない魂の領域。
海人は鞄から一冊の古いノートを取り出した。
「これは、澪の日記だ。彼女が亡くなった後、僕が預かっていた。……ここには、兄貴へのメッセージも書かれている」
湊はノートを受け取ろうとしたが、指先が震えて掴めなかった。
怖い。妹の言葉を読むのが。
海人はそれを察したのか、ノートを引っ込めた。
「まだ早いみたいだね。……湊さん、あんたが覚悟を決めたら渡すよ」




