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黒塗りのカルテと母の影

翌朝、台風一過の空は突き抜けるように青かった。


だが、サナトリウムの庭には折れた枝や葉が散乱し、昨夜の爪痕を残していた。


湊は朝一番で院長室のドアを叩いた。


ノックの返事を待たずに中に入る。橘院長は、窓の外の大桜を眺めていた。


「昨夜の君の処置、聞いたよ。結衣ちゃんは命拾いした。……礼を言う」


院長は振り返らずに言った。


「礼などいりません。それより、話があります」


湊の声は硬く、冷たかった。


院長はゆっくりと振り返り、眼鏡の位置を直した。


「咲くんのことかね」


「単刀直入に聞きます。天宮咲の心臓は、俺の妹……瀬戸澪のものですね?」


部屋の空気が凍りついた。


時計の秒針の音だけが、カチ、カチと響く。


院長は深いため息をつき、デスクの引き出しから鍵を取り出した。そして、金庫を開け、一冊のカルテを取り出した。


以前、湊が盗み見た黒塗りのカルテだ。


「……君がここに来た時から、いつかこの日が来ると覚悟はしていた」


院長はカルテを湊の前に差し出した。


そこには、ドナー情報の開示に関する書類が挟まれていた。黒塗りされていた部分には、はっきりと『瀬戸 澪』の文字があった。


「三年前、君が執刀した手術で、澪くんは脳死状態となった。君は自分を責め、医師を辞めた。だが、彼女の心臓は生きていた。適合者リストのトップにいたのが、当時、余命数日と宣告されていた天宮咲くんだった」


湊はカルテを握りしめた。紙がくしゃりと音を立てる。


「なぜ……なぜ黙っていたんですか! 俺がどんな思いで……!」


「言えば、君はどうした? 彼女に会えたか? それとも、彼女を見るたびに妹の死を突きつけられ、壊れてしまったか?」


院長の静かな問いかけに、湊は言葉を詰まらせた。


「私はね、湊くん。君にも、咲くんにも、生きてほしかったんだ。運命という名の残酷な糸で結ばれた二人が、ここで出会い、何かを見つけることを願っていた。……それが私のエゴだとしてもね」


湊は拳を震わせた。怒り、悲しみ、そして安堵。様々な感情が渦巻いていた。


咲の中に、澪がいる。


昨夜、手袋越しに感じた温かさ。あれは、妹が俺を励ましてくれたのか。


「……彼女の心臓、雑音が聞こえました。クリック音のような」


湊が告げると、院長の表情が険しくなった。


「やはりか。拒絶反応による組織の硬化が進んでいる可能性がある。……時間は、あまり残されていないかもしれない」


重い足取りで院長室を出た湊は、ロビーへ向かった。


頭を冷やしたかった。


ロビーのソファには、面会を待つ数人の家族連れがいた。


その中に、一人の女性がいた。


派手なサングラスに、つばの広い帽子。高級そうなブランド物のバッグを持っているが、その服はどこかヨレており、靴も汚れていた。


彼女は受付の前を行ったり来たりして、落ち着きがない。


「あの……天宮咲の面会を……いや、やっぱり……」


女性は受付嬢に声をかけては、すぐに口をつぐむ。


湊は足を止めた。


天宮。


まさか。


湊は近づいていった。


「失礼ですが、天宮咲さんのお母様ですか?」


声をかけると、女性はビクリと肩を震わせ、サングラス越しに湊を睨んだ。


「……人違いです」


声が裏返っている。彼女は逃げるように踵を返した。


「待ってください! 咲は、あなたを待っています。『死ぬまでにしたいこと』の最初に書くくらい、あなたに会いたがっているんです!」


湊が叫ぶと、女性――天宮貴子の足が止まった。


彼女は背中を向けたまま、震える声で言った。


「……会えないわよ。あの子の顔なんて、見られない」


「なぜです! 娘ですよ!」


「娘だからよ! 私が……私が全部悪いの。あの子をあんな体にしたのも、あの子を置いて逃げたのも……!」


貴子は何かを振り払うように首を振り、バッグから封筒を取り出した。


「これ……あの子の治療費の足しにしてくださいって、渡しておいて。お願い」


彼女は封筒を受付カウンターに叩きつけるように置くと、脱兎のごとく走り出した。


「あっ、待て!」


湊は追いかけようとしたが、自動ドアの向こうに停まっていたタクシーに彼女が乗り込むのが見えた。タクシーはすぐに走り去ってしまった。


残された封筒を、湊は手に取った。


厚みはない。中には数枚の紙幣が入っているだけのように見えた。


世界的なピアニストと聞いていたが、今の彼女からは、成功者のオーラなど微塵も感じられなかった。むしろ、何かに追われているような、切迫した気配。


湊はロビーの窓から、去っていくタクシーを見送った。


咲は、母親に捨てられたと思っている。だが、母親の方もまた、何か深い闇を抱えているようだ。


「……お母さん、来たの?」


背後から、弱々しい声がした。


振り返ると、パジャマ姿の咲が立っていた。彼女は柱の陰から、今のやり取りを見ていたのだ。


その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「やっぱり……会ってくれないんだ。私、そんなに悪い子だったかな……」


湊は言葉を失った。


かけるべき言葉が見つからない。


ただ、彼女の胸の中で動く妹の心臓が、悲しげに脈打っている音だけが、湊の耳に幻聴のように響いていた。

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