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嵐の夜、剥がされた革手袋

八月の終わり、湊町を大型の台風が直撃した。


昼過ぎから降り始めた雨は、夜になると暴風雨へと変わり、サナトリウムの窓ガラスを叩き割らんばかりの勢いで打ち付けた。


樹齢千年の大桜も、今夜ばかりは悲鳴を上げるように枝を軋ませている。


午後九時。


突然、病棟の照明がフッと消えた。


一瞬の静寂の後、非常灯の薄暗い緑色の光だけが廊下を照らし出す。


「停電だ! 予備電源、切り替わります!」


ナースステーションから藤子師長の声が響く。すぐにブーンという低い唸り音と共に自家発電機が作動し、最低限の医療機器の電源は確保された。


だが、嵐の猛威はそれだけでは終わらなかった。


ドォン!


雷鳴と共に、地響きのような音がした。


「師長! 発電機室の方から煙が!」


「なんだって!? 落雷か!」


院内は騒然となった。予備電源が落ちれば、人工呼吸器などの生命維持装置が停止する。それは、ここに入院している重篤な患者たちにとって、直ちに死を意味した。


「亮平先生は!?」


「三階の個室の患者さんの対応中です! エレベーターが止まって降りて来られません!」


看護師たちの悲鳴に近い報告が飛び交う中、湊は用務員として懐中電灯を手に廊下を走っていた。配電盤を確認しなければならない。


その時、小児病棟の方からアラーム音が聞こえた。


ピピピピピ、ピピピピピ。


酸素飽和度の低下を知らせる警告音だ。


「結衣ちゃん!」


湊は反射的に方向転換し、結衣の病室へ飛び込んだ。


薄暗い部屋の中で、結衣がベッドの上で苦しそうに胸をかきむしっていた。彼女は肺炎を併発し、昨日から呼吸状態が悪化していたのだ。酸素マスクがずれている。


「うっ、ううっ……くる、しい……」


顔色はチアノーゼで紫色になり、意識が混濁し始めている。


「結衣! しっかりしろ!」


湊は駆け寄り、酸素マスクを押し当てた。だが、モニターの数値は上がらない。気道が閉塞しかけている。挿管して気道を確保し、アンビュバッグ(手動式人工呼吸器)で空気を送り込まなければ、数分で心停止する。


「誰か! 医者はいないのか!」


湊は叫んだ。だが、誰も来ない。亮平は上の階、当直の医師も別の急変対応に追われている。


ここにいるのは、医療行為を禁じられた用務員と、死にかけた少女だけ。


やるしかない。


湊の脳裏に、理性が警鐘を鳴らす。だが、体が動かない。


救急カートにある喉頭鏡と気管チューブが目に入った瞬間、激しい吐き気が湊を襲った。


視界が歪む。結衣の姿が、三年前の手術台の上の妹・澪の姿と重なる。


血の赤。モニターの平坦な線。冷たくなっていく手。


「うっ、おぇっ……」


湊は口元を押さえ、その場にうずくまった。


右手が激しく痙攣する。革手袋の中で、指が勝手にねじれるように暴れる。


ダメだ。握れない。メスも、喉頭鏡も。俺は人殺しだ。また殺すのか。目の前の命を、この呪われた手で見殺しにするのか。


恐怖が全身を支配し、湊はガタガタと震えることしかできなかった。


「……湊さん!」


嵐の音を切り裂くように、凛とした声が響いた。


天宮咲だった。彼女もまた、停電の騒ぎで部屋を出てきていたのだ。


咲は震える湊の前に膝をつき、その暴れる右手を両手で包み込んだ。


「しっかりして! 結衣ちゃんが死んじゃう!」


「む、無理だ……俺は、できない……手が、震えて……」


「震えてない!」


咲は叫んだ。


「この手は震えてなんかいない! 私の手を握ってくれた時、すごく温かかった。優しかった。この手は、人を救う手だよ!」


咲は湊の黒い革手袋の上から、強く、痛いほどに指を絡ませた。


彼女の体温が、革越しに伝わってくる。


ドクン、ドクン。


彼女の脈動が、湊の脈動と重なる。


そのリズムは、不思議なほどに湊の恐怖を鎮めていった。まるで、彼女の心臓が「大丈夫だ」と語りかけてくるように。


「……咲」


湊の瞳から、怯えの色が消えた。


彼は自分の右手を口元に持っていき、黒い革手袋の指先を歯で噛んだ。


ブチッ、という音と共に、彼は獣のように手袋を引き剥がした。


露わになった右手が、白く闇に浮かび上がる。


震えは――止まっていた。


湊は迷いなく喉頭鏡を掴んだ。


「ライトを照らせ!」


湊の鋭い指示に、咲がハッとして懐中電灯を向ける。


湊の手技は神速だった。結衣の顎を持ち上げ、喉頭鏡を挿入し、声帯を展開する。迷いのない一連の動作は、かつての「神の手」そのものだった。


「チューブ!」


自らチューブを取り、気管へと滑り込ませる。


カフを膨らませ、アンビュバッグを接続し、リズミカルに空気を送り込む。


シュー、シュー。


空気が肺に送り込まれる音が響く。


数秒後、結衣の胸が大きく上下し、モニターの数値が上昇し始めた。チアノーゼが引き、顔に赤みが戻ってくる。


「……助かった」


湊は大きく息を吐き、額の汗を拭った。


へなへなと座り込む咲が、涙目で湊を見上げている。


「すごい……魔法みたい……」


その時、遅れて亮平が駆け込んできた。


「結衣ちゃん! ……え?」


亮平は目を見開いた。完璧に処置された気道確保。そして、手袋を外した湊の右手。


「瀬戸先生……あなたが、やったんですか?」


湊は答えず、聴診器を手に取った。結衣の呼吸音を確認するためだ。


異常なし。肺雑音は消えている。


ふと、湊は隣にいる咲に視線を向けた。彼女もまた、極度の緊張と恐怖で顔色が悪い。


「咲、お前も診ておく」


湊は拒否する間も与えず、咲の胸に聴診器を当てた。


ドクン、ドクン、ドクン。


不規則なリズム。拡張型心筋症特有の奔馬調律ギャロップリズム


だが、その音の裏に、微かだが異質な音が混じっていた。


カチッ、カチッ。


機械的な、あるいは硬化した組織が擦れるような、乾いたクリック音。


湊の眉がピクリと動いた。


これは……弁の異常か? いや、それにしては音が鋭すぎる。


まるで、心臓そのものが何かを訴えているような、不気味な響きだった。


「……先生? どうしたの? 怖い顔して」


咲が不安そうに尋ねる。


湊は聴診器を外し、努めて冷静な声を出した。


「いや、少し脈が速いだけだ。部屋に戻って休め」


嘘だった。


その雑音は、湊の記憶の底にある「ある懸念」を呼び覚ましていた。


妹の手術の際、心臓に施した特殊な縫合。もしそれが、経年劣化や拒絶反応で変質しているとしたら……。


嵐は過ぎ去ろうとしていたが、湊の中には、より巨大な嵐が生まれようとしていた。

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