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屋上の花火と未完成のソナタ

季節は巡り、夏が訪れた。


海からの風が熱を帯び、サナトリウムの庭では蝉時雨が降り注いでいる。


今日は、麓の湊町で年に一度の花火大会が開かれる日だ。遠くから祭囃子の音が風に乗って聞こえてくる。


だが、咲の病室は沈んでいた。


「外出許可、出なかった……」


ベッドの上で、咲が膝を抱えている。最近、不整脈の頻度が増え、主治医の亮平から絶対安静を言い渡されていたのだ。


「死ぬまでにしたいことリスト、2番目。『浴衣を着て金魚すくい』。……もう無理かな」


咲の呟きを聞いていた結衣が、泣きそうな顔で湊の袖を引っ張った。


「ねえ、お兄さん。なんとかならないの? 咲ちゃん、ずっと楽しみにしてたのに」


湊は腕組みをして、窓の外を見た。


規則は規則だ。元医師として、亮平の判断が正しいことは痛いほどわかる。今の咲の心臓は、人混みや夏の暑さに耐えられない。


だが、彼女に残された時間は、来年の夏を約束してはくれない。


「……待ってろ」


湊は短く言うと、部屋を出て行った。


数時間後。日が暮れて、夜空に一番星が輝き始めた頃。


湊は咲を車椅子に乗せ、エレベーターへと向かった。


「え? どこ行くの? 外出はダメなんでしょ?」


「外には行かない。上だ」


到着したのは、病院の屋上だった。


扉が開いた瞬間、咲は息を呑んだ。


「わあ……!」


殺風景だったはずの屋上が、優しい光に包まれていた。


手すりにはクリスマス用のイルミネーションライトが巻き付けられ、天の川のように輝いている。物干し竿を利用して作られた即席の屋台には、「金魚すくい」「ヨーヨー釣り」の手書きの看板が下がっていた。


藤子師長や亮平、そして結衣たちが、浴衣や甚平を着て待ち構えていた。


「へいらっしゃい! 桜ヶ丘特別縁日だよ!」


藤子がねじり鉢巻き姿で威勢よく声を上げる。


「これ……みんながやってくれたの?」


「発案者は、そこの仏頂面のお兄さんだけどね」


藤子が顎でしゃくると、湊はバツが悪そうに顔を背けた。


「……結衣がうるさいからな」


「素直じゃないねえ」


咲は涙ぐみながら、用意されていた浴衣に袖を通した。藤子が手際よく着付けをしてくれる。淡い朝顔柄の浴衣は、咲の白い肌によく似合っていた。


湊はその姿を見て、一瞬言葉を失った。


美しい。ただ純粋に、そう思った。死の影を感じさせないほどに、今の彼女は命の輝きに満ちていた。


ビニールプールに放たれたおもちゃの金魚を、咲は真剣な表情ですくった。紙のポイが破れるたびに、結衣と一緒になって笑い声を上げる。


その笑顔を見ているだけで、湊の胸の奥にあった氷のような塊が、少しずつ溶けていく気がした。


祭りの終わり、遠くの空に大輪の花火が上がった。


ドン、という音が遅れて腹に響く。


色とりどりの光が、咲の横顔を照らし出した。


みんなが花火に見とれている中、湊と咲だけが少し離れたベンチに座っていた。


「ありがとう、湊さん」


初めて名前で呼ばれた。その響きが、心地よく胸に染みる。


「……礼を言われるようなことじゃない」


「ううん。私、今日のこと一生忘れない。……たとえ、その一生が短くても」


咲は自分の胸に手を当てた。


「私ね、ずっと怖かったの。この心臓が、私のものじゃないってことが」


彼女は静かに語り始めた。


「ドナーの方のご家族に、手紙を書いたの。感謝の気持ちと、私が精一杯生きますっていう誓いを込めて。でも……戻ってきちゃった。宛先不明で」


「私の感謝は、どこにも届かなかった。私は、誰かの死の上に胡坐をかいて、のうのうと生きてるだけなんじゃないかって……そう思うと、この心臓が鉛みたいに重くなるの」


咲の声が震えている。


湊は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。


『届いているよ』と。


その手紙は、宛先不明で戻ったかもしれないが、その想いは、今ここにいるドナーの兄に届いていると。だが、それを言えば、彼女はさらに傷つくかもしれない。


沈黙を埋めるように、咲は夜空を見上げて、またあのメロディを口ずさみ始めた。


――ラ、ラ、ソ、ミ……レ、ミ、ファ、ソ……


優しく、どこか哀愁を帯びた旋律。


湊は意を決して尋ねた。


「その曲……なんていう曲だ?」


咲は歌うのをやめ、不思議そうに首を傾げた。


「わからないの。タイトルも、誰の曲かも。ただ、手術の後から、ふとした時に頭の中に流れてくるの。まるで、誰かが『忘れないで』って歌ってるみたいに」


湊は手すりを強く握りしめた。


間違いない。それは、澪が死ぬ前夜まで五線譜に書き込んでいた曲だ。


『兄さんに捧げる曲』だと、恥ずかしそうに笑っていた妹の顔が蘇る。


サビの部分はまだ完成していなかったはずだ。だから、咲の口ずさむメロディも、サビの前で途切れている。


「……いい曲だな」


湊がやっとの思いで絞り出した言葉に、咲は嬉しそうに微笑んだ。


「でしょ? 私、この曲が大好きなの。いつか続きを作って、完成させたいな」


夜空に最後の花火が上がり、柳のように垂れ下がって消えていった。


暗闇に戻った屋上で、湊は心の中で誓った。


この残酷で美しい奇跡を、俺は守らなければならない。


たとえそれが、自分自身の古傷を抉り続けることになったとしても。


彼女の命は、澪の命でもあるのだから。


遠くで祭りの終わりのアナウンスが響く中、二人の影は寄り添うように長く伸びていた。

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