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記憶の転移

夜の帳が下りた用務員室は、静寂に包まれていた。


古びた卓上ライトの明かりだけが、机の上を丸く切り取っている。


湊は椅子に深く腰掛け、じっと手元を見つめていた。右手の革手袋は外されている。露わになったその手は、白く、細く、そしてピアニストのように美しい指をしていた。かつて数多の命を救い、「神の手」と称賛された手だ。


机の上には、一本のタコ糸と、金属製のフックが置かれている。


湊は震える指先で糸を摘まんだ。


外科結び。医師として最も基本的な技術。かつての彼なら、目隠しをしていても一秒間に数回は完璧な結び目を作ることができた。


だが、今はどうだ。


糸を交差させようとした瞬間、指先が痙攣したように跳ねた。脳裏に、あの日の手術室の光景がフラッシュバックする。鮮血。警告音。そして、動かなくなった妹の心臓。


「くっ……!」


湊は呻き声を上げ、糸を放り出した。額には脂汗が滲んでいる。


毎晩、こうして誰もいない部屋で、失われた感覚を取り戻そうと足掻いていた。だが、結果はいつも同じだ。精神的なトラウマが、肉体の制御を完全に奪っている。


俺はもう、医者じゃない。ただの抜け殻だ。


湊は再び黒い革手袋を嵌めた。その冷たい感触だけが、暴れる心をわずかに鎮めてくれた。


翌日、サナトリウムの空気は朝から張り詰めていた。


大学病院から視察団が来るというのだ。地域医療連携の一環という名目だが、実態は、大学病院がこのサナトリウムを系列下に置くための査定のようなものだった。


昼過ぎ、黒塗りの高級車が数台、砂利を巻き上げて到着した。


降りてきたのは、仕立ての良いスーツに身を包んだ数人の男たち。その中心に、白髪交じりの髪をオールバックにした、威圧的な男がいた。


佐田健次郎さた けんじろう。大学病院の心臓血管外科教授であり、かつての湊の上司だ。権威を傘に着て、才能ある若手を使い潰すことで悪名高い男だった。


湊は廊下の隅で、モップ掛けをしていた。なるべく目立たないように、背を向けてやり過ごそうとした。


だが、運命は残酷だ。


「おい、そこ。床が汚れているぞ」


傲慢な声が背中に投げかけられた。湊が無視して作業を続けようとすると、革靴の足音が近づいてきた。


「聞こえないのか。掃除係なら掃除係らしく……ん?」


佐田の足が止まった。


湊は観念して、ゆっくりと振り返った。


目が合った瞬間、佐田の顔に驚愕と、そして歪んだ笑みが浮かんだ。


「……まさか。こんなところにいたとはな、瀬戸湊」


その名前が出た瞬間、周囲の空気が凍りついた。案内役をしていた亮平が息を呑む。


「お久しぶりです、佐田教授」


湊は無表情を装って頭を下げた。


「ハッ! 天才外科医と持て囃された男が、今や用務員か。お似合いだな、敗北者には」


佐田は大げさに肩をすくめて、周囲の取り巻きに聞こえるように声を張り上げた。


「君たち、よく見ておきたまえ。これが、自分の妹を手術で殺した『人殺しの元天才』の成れの果てだ」


心臓を鷲掴みにされたような衝撃が湊を襲った。


わかっていた。いつかこうして罵られる日が来ることは。だが、実際に言葉の刃を突き立てられると、傷口から血が噴き出すような痛みが走った。


「……失礼します」


湊はその場を立ち去ろうとした。だが、佐田は執拗だった。


「逃げるのか? 手術室から逃げ出し、妹を見殺しにし、今度はここからも逃げるのか!」


その時だった。


廊下の角から、車椅子の影が現れた。天宮咲だった。


彼女は蒼白な顔で、湊を見つめていた。その瞳には、ショックの色がありありと浮かんでいる。


「……先生? 死神さんが、お医者様……?」


咲の呟きが、湊の耳に届いた。


知られたくなかった。彼女にだけは。


湊の中で何かが弾けた。激しい動悸。視界が歪む。胃の底から熱いものがせり上がってくる。


「うっ……!」


湊は口元を押さえ、その場に膝をついた。過呼吸の発作だ。空気が吸えない。


「ちょっと! 何やってんだい、あんたたち!」


雷のような怒号が響いた。


看護師長の藤子が、仁王立ちで現れたのだ。彼女はその巨体で湊を隠すように立ちはだかり、佐田を睨みつけた。


「ここは静養の場だよ! 患者さんを怖がらせるような大声出すなら、偉い先生だろうが何だろうが叩き出すよ!」


「な、なんだ君は……!」


「さっさと行きな! シッシッ!」


藤子の剣幕に押され、佐田たちは舌打ちをしながら去っていった。


湊は震えながら立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。


そこに、そっと手が差し伸べられた。


咲だった。


「……大丈夫?」


彼女の声は震えていたが、そこには軽蔑の色はなかった。


湊は彼女の手を借りず、ふらふらと立ち上がった。


「……見るな」


「え?」


「俺を見るな!」


湊は叫び、逃げるようにその場を走り去った。


その日の夕方。


湊は中庭の大桜の下で、ぼんやりと空を見上げていた。吐き気は治まったが、自己嫌悪が泥のように心に沈殿している。


隣に、いつの間にか咲が来ていた。


彼女は何も聞かなかった。ただ、湊と同じように空を見上げて、ポツリと言った。


「私ね、最近よく夢を見るの」


「……夢?」


「うん。行ったこともない場所の夢。赤い屋根の可愛いお家でね、庭には大きな白い犬がいるの。ゴールデンレトリバーかな。その犬とボール遊びをしてると、すごく幸せな気持ちになって、胸が温かくなるの」


湊はハッとして咲を見た。


赤い屋根の家。白いゴールデンレトリバーの「バロン」。


それは、湊と妹の澪がかつて暮らしていた実家の風景そのものだった。バロンは澪が可愛がっていた愛犬だ。


なぜ、咲がそれを知っている?


偶然の一致にしては、あまりにも具体的すぎる。


「……不思議だな」


湊が絞り出すように言うと、咲は寂しげに微笑んだ。


「うん。でも、目が覚めると悲しくなるの。だって、そこには私が一番会いたい人はいないから」


風が吹き抜け、桜の葉がざわざわと音を立てた。


湊は確信し始めていた。


彼女の中に、澪がいる。


科学では説明のつかない「記憶転移セルラーメモリー」という現象が、この場所で起きているのだと。

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