死ぬまでにしたいことリスト
サナトリウムでの日々は、単調な作業の繰り返しで始まった。
廊下のモップ掛け、電球の交換、庭の草むしり。かつて人の心臓という小宇宙にメスを入れていた指先は、今や埃と油にまみれている。だが、湊にとってはその方が心地よかった。命の重さを感じなくて済むからだ。
着任から三日目の午後。
湊は中庭のベンチの下を掃除していた。そこで、一冊の小さなノートを拾った。
パステルカラーの可愛らしい表紙。風でページがめくれ、中身が露わになる。
几帳面な丸文字で、タイトルが書かれていた。
『死ぬまでにしたい10のこと』
見てはいけないと思いつつ、湊の目は最初の一行を追ってしまった。
1. お母さんに「さようなら」を言うこと。
2. 浴衣を着て金魚すくいをする。
3. ……
「あーっ! 返してよ、泥棒!」
甲高い声と共に、ノートが手からひったくられた。
天宮咲だった。今日はピンク色のカーディガンを羽織り、少し顔色が良く見える。だが、その細い腕には点滴の痕が痛々しく残っていた。
「拾っただけだ。中身は見てない」
「嘘つき。バッチリ見てたじゃない。死神さんのくせに覗き見なんて趣味が悪いのね」
咲は頬を膨らませて抗議するが、その目には本気で怒っている様子はない。むしろ、湊との会話を楽しんでいるようにさえ見えた。
「……『お母さんにさようなら』か」
湊が独り言のように呟くと、咲の表情がふっと曇った。
「そうよ。私、ここに入院してから一度もお母さんに会ってないの。お母さんは有名なピアニストで、世界中を飛び回ってるから。私のことなんて、もう忘れてるかもしれないけど」
明るく振る舞う声の端々に、隠しきれない寂しさが滲んでいる。
「ねえ、死神さん。手伝ってよ」
「は?」
「このリスト、一人じゃ叶えられないことばっかりなの。用務員さんなら暇でしょ?」
「断る。俺は忙しい」
湊が背を向けて歩き出そうとすると、行く手を阻む小さな影があった。
「待ってよ、おじさん!」
立ちはだかったのは、ニット帽を被った小さな女の子だった。小野寺結衣。十歳にして白血病と闘う、この病棟のアイドル的存在だ。
「おじさんじゃない。お兄さんだ」
「どっちでもいいよ! 咲ちゃんのお願い、聞いてあげてよ。咲ちゃん、最近ずっと部屋で泣いてたんだから!」
結衣は湊の作業ズボンの裾をぎゅっと掴んで離さない。その必死な瞳に、湊はたじろいだ。子供の純粋な願いほど、無下にできないものはない。
「……散歩だけだ。それ以上は付き合わん」
結局、湊は折れた。
咲の車椅子を押し、結衣を連れて、病院の裏手にある丘への道を歩くことになった。
坂道は緩やかだが、車椅子を押す手には確かな重みが伝わってくる。これが命の重さだ、と湊は思う。かつてはもっと直接的に、掌の上で感じていた重み。
「わあ、海がキラキラしてる!」
咲が歓声を上げた。丘の上からは、湊町の全景と、その先に広がる穏やかな海が一望できた。
「久しぶりだな、外の空気は」
「うん。病室の窓から見るのとは全然違う。匂いがするもん。潮の匂い、草の匂い……生きてる匂い」
咲は大きく深呼吸をした。その瞬間、彼女の顔が苦痛に歪んだ。
「うっ……」
咲が胸元を強く押さえた。
ただ押さえるだけではない。服の上から、皮膚を爪で掻きむしるような、激しい動作だった。
「おい、大丈夫か!?」
湊が慌てて車椅子を止めて覗き込む。
咲の額に脂汗が滲んでいる。呼吸が浅く、速い。
「だ、大丈夫……いつものことだから……」
咲は震える手でポケットから薬瓶を取り出し、錠剤を飲み込んだ。しばらくして呼吸が整うと、彼女は無理に作った笑顔を湊に向けた。
「ごめんね、驚かせて。……時々、この胸の傷がすごく痒くなるの。まるで、中身が外に出たがってるみたいに」
その言葉に、湊は背筋が寒くなるのを感じた。
拒絶反応か? いや、それにしては様子が違う。もっと根源的な、肉体と精神の不一致が生み出す違和感のように見えた。
「あら、若い人たちがデート?」
声をかけてきたのは、ベンチで編み物をしていた老婦人、星野静江だった。サナトリウムの最古参患者で、いつも赤い毛糸で何かを編んでいる。
「違いますよ、静江さん。こき使われてるだけです」
湊がぶっきらぼうに答えると、静江はふふふと優しく笑った。そして、湊の右手の手袋に視線を落とした。
「そうかしらねえ。その黒い手袋の下には、とても温かい手が隠れているように見えるけれど」
「……買いかぶりすぎです」
湊は思わず右手を隠した。この老婦人の目は、時々すべてを見透かしているようで怖い。
散歩を終え、咲を病室へ送り届けた後、湊は院長室へ呼び出された。
橘院長は、湊の恩師であり、彼をここに呼んだ張本人だ。
「仕事には慣れたかね、湊くん」
「ええ、まあ。……それより院長、天宮咲のことですが」
湊が切り出すと、院長の表情がわずかに硬くなった。
「彼女がどうかしたかね」
「彼女の心臓……あれは、ただの拡張型心筋症の治療後じゃないですね。あの手術痕、そして拒絶反応の出方……移植を受けていますね?」
院長はしばらく沈黙した後、重々しく頷いた。
「そうだ。三年前にな」
「ドナーは? 彼女はドナーのことを知りたがっていました」
「それは言えんよ。ドナーの情報は守られなければならない」
院長は机の上のファイルを閉じた。その一瞬、湊の目はファイルに挟まれた古いカルテの一部を捉えた。
ドナー名の欄が、黒いマジックで塗りつぶされていた。だが、その下の生年月日と血液型の記述が、湊の記憶にある数字と奇妙に一致していた。
「……湊くん。君は余計な詮索はせず、ここでゆっくり羽を休めればいい。それが君のためであり、彼女のためでもある」
院長の言葉には、どこか含みがあった。
湊は部屋を出て、廊下を歩きながら拳を握りしめた。
革手袋の中で、爪が掌に食い込む。
咲の胸の傷。彼女が口ずさんだメロディ。そして、黒く塗りつぶされたカルテ。
バラバラだったピースが、不吉な絵を描き出そうとしていた。
俺は、ここに来るべくして来たのか。それとも、逃げてきた先で、最も残酷な運命と再会してしまったのか。
廊下の窓から見える夕焼けは、血のように赤く、海を染め上げていた。




