銀時計の遺言と動き出す春
一年後。
再び春が巡ってきた。
桜ヶ丘サナトリウムの庭は、今年も満開の桜に包まれていた。
大桜の下には、新しいベンチが置かれている。その背もたれには、小さなプレートが埋め込まれていた。
『青い蝶と、愛する人へ』
湊は白衣を着て、そのベンチに座っていた。
彼は外科医として復帰していた。
サナトリウムでの勤務を続けながら、週に数回、大学病院の手術室にも立っている。
「神の手」は復活した。だが、かつてのような冷徹な技術者ではない。患者の心に寄り添い、痛みを知る医師として、彼は多くの命を救っていた。
湊は左腕を見た。
そこには、あの銀時計が巻かれている。
彼はポケットから、小さな鍵を取り出した。
咲が亡くなった後、彼女の荷物から見つかった時計の巻き鍵だ。
あの日以来、彼はこの時計を開けていなかった。
一周忌の今日まで、待とうと決めていたからだ。
「……さて」
湊は時計を外し、裏蓋の隙間に爪をかけた。
パカッ。
乾いた音と共に、裏蓋が開く。
中には、小さく折り畳まれた紙片が入っていた。
湊は震える指でそれを広げた。
咲の丸文字が、そこにあった。
『大好きな湊さんへ。
これを読んでいる頃、私はもういないのかな。
でも、悲しまないでね。
私の時間は止まるけど、あなたの時間は進めてね。
あなたが救うたくさんの命の中で、私は生き続けるから。
愛してる。
P.S. 最後のわがまま。私の心臓を止めてくれて、ありがとう』
湊の目から、涙が溢れ出した。
あの日、結婚式の最中に彼女が耳元で囁いた言葉。
『私の心臓を止めてくれて、ありがとう』
その意味を、湊はずっと考えていた。
それは、苦しみからの解放への感謝だったのか。
それとも、妹・澪の心臓を、兄である湊の手で看取らせてくれたことへの感謝だったのか。
きっと、その両方だ。
彼女は知っていたのだ。湊が「妹を殺した」という罪悪感に囚われていることを。
だからこそ、最期に「ありがとう」と言うことで、その罪悪感を「愛」へと昇華させてくれたのだ。
「……バカだな、お前は。最後まで俺のことばかり考えて」
湊は涙を拭い、空を見上げた。
青い空。白い雲。
そして、舞い散る桜の花びら。
その時、一陣の風が吹いた。
無数の花びらが渦を巻き、湊の周りを踊るように舞った。
その中の一枚が、ふわりと湊の肩に落ちた。
ちょうど、彼が首に巻いていた赤いマフラーの上に。
湊はハッとして、その花びらを手に取った。
『生まれ変わったら、桜の花びらになりたい』
『私が桜になったら、優しく受け止めてね』
あの夜の約束。
「……咲か?」
湊は花びらに問いかけた。
花びらは答えない。ただ、掌の上で優しく揺れているだけだ。
だが、湊には聞こえた気がした。
『また会えたね』という、鈴を転がすようなあの声が。
湊は微笑んだ。
心からの笑顔だった。
彼は時計のネジ穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回した。
ジジジ……。
ゼンマイが巻かれる音がする。
そして。
チク、タク、チク、タク。
止まっていた秒針が、再び動き出した。
「行こうか」
湊は時計を腕に巻き、立ち上がった。
風が背中を押す。
彼は歩き出した。
咲と澪、二人の愛を胸に抱いて。
止まらない時を、未来へと進むために。
桜並木の向こうには、輝く海が広がっていた。
その青さは、まるで絵本の中の蝶の羽のように、どこまでも澄み渡っていた。




