止まった時間、微笑みの旅立ち
その夜、病室は静寂に包まれていた。
モニターの電子音だけが、規則正しく、しかし徐々に間隔を空けながら響いている。
ピッ……ピッ……ピッ……。
湊は咲のベッドサイドに座り、彼女の手を両手で包み込んでいた。
その手は冷たくなり始めていたが、湊の体温で温め続けていた。
部屋の隅には、貴子と海人、そして亮平が控えている。誰も言葉を発しない。ただ、最期の時を見守るためにそこにいた。
深夜二時。
咲の呼吸が変わった。
下顎呼吸。最期の兆候だ。
湊は立ち上がり、咲の顔を覗き込んだ。
苦悶の表情はない。鎮痛剤の効果もあるだろうが、それ以上に、彼女の顔は穏やかだった。まるで、長い旅を終えて家に帰る子供のような安らぎに満ちている。
「……咲」
湊は優しく呼びかけた。
「聞こえるか? 俺はここにいるぞ」
咲の瞼が微かに震えた。
湊は聴診器を耳に当て、彼女の胸にチェストピースを滑らせた。
ドクン……ドクン……。
弱々しいが、確かに動いている。
妹・澪の心臓。そして、咲の命。
二つの魂が、一つのリズムを刻んでいる。
その音に混じっていた、あの不気味なクリック音――拒絶反応による硬化音は、不思議と消えていた。
代わりに聞こえるのは、静かで、澄んだ鼓動。
まるで、心臓自身が最期の務めを全うしようと、静かに燃え尽きようとしているかのようだった。
「……ありがとう」
湊は呟いた。
咲へ。そして、澪へ。
「よく頑張ったな。二人とも、本当に強かった」
モニターのアラームが鳴り始めた。
心拍数が低下し、血圧が測定不能になる。
ピーーッ、ピーーッ。
警告音が部屋に響き渡るが、湊は慌てなかった。
彼は咲の体を抱きしめた。
温かい。まだ、温かい。
「愛してる。……ずっと、愛してる」
湊は耳元で囁き続けた。
咲の呼吸が止まる。
胸の動きが止まる。
そして、聴診器の向こうの鼓動が、最後のひと打ちを終え、永遠の沈黙へと変わった。
ピーーーーーーーーー。
モニターがフラットラインを描き、連続音が鳴り響く。
湊はゆっくりと体を離し、咲の顔を見た。
彼女は微笑んでいた。
苦しみから解放され、愛する人の腕の中で旅立った、最高の笑顔で。
「……ご臨終です」
湊は医師として、死亡時刻を告げようとした。
だが、声が詰まった。
喉の奥が熱く、視界が滲む。
それでも、彼は泣かなかった。
約束したからだ。笑顔で送ると。
湊は深呼吸をし、震えることなく告げた。
「三月十五日、午前二時十四分。……天宮咲さん、永眠です」
その瞬間、貴子が泣き崩れた。海人が顔を覆った。亮平が深く頭を下げた。
湊は咲の瞼をそっと閉じさせた。
その指先は、もう震えていなかった。
悲しみはある。喪失感もある。だが、それ以上に、彼女の命を最後まで守り抜いたという誇りが、彼を支えていた。
窓の外では、夜桜が月明かりに照らされ、ハラハラと散り始めていた。
二つの魂は、あの花びらのように、風に乗って空へと還っていったのだろうか。
湊は咲の首に巻かれた赤いマフラーを直し、その頬に最後のキスをした。
「……おやすみ、咲。また会おう」




