早咲きの桜と永遠の誓い
三月。
奇跡が起きた。
サナトリウムの庭にある「大桜」が、例年より一ヶ月も早く開花したのだ。
まだ寒さの残る風の中で、薄紅色の花びらが舞い始めた。
それはまるで、咲の最期の時間を彩るために、自然界が用意した舞台装置のようだった。
咲の意識は、もうほとんど戻らなくなっていた。
だが、湊にはわかっていた。彼女が待っていることを。
約束の時を。
ある晴れた午後。
湊は咲を抱き上げ、車椅子に乗せた。
彼女には、純白のドレスを着せた。藤子師長が若い頃に着たというウェディングドレスをリメイクしたものだ。
痩せ細った体には少し大きかったが、彼女は天使のように美しかった。
「……咲。行くぞ」
湊は彼女を連れて、中庭へ出た。
満開の桜の下。
そこには、レッドカーペットの代わりに、桜の花びらが敷き詰められていた。
参列者は、院長、藤子師長、亮平、海人、そして貴子。
貴子は電子ピアノの前に座り、パッヘルベルのカノンを奏で始めた。
湊は車椅子を押し、桜の木の下まで進んだ。
そこで彼は跪き、咲の手を取った。
咲の目はうっすらと開いていた。焦点は合っていないかもしれない。それでも、彼女は湊の方を見て微笑んでいた。
「……天宮咲さん」
湊は震える声で言った。
「健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しき時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
咲の唇が微かに動いた。
声にはならなかったが、湊には聞こえた。
『はい』と。
「……瀬戸湊も、誓います」
湊はポケットから指輪を取り出そうとしたが、咲の手がそれを止めた。
彼女は自分の首から銀時計を外し、湊の左手首に押し当てた。
指輪の代わり。
彼女の命の時間を、湊に託すという儀式。
湊は黙ってそれを受け入れ、時計を腕に巻いた。
ずしりと重い。命の重さだ。
海人がシャッターを切る音が響く。
貴子のピアノが、クライマックスへと盛り上がる。
風が吹き、桜吹雪が二人を包み込んだ。
湊は咲の額にキスをした。
「……綺麗だ、咲」
その時、咲が最後の力を振り絞り、湊の首に腕を回した。
そして、耳元で何かを囁いた。
湊の目が見開かれた。
その言葉の意味を理解した瞬間、涙が溢れそうになった。
だが、彼は堪えた。
笑顔で送ると決めたから。
湊は、以前静江から受け継いだ赤いマフラーを取り出し、咲の首に優しく巻いた。
「……寒くないように。静江さんも、きっと見てる」
赤いマフラーは、純白のドレスに鮮やかに映え、まるで命の炎が燃えているようだった。
式が終わると、咲は深い眠りに落ちた。
それは、もう二度と覚めることのない眠りへの入り口だった。
湊は彼女を病室へ戻し、その手を握り続けた。
モニターの心拍数は、ゆっくりと、だが確実に低下していく。
桜時計の針が、止まる刻が近づいていた。




