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復活した「神の手」

二月。立春を過ぎても、寒さは厳しさを増すばかりだった。


咲の意識レベルは徐々に低下していた。一日の大半を眠って過ごし、目覚めている時も夢と現実の境目を彷徨っているようだった。


心不全による全身の倦怠感、そして呼吸困難。モルヒネの量が増え、彼女の意識をさらに混濁させていた。


ある深夜。


湊がベッドサイドで仮眠をとっていると、衣擦れの音で目が覚めた。


咲が目を開けていた。その瞳は、驚くほど澄んでいた。


「……湊さん」


「起きたか。水、飲むか?」


湊が吸い飲みを差し出すと、咲は小さく首を横に振った。


「ううん。……お願いがあるの」


「なんだ? 何でも言ってくれ」


咲は湊の手を握った。その力は弱いが、熱を帯びていた。


「『死ぬまでにしたいこと』リスト。最後のひとつ」


湊は記憶を辿った。リストの最後は空欄だったはずだ。


「書いてなかっただろう?」


「うん。今、決めたの」


咲は深呼吸をして、はっきりとした口調で言った。


「湊先生のメスで、私を治して」


湊は息を呑んだ。


治す。それは医学的に不可能な願いだ。心臓移植以外に助かる道はなく、そのドナーもいない。


「……咲。それは」


「違うの。手術をしてほしいんじゃないの」


咲は湊の手を自分の首筋へと導いた。


「痛いの。……体が、心が、全部痛いの。この痛みを、湊さんの『神の手』で消してほしい」


湊は理解した。


彼女が求めているのは、神経ブロック注射だ。


星状神経節ブロック。首の付け根にある交感神経の集まる場所に局所麻酔薬を注入し、痛みや自律神経の乱れを遮断する処置。


だが、それは極めて高度な技術を要する。数ミリでも針がずれれば、血管や神経を傷つけ、重大な合併症を引き起こす。


ましてや、今の咲の体は浮腫んでおり、血管の位置もわかりにくい。


そして何より、湊の手は……。


「……俺には、できない」


湊は手を引っ込めた。


「手が震える。失敗すれば、君を苦しめることになる」


「震えないよ」


咲は微笑んだ。


「あの嵐の夜、結衣ちゃんを助けた時も震えてなかった。……私を愛してくれているなら、大丈夫」


彼女の瞳には、全幅の信頼が宿っていた。


それは、かつて妹・澪が手術室に向かう時に見せた表情と同じだった。


『お兄ちゃんなら大丈夫』。


あの時、俺は応えられなかった。


今度こそ、応えるのか? それとも逃げるのか?


湊は立ち上がり、処置室へ向かった。


準備を整え、ワゴンを押して戻ってくる。


その手には、注射器が握られていた。


廊下の陰から、誰かが見ている気配がした。


佐田教授だった。彼はまだこの病院に執着し、湊の失敗を待ち構えていたのだ。


「……やれるのかね? 壊れた人殺しの手で」


佐田の嘲笑が聞こえた気がした。


だが、湊は無視した。今の彼には、咲以外何も見えていなかった。


ベッドサイドに立ち、咲の首筋を消毒する。


アルコールの冷たさに、咲が身を縮める。


「……いくぞ」


湊は深呼吸をした。


右手の革手袋は、もうしていない。


素手の指先が、咲の皮膚に触れる。


脈動を感じる。頸動脈の拍動。そのすぐ脇にある、星状神経節。


見えない標的を、指先の感覚だけで探り当てる。


震えろ。


心の中の悪魔が囁く。


お前はまた失敗する。愛する人を傷つける。


だが、湊の脳裏に浮かんだのは、恐怖ではなく、夜な夜な練習した糸結びの感触だった。


そして、咲の笑顔。妹の笑顔。


『この手は、人を救う手だよ』


咲の言葉が、呪いを解く呪文のように響いた。


スッ。


湊は迷いなく針を進めた。


皮膚を貫き、筋肉を分け入り、ミリ単位の精度で標的へと到達する。


抵抗がふっと消える感覚。


シリンジを引く。血液の逆流なし。


薬液を注入する。


完璧だ。


針を抜くと同時に、咲の表情が和らいだ。


「……あ……」


彼女の口から、安堵の吐息が漏れた。


「痛くない……。体が、軽くなったみたい……」


強張っていた肩の力が抜け、彼女は深い眠りへと落ちていった。


湊は額の汗を拭い、大きく息を吐いた。


成功した。


震えなかった。


彼は自分の右手を見つめた。それはもう、呪われた手ではなかった。愛する人を守るための、誇り高き医師の手だった。


病室を出ると、廊下に佐田が立っていた。


彼は湊の手元と、安らかに眠る咲の顔を交互に見た。


そして、何も言わずに背を向けた。


その背中は、敗北を認めた者のそれだった。


湊は彼を呼び止めることもなく、ただ静かに見送った。過去との決別は、言葉ではなく行動で果たされたのだ。

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