聖夜、傷跡への口づけ
十二月。街はクリスマス一色に染まっていたが、サナトリウムの中は静まり返っていた。
咲の病状は、急速に悪化の一途を辿っていた。
強心剤の点滴量が増え、酸素マスクが手放せなくなった。浮腫んだ体は重く、ベッドから起き上がることもままならない。
亮平は湊を呼び出し、苦渋の表情で告げた。
「……もう、限界です。心臓のポンプ機能が破綻しかけています。これ以上の積極的治療は、彼女を苦しめるだけかもしれません」
湊は無言でカルテを見つめた。数値は絶望的だ。再移植のドナーも見つからない。医学的に見れば、敗北は確定していた。
その夜、湊は咲の病室を訪れた。
咲は浅い呼吸を繰り返しながら、天井を見つめていた。
「……湊さん」
酸素マスクの下から、掠れた声が漏れる。
「苦しいか?」
「うん……少し。でも、大丈夫」
嘘だ。呼吸をするたびに、肋骨が軋むほどの努力をしているのがわかる。
湊は決断した。
医師としてではなく、恋人として。彼女の最期の時間を、苦痛との戦いではなく、安らぎの時間にするために。
「咲。……緩和ケアに切り替えよう」
その言葉の意味を、咲はすぐに理解したようだった。
治療の放棄ではない。死を受け入れ、残された時間を豊かに過ごすための選択。
「……うん。私も、そうしてほしいと思ってた」
咲は弱々しく微笑んだ。
「もう、注射も検査も嫌。ただ、湊さんのそばにいたい」
翌日から、湊は用務員の仕事を休み、咲の専属ケアに当たった。
痛みを和らげるモルヒネの調整、体の清拭、マッサージ。かつて神の手と呼ばれた指先は、今、愛する人の体を癒やすためだけに使われていた。
クリスマスイブの夜。
湊は病室の照明を落とし、キャンドルライト(LED)を灯した。
咲は少し楽になったのか、体を起こして窓の外の雪を眺めていた。
「ホワイトクリスマスだね」
「ああ。積もりそうだ」
湊は咲の背中にクッションを当て、楽な姿勢を取らせた。
ふと、咲の手が胸元に伸びた。パジャマのボタンを外し、胸の傷跡を露わにする。
縦に走る大きな手術痕。そして、度重なるカテーテル検査の痕。
彼女は悲しげにその傷を撫でた。
「……醜いよね。こんな傷だらけの体」
彼女は以前、この傷を掻きむしっていた。自分の体ではないという違和感と、罪悪感から。
湊は首を横に振り、彼女の前に跪いた。
「醜くなんてない。これは、君が戦ってきた証だ。そして……命が繋がった証だ」
湊はそっと顔を寄せ、その傷跡に唇を落とした。
温かい。
傷の下で、妹の心臓が、そして咲の命が、懸命に脈打っている。
「……っ」
咲の体がビクリと震えた。
「湊さん……」
「愛してる。この傷も、この心臓も、君の全てを」
湊は何度も、何度もキスをした。祈りを捧げるように。
咲の目から涙が溢れ、頬を伝った。
「ありがとう……。私、この傷がずっと嫌いだった。でも、今は好きになれそう。湊さんが愛してくれたから」
その夜、二人は同じベッドで眠った。
狭いシングルベッド。点滴の管が邪魔だったが、そんなことは気にならなかった。
互いの体温を感じ、同じリズムで呼吸をする。
外では雪が降り積もり、世界を白く染め上げていた。
時計の針は進んでいく。残酷なほど正確に。
だが、この温もりだけは、永遠に消えないと信じたかった。




