冬の海、桜になる約束
和解から数日後。咲の体調は奇跡的に回復していた。
精神的な安定が、心臓の負担を軽減させたのだろう。亮平も「医学では説明がつかない」と首を傾げていた。
ある夜、湊は咲を連れ出した。
行き先は、病院の裏手にある海岸だ。
もちろん無断外出だが、今夜ばかりは誰も咎めないだろう。
冬の海は静かで、波音だけが響いている。空には満天の星。
湊は砂浜に毛布を敷き、咲と並んで座った。
「寒いか?」
「ううん。湊さんがいるから温かい」
咲は湊の肩に頭を預けた。
「『死ぬまでにしたいこと』リスト。あと何が残ってたっけ?」
「『満天の星空の下でキスをする』……だったかな」
湊が言うと、咲は顔を赤らめた。
「よく覚えてるね」
「お前のことは全部覚えてる」
湊は咲の顔を覗き込んだ。月明かりに照らされた彼女の顔は、儚くも美しかった。
彼はそっと唇を重ねた。
冷たい唇が、触れ合うことで熱を帯びていく。
それは、命を確かめ合うような、深く、長いキスだった。
「……ねえ、湊さん」
唇を離した後、咲が首から下げていた銀時計を外した。
「これ、湊さんに預かってほしいの」
「時計? なぜだ」
「私が死んだら、この中を見てほしいの。……でも、今はまだ開けないでね」
咲は時計を湊の手に握らせた。
「私が生きている間は、この時計は止まったままでいい。だって、湊さんとの時間が動いているから」
湊は時計を握り返し、首を横に振った。
「受け取れない。これはお前が持っていてくれ。お前が生き続けるお守りだ」
彼は時計を再び咲の首にかけた。
「死ぬなんて言うな。俺が必ず助ける。どんな手を使っても」
それは、医師としての言葉ではなく、一人の男としての祈りだった。
咲は微笑み、空を見上げた。
「私ね、生まれ変わったら何になりたいか決めたの」
「なんだ?」
「桜の花びら。……春になって、湊さんの肩にひらりと落ちて、『また会えたね』って言いたいの」
「……気が早いな。春まではまだ時間がある」
「うん。でも、約束して。私が桜になったら、優しく受け止めてね」
「ああ。約束する」
二人は指切りをした。
子供じみた約束。けれど、今の二人にとっては、どんな契約書よりも重い誓いだった。
波音が、二人の鼓動と重なる。
この幸せな時間が永遠に続けばいい。
だが、湊のポケットの中で、携帯電話が震えた。
病院からの呼び出しだ。
現実が、容赦なく二人を引き戻そうとしていた。
帰り道、湊は咲をおんぶして坂道を登った。
背中の軽さに、胸が痛む。
命が削れていく重さ。
それでも、彼女の体温は確かにここにある。
「重くない?」
「羽みたいだ」
「ふふっ。じゃあ、飛べるかな。青い蝶みたいに」
「飛べるさ。俺が風になるから」
サナトリウムの灯りが見えてきた。
そこは、二人の終着点であり、そして新たな出発点でもあった。
湊は背中の温もりを噛み締めながら、一歩一歩、大地を踏みしめた。




