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妹の日記と魂の連弾

冷たい雨は、三日三晩降り続いた。


咲の病室の扉は、固く閉ざされたままだ。食事も摂らず、治療も拒否し、彼女は自らの命を終わらせようとしているかのように沈黙していた。


モニターの数値は危険域を示している。心不全の悪化。このままでは、本当に心臓が止まってしまう。


湊はドアの前に座り込み、動こうとしなかった。


藤子師長や亮平が声をかけても、彼は石像のように動かない。


「湊さん、少し休んで。あなたが倒れたら元も子もないわ」


「……俺のせいです。俺がもっと早く、ちゃんと話していれば」


湊の声は枯れ果てていた。


後悔が胸を締め付ける。傷つけたくないという優しさが、結果として彼女を最も深く傷つけてしまった。


四日目の夜。雨が上がり、雲の切れ間から月が顔を出した。


廊下の向こうから、足音が近づいてきた。


成瀬海人だった。彼は濡れた髪を拭きもせず、手には一冊のノートを持っていた。


「……まだ開かないのか」


「ああ。俺の声なんて、もう聞きたくないだろう」


湊が自嘲気味に言うと、海人は静かに首を横に振った。


「違うよ。彼女は待ってるんだ。あんたが『許し』を与えるのを」


海人はドアの前に立ち、ノートを開いた。澪の日記だ。


「咲ちゃん! 聞こえてるか! 俺だ、海人だ!」


返事はない。だが、気配は感じる。


「澪の日記を読むぞ! 彼女が死ぬ前日に書いた、最後の日記だ!」


海人は朗読を始めた。


『○月×日。晴れ。


今日、お兄ちゃんが手術の説明に来てくれた。すごく怖い顔をしてた。手が震えてた。


お兄ちゃんは、絶対に私を助けるって言ってる。でも、私は知ってる。私の心臓はもう限界だってこと。


もし、手術がうまくいかなくても、お兄ちゃんを責めないでほしい。これは私の運命だから。


でもね、一つだけ願いがあるの。


もし私が死んだら、私の心臓を誰かにあげてほしい。


まだ生きたいと願う誰かに。


そして、その人と一緒に、お兄ちゃんには幸せになってほしい。


私の心臓が動いている限り、私は生きている。


だから、泣かないで。私の大好きな、世界一のお医者様』


海人の声が震え、最後は涙声になった。


湊は膝に顔を埋め、声を殺して泣いた。


妹は、全てわかっていたのだ。自分の死も、兄の苦悩も。そして、その先にある未来さえも。


「……聞こえたか、咲ちゃん! 澪は、あんたに生きてほしかったんだ! あんたが湊さんと笑い合うことを、誰よりも望んでたんだよ!」


海人が叫ぶと、ドアの向こうから、微かな衣擦れの音がした。


湊は立ち上がった。


涙を拭い、ロビーの方へ走った。


数分後、彼は何かを持って戻ってきた。


キーボードピアノだ。


彼はドアの前にキーボードを置き、電源を入れた。


「咲。……聞いてくれ」


湊は鍵盤に指を置いた。


震えはない。妹の想いが、指先を支えてくれている気がした。


彼が弾き始めたのは、あの未完成のソナタ。


優しく、切ない旋律が廊下に響く。


――ラ、ラ、ソ、ミ……レ、ミ、ファ、ソ……


サビの前で、湊は手を止めた。そこから先は、楽譜がない。


だが、その空白を埋めるように、ドアの向こうから歌声が聞こえてきた。


――シ、ド、レ、ミ……ファ、ミ、レ、ド……


細く、弱々しいけれど、透き通るような歌声。


咲だ。


彼女が、続きを歌っている。


湊はその歌声に合わせて、即興で伴奏をつけた。


まるで最初からそう決まっていたかのように、二つの旋律が絡み合い、一つの曲になっていく。


記憶転移。魂の共鳴。


壁を越えて、二人の心が、そして三人の魂が一つになった瞬間だった。


カチャリ。


鍵が開く音がした。


ドアがゆっくりと開く。


そこには、目を赤く腫らした咲が立っていた。


「……湊さん」


「咲」


湊はキーボードを押しのけ、彼女を強く抱きしめた。


「ごめん。ごめんな……!」


「ううん……私こそ、ごめんなさい。澪さんの気持ち、やっとわかった気がする。……私、生きてていいんだね」


「ああ。生きてくれ。俺のために。澪のために」


二人は抱き合い、涙を流した。


その背中を、海人が優しく見守っていた。

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