残酷な真実と閉ざされた扉
母との再会から数日後。咲の容態は一時的に安定していた。精神的な充足が、免疫機能に良い影響を与えたのかもしれない。
だが、運命の歯車は、最も残酷な形で回り始めた。
その日、湊は街へ買い出しに出ていた。
サナトリウムには、再びあの男が現れていた。
佐田健次郎教授。
彼は「最終視察」と称して、一人で病棟を回っていた。その目は、獲物を探すハイエナのようにぎらついている。
彼は中庭で、一人で絵本を描いている咲を見つけた。
「やあ、お嬢さん。調子はどうだい?」
猫なで声で近づく佐田に、咲は警戒しながらも会釈をした。
「おかげさまで……」
「君が天宮咲さんだね。奇跡の生還を遂げたラッキーガール」
佐田は咲の隣に座り込んだ。
「君の担当医だった瀬戸湊くんとは、仲良くやっているようだね」
「……湊さんは、今は用務員さんです」
「ハハッ、そうだった。だがね、彼は元々私の部下でね。優秀だったよ。……妹を殺すまでは」
咲の手が止まった。
「……え?」
「おや、聞いていないのかね? 彼の妹、瀬戸澪くん。三年前、彼が執刀した手術でミスをして死なせたんだ。可哀想に。まだ二十五歳だったのに」
佐田は愉悦に歪んだ笑みを浮かべ、咲の耳元で囁いた。
「そしてね、ここからが傑作なんだ。その死んだ妹の心臓が、今どこにあると思う?」
咲の顔から血の気が引いていく。
ドクン。胸の鼓動が、痛いほど大きく響く。
「まさか……」
「そう、その『まさか』だよ。君の胸の中で動いているその心臓は、瀬戸湊が殺した妹のものだ。君はね、彼が最も愛し、そして最も憎んでいる『失敗作』の証拠品なんだよ」
世界が崩れ落ちる音がした。
咲は呼吸ができなくなった。
湊さんの妹。私がドナーだと思っていた人。
それが、湊さんの……?
じゃあ、湊さんが私を見る時のあの悲しげな目は? 私の手を握る時の震えは?
全部、妹さんを思い出していたから?
私は、彼の大切な人を奪って、のうのうと生きている泥棒……?
「あ……あぁ……っ!」
咲は胸を掻きむしり、過呼吸を起こして倒れ込んだ。
「おっと、大丈夫かい? まあ、真実を知る権利はあるからね」
佐田は満足げに立ち上がり、倒れた咲を見下ろして去っていった。
湊が戻ってきた時、病棟は騒然としていた。
咲が発作を起こし、個室に運び込まれたという。
「咲!」
湊が病室に飛び込もうとすると、鍵がかけられていた。
「開けてくれ! 咲!」
「嫌……! 入ってこないで!」
中から、悲鳴のような拒絶の声が響いた。
「人殺し……! 私も、あなたも、人殺しよ!」
その言葉に、湊は凍りついた。
バレた。最悪の形で。
ドアの向こうで、咲が泣き叫んでいる。
「返してよ……妹さんを返してよ! 私なんかが生きててごめんなさい! この心臓、いらない! 返すから……返させてよぉ!」
ガシャン、と何かが割れる音がした。花瓶か、それとも彼女の心か。
湊はドアに背中を預け、崩れ落ちた。
終わった。
積み上げてきた信頼も、淡い恋心も、全てが粉々に砕け散った。
彼女の絵本の中の「青い蝶」。
その羽が欠けている理由。それは、他人の命を奪って飛ぶことへの罪悪感。
今、彼女はその罪悪感に押しつぶされようとしている。
「……違うんだ、咲。違うんだよ……」
湊の呟きは、厚いドアに阻まれて届かない。
廊下の窓の外では、冷たい冬の雨が降り始めていた。
二人の時間は、ここで完全に止まってしまったかのように思えた。




