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飛べない蝶と呪われた手

春の風は、どこか甘く、そして残酷なほどに生温かかった。


海を見下ろす小高い丘の上に建つその場所――「桜ヶ丘サナトリウム」は、俗世から切り離された箱庭のようだった。白亜の建物は午後の日差しを浴びて輝いているが、その白さは清潔さというよりは、漂白された骨のような無機質さを感じさせた。


瀬戸湊せと みなとは、重たい鉄門を押し開け、敷地へと足を踏み入れた。


足元の砂利が、革靴の裏でジャリ、ジャリと音を立てる。その音だけが、彼がここに存在しているという唯一の証のようだった。


湊は無意識のうちに、右手を庇うように胸元へ引き寄せた。そこには、季節外れの黒い革手袋が嵌められている。五月の陽気には似つかわしくないその異物は、彼の手を締め付け、じっとりと汗ばませていた。だが、外すわけにはいかない。この手袋の下にあるのは、ただの皮膚と肉ではない。かつて「神の手」と呼ばれ、そして今は「呪われた手」と成り果てた、彼の罪そのものなのだから。


「……ここが、俺の墓場か」


低く呟いた声は、潮風にさらわれて消えた。


二十八歳。医師としてのキャリアを捨て、名前も過去も隠し、このサナトリウムの用務員として雇われた。メスを握る代わりに、モップとレンチを握るために。


本館へ向かおうとした湊の足が、ふと止まった。


視線の先、中庭の中央に、圧倒的な存在感を放つ巨木が鎮座していた。


樹齢千年とも言われる「大桜」。


すでに花の盛りは過ぎ、今は新緑の葉桜となっていたが、その枝ぶりは空を覆い尽くさんばかりに広がっている。その根元に、車椅子に乗った一人の女性がいた。


長い黒髪が風に揺れている。儚げな横顔は、透き通るように白い。彼女は何かを祈るように、両手で包み込んだ銀色の懐中時計を、じっと耳に押し当てていた。


まるで、そこから聞こえるはずのない声を聞こうとしているかのように。


湊は関わり合いになることを避けようと、視線を逸らして通り過ぎようとした。しかし、彼女がふいに顔を上げ、彼と目が合った。


大きな瞳だった。死の影が漂うこの場所には不釣り合いなほど、強い光を宿した瞳。


「……ねえ」


鈴を転がすような声が、湊を呼び止めた。


無視するわけにもいかず、湊は無愛想に立ち止まる。


「なんだ」


「新しい人? 白衣を着てないから、お医者様じゃなさそう」


「用務員だ。今日から働く」


「ふうん。用務員さんにしては、随分と暗い顔をしてるのね。まるで死神さんみたい」


彼女は悪戯っぽく微笑むと、持っていた懐中時計を湊の方へ差し出した。アンティークの銀時計だ。細かな彫刻が施されているが、かなり古びており、針は動いていない。


「これ、私の命の砂時計なの」


「砂時計? それは時計だろう」


「動かないのよ。もうずっと前から。でもね、これが再び動き出す時、私の時間は終わるの」


意味のわからないことを言う女だ、と湊は思った。関わるべきではない。直感がそう告げている。だが、彼女は湊の拒絶など意に介さず、車椅子を器用に操って彼に近づいてきた。


そして、唐突に言った。


「ねえ、死神さん。私の心臓の音、聞いてみてくれない?」


湊の眉間しわが寄る。


「は? 何を言って……」


「いいから。ほら、耳を澄ませて」


彼女は自分の薄い胸に手を当てた。


湊は後ずさる。心臓。その単語を聞くだけで、右手の指先が微かに震え始めた。革手袋の中で、古傷が疼くような錯覚に襲われる。


「断る。俺は医者じゃない」


「減るもんじゃないでしょ。ねえ、変じゃない? 私の心臓」


彼女は真剣な眼差しで湊を見つめていた。その瞳の奥に、冗談ではない切迫した色が混じっていることに気づき、湊は息を呑んだ。


「……誰かが、泣いてる音がするの」


「泣いてる?」


「ええ。この胸の奥で、ずっと。寂しいよ、会いたいよって」


彼女はそう言うと、ふと視線を遠くへ投げ、小さな声でメロディを口ずさみ始めた。


――ラ、ラ、ソ、ミ……レ、ミ、ファ、ソ……


その旋律が耳に届いた瞬間、湊の全身が凍りついた。


心臓が早鐘を打つ。視界が明滅し、激しい吐き気が込み上げてくる。


知っている。その曲を、俺は知っている。


それは、この世に発表されることのなかった曲だ。


三年前に死んだ、俺の最愛の妹・みおが、病室のベッドで書き続けていた未完成のソナタ。


「おい……お前、その曲……」


湊が掠れた声で問いかけようとした時、背後から鋭い声が飛んだ。


「そこで何をしているんですか!」


振り返ると、白衣を着た若い男が立っていた。工藤亮平。かつて大学病院で湊の下についていた研修医だ。今は一人前の医師のような顔をして、険しい表情でこちらを睨んでいる。


亮平の視線は、湊の顔から、その右手の黒い革手袋へと滑り落ちた。


「……瀬戸先生。まさか、本当にここに来るとは」


「先生とは呼ぶな。俺はただの用務員だ」


「まだ逃げているんですか。その手袋も、あの日のままなんですね」


亮平の言葉には、軽蔑と、そして隠しきれない苛立ちが混じっていた。


湊は何も言い返さず、逃げるようにその場を離れた。背中に、車椅子の彼女――天宮咲あまみや さきの視線を感じながら。


用務員室に逃げ込んだ湊は、荒い息を吐きながら椅子に崩れ落ちた。


右手の震えが止まらない。左手で強く押さえつけるが、革手袋の下の痙攣は治まる気配がなかった。


なぜ、あの子があの曲を知っている?


偶然か? それとも……。


湊はポケットから、一枚の紙を取り出した。採用手続きの際に渡された、サナトリウムの案内図だ。その裏に、先ほどの彼女が忘れていったスケッチブックが挟まっていたことに気づく。


無造作に開かれたページには、鮮やかな青い色鉛筆で描かれた蝶の絵があった。


美しく、幻想的な青い蝶。


だが、その蝶は空を飛べそうになかった。


右側の羽だけが、根元から無残に欠けていたからだ。


「……飛べない蝶、か」


それはまるで、メスを握れなくなった自分自身のようだと、湊は自嘲気味に笑った。


窓の外では、大桜の葉が風に揺れ、ざわざわと音を立てていた。


止まっていたはずの湊の時間が、不協和音を奏でながら、ゆっくりと動き出そうとしていた。

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