みかん
私の右手には、一つのみかんが握られている。皮に艶があり、よく色づいた、誰がみても美味しそうなみかん。私は、誰かに自慢したくて仕方がなかった。
私は向こうからやってきた友人に早速自慢した。
「これは美味しそうだね。色も艶も良い。食べごろじゃないか。」
友人の言葉に笑顔でうなづく私。やはりこれは良いみかんなのだ。深い満足感が私を満たす。しかし、次の友人の言葉に、私は困惑を覚えた。
「本当に美味しそうなオレンジだね。」
今、彼は私の手にあるものをオレンジだと言った。これはみかんなのに。みかんであって、オレンジではないというのに。
私は眉間に皺を寄せて抗議した。
「いいや、これはオレンジだよ。君が持っているのは、オレンジだ。」
私は、友人の言葉に苛立った。こいつはなんて分からずやなんだろう。私が持っているのはオレンジだって?笑わせてくれる。しかも、自分の間違いを認めようとしないなんて、とんだ大馬鹿者だ。
私たちの口論は、半刻に渡って繰り広げられた。どちらも最後には、相手の顔を二度と見たくない程になっていた。お互い、相手に愛想が尽きてしまったのだ。彼と出会って十数年来の付き合いとなるが、まさかこんなにとんちんかんなやつだとは、思ってもみなかった。こんな馬鹿な奴と付き合っていただなんて。そう思うとまた怒りが湧いてくるのだ。ほとほと、こんな奴とはもう関わりたくもない。みかんをオレンジと言う奴となんて。
彼と別れて歩いていると、向こうから小さな男の子と母親らしき女が歩いてきた。彼に気分を台無しにされたが、この二人なら私とこのみかんの良さを語り合えるに違いない。私は二人にもみかんを自慢することにした。
「まぁ、美味しそう。イツキもオレンジ大好きよね。」
「うん。オレンジだーいすき。」
これは、みかんだ!
私は叫んでいた。顔が熱くなるのを感じる。私の顔は紅潮しているのだろう。そして目は釣り上がり、口はわなわなと震えているのが自分でも分かった。
私の声に驚き、男の子は泣き出してしまった。母親は怯えた様子で男の子を連れ、足早に消えてしまった。
なぜオレンジと言うのか。これは、これはみかんなのだ。どうして分からないのだ。怒りが私を支配していくのを感じる。危うくみかんを握りつぶしそうになり、我にかえった。これは、みかんなのだ。
怒りが収まった頃、向こうから帽子を被った老紳士が歩いてきた。
「良いものを持っているじゃないか。どれ、私に見せてくれないか。」
私は快く右手にあるものを老紳士に見せた。老紳士はその手に近づいたり、ちょっと離れたりしながら、じっくりとみかんを眺めていた。
「これは良いみかんだね。」
老紳士の細い目が更にきゅっと細くなった。私がそれを笑顔だと気づくのに3秒かかった。だが、5秒後には、胸いっぱいに幸福感が広がっていくのを感じた。やっと、分かり合える人を見つけた。私はつい、喜びに口角をあげてしまった。
そうでしょう、良いみかんでしょう、と私が老紳士に話しかけようとした時、向こうから一人の少女が駆け寄ってきた。
「おじいさま、こんなところにいた。やっと見つけましたわ。」
少女は三つ編みの髪を揺らしながら、息を切らしていた。
「帰りましょう。みんなおじいさまを探していらっしゃるのよ。」
「お前はだれだ。私に触れるんじゃない。」
老紳士は肩に回された少女の手を払いのけた。細く穏やかな目は、敵を威嚇するかのように最大限に見開かれている。
「おじいさま。私です。あなたの孫にございますよ。お忘れにならないで。おじいさま。」
少女は苦しそうに老紳士に話しかける。だが、老紳士は聞く耳を持たない。少女はすまなそうにこちらを向いた。
「おじいさま、認知症ですの。最近よく一人でどこかに行ってしまって。物忘れもおひどく、この間は、りんごをみかんだなんて言われましたの。ごめんなさいね。とても美味しそうなオレンジですわ。」
私は少女の言葉には何も返さなかった。ただ、私は老紳士にこの美味しそうなみかんを持たせてやった。それしか私には出来なかった。怒りなど湧くにも値しなかった。だからといって、手放しに憐れみをかけることも出来なかった。
「なんだ、これは。」
老紳士は不思議そうに自分の手にあるみかんを見つめた。近づいたり、ちょっと離して見てみたり。
「これは、オレンジか。美味しそうだなあ。」
老紳士はそう言って、みかんを地面に叩き落としてしまった。
ぐちゃ、という音と橙色の液体が飛び散った。