忘新年会
「防犯スマホが場を制し、安全モデルが護衛する。十万台の契約一発、これで三年分の生産が決まった!」
熱海の温泉旅館。
数百人を収容できる大広間で、会社の忘新年会はすでに二時間近く続いていた。
いまステージに立っているのは、スマートフォン子会社の営業チーム。全員が金色のかつらを被り、重低音のベースと強烈なドラムに乗せて、ラップ調で最新の業績を叫んでいる。
MOCES社は試験導入中の防犯スマホに非常に満足し、追加で十万台の注文を出した。ほぼ三年分の生産量に相当する大口契約だ。
近年、この手の会社年会はめっきり減った。酒を飲む若者は少なくなり、体を張って場を盛り上げる人もほとんどいない。
一泊二日の合宿型イベントは、同僚意識を高めるという意味では、もはや形式的なものになりつつある。
景気の悪化もあり、多くの企業が年会そのものを廃止していた。
麗子自身も、こうした少し時代遅れで澱んだ雰囲気の行事は好きではなかった。
だが今年は利益があまりにも良かったせいか、「たまには思い切り騒ごう」と気が変わり、
その結果、秘書室はてんてこ舞いになった。
参加者は主に、ライトファッション部門とスマートフォン部門の正社員。
チェーン店の美容師たちは正社員契約ではなく、若くて個性的な人間が多く、そもそも年会に興味がない。
麗子もそれを理解し、代わりにボーナスを支給した。
「ポップアップコーナー」の施策は功を奏し、MOCES社の大型受注によって、
ライトファッションとスマートフォン子会社の業績は大きく伸びた。特別賞与も出た。
年会では、ラップ、バンド演奏、お笑い芸人のモノマネダンスまで飛び出し、久しぶりに大いに盛り上がった。
丁寧もSWATチームの面々と心ゆくまで飲んだ。この一年は、まさに肩を組んで走り続けた一年だった。
一緒に過ごした時間は、家族以上だったかもしれない。
普段は堅物の中神も、「情報セキュリティ、情報セキュリティ」と唱えている本人が、
畳に仰向けになり、目を細めながら大学時代の初恋を語っている。
鈴木と後田は顔を真っ赤にして、頭を揺らしながら手を叩き、中神にもっと話せと煽るが、
笑っている内容は話とまるで噛み合っていない。
八橋だけは酒に強く、目が少しとろんとしている程度だった。
藤枝に異動してから、丁寧はあまり酒を飲んでいなかった。酒量も落ちていたが、タイ滞在中は毎晩飲んでいたおかげで、ビールを水のように飲める感覚が戻っていた。
酒は人を酔わせるが、丁寧はどこか醒めていた。
こうした賑やかな場、とりわけ賑やかな場にいるほど、
彼は一歩引いてしまう。すべては長く続かない、という感覚が拭えない。
「良い集まりほど、必ず散る」そう思ってしまう。
だから集まっている最中にも、心のどこかで別れを考えてしまい、百分の百で没頭できない。
丁寧はそれが「恐れ」だと分かっていた。臆病さから来る恐れ。だが、何を恐れているのかは分からない。
分からないからこそ、今に飛び込めない。
頭の中は雑念だらけだが、表向きには目を細め、体を揺らし、皆と同じように振る舞う。
「迎合型人格」
A宝が総括する。
その通りだ。
人と違う振る舞いをすると、丁寧はひどく居心地が悪くなる。
だが子どもの頃は違った。何でも一番になりたがる子だった。
幼稚園の着替え競争、ボタン留め競争ですら、必ず一位を狙った。
その理由も分からぬまま、中学まではずっと市内トップだった。
高校に入って、突然分からなくなった。なぜ一位を目指すのか。目標を失い、三年間ゲームに明け暮れた。
基礎があったおかげで、良い大学には入れたが、トップ校には届かなかった。
その先の「エリートコース」も歩まなかった。
十八歳の彼は、そんな道があることすら知らなかった。
人が引いた道が、人生の道とは限らない。では人生の道とは何なのか。
光があれば進める。闇があれば探索できる。
人生には、昼の光と夜の闇がある。
では、今の自分はどこにいる?
「黄昏だね。夕焼けゾーン」
A宝が落ち着いた声で言う。
「ふざけるな。まだ三十代だ」
「その言い草は何だ。こんな優秀な息子に“出てけ”なんて言う親はいない」
確かに、A宝に対する感覚は一言では言えない。
子どもへの慈しみもあれば、万能性への畏怖もあり、兄弟のような気安さもある。
丁寧はそれを不自然だとは思わなかった。
人と人の関係とは、もともと様々な感情の混合物だ。
性格も同じだ。孤独が一〇%、迎合が三〇%……足し算して百%になる配合。
その配合こそが、本当の意味での“個人のDNA”なのだと、丁寧は思っていた。
「複製できないならDNAじゃない」
A宝が口を挟む。
「化学の例えなら、高校の教科書からやり直し」
「呼び名の問題だ。
名前なんてただのラベルだ。
名は名づけられるが、常なる名ではない」
「来た来た。じゃあ言うよ。
道は道と呼べるが、常なる道ではない」
宴が終わり、正確には酒が尽き、人々は散っていった。
会場に寝具があれば、酔ったまま眠れただろうに。
各自が部屋へ戻った直後、丁寧のスマホが震えた。
麗子からだ。
予想どおり、彼女の部屋は旅館の最上階。公式サイトには紹介ページだけがあり、予約ページは存在しない。
案内され、360度海を望むリビングで待つ。
「夜だと分かりにくいけど、昼の眺めは本当にきれいよ」
麗子が現れ、
立たなくていいと手で制した。
丁寧は軽く頭を下げた。緊張している。それも当然だ。和装の浴衣姿の麗子を見るのは初めてだった。
会場ではいつものスーツだったが、いまは温泉宿の浴衣だ。
「今日は興奮しすぎたわ。
それに、今後の構想もいくつか浮かんで……
少し話しましょう。こちらへ」
リビングの一角には、畳敷きのスペースが設けられていた。
障子はなく、太い木柱で緩やかに区切られ、イタリアンミニマルと和が自然に融合している。
茶器が並び、麗子は、茶道をほとんど忘れてしまったと自嘲しながら、
ゆっくりと抹茶を点てる。
正座はせず、足を横に流して座る。
柔らかな和灯りの下、木柱の影が彼女に落ち、
白い肌が際立つ。酒の余韻で、首元がわずかに紅い。
丁寧の全細胞が叫びそうになる。衝動が抑えられるのは、
誘惑の波がまだ一線を越えていないからだ。
「一歩踏み外したら囚人だぞ」
A宝が叫ぶ。
丁寧はA宝に心から感謝した。この甘く危うい空気が、一気に可笑しみに変わり、冷静さを取り戻せた。
もし、いつか麗子を想うなら、
晴れた青空の下で、堂々と伝える。
夜と酒に紛れて踏み込むことはしない。彼女には、それに見合う自分でありたい。
話の内容は、計画というより、
彼女が長年思い描いてきた「女性向けサービス」の断片だった。
技術の壁で実現できなかったもの。だが今回、AIの可能性が見え、丁寧を呼び止めた。
「これはできる?」
「あれは?」
丁寧はA宝と酒の勢いを借り、すべてに胸を張って答えた。
夜は深い。
だが、麗子グループの夜明けは、すでにそこまで来ていた。




