表の道
麗子の問いを受け、丁寧はすでに腹案がある様子だった。
スクリーンにはMITとスタンフォード大学の最新論文が映し出され、実験データの箇所が強調表示されている。
「最新のアルゴリズムによれば、必要な精度までファインチューニングするには、実は高品質な学習データは十件程度で足ります。こちらの実験結果をご覧ください」
丁寧は続ける。
「念のため、二十名の美容師を募集します。前後左右にカメラを設置し、三十分間の施術動画を撮影する。評価は論文と同じく一から十のスコアで、各動画を二名の審査員が採点し、平均値を正解データとします」
会議室に、軽いどよめきが走った。
想像以上に、データ収集が容易に思えたからだ。空気が一気に前向きになる。
――そのとき。
「へへっ」
A宝が笑った。
「美容師二十人、三十分ずつ?
その程度で使えるモデルができるわけがないよ。
私の推測だと、実用レベルには最低でも三百人、
一人あたり平均十時間分の動画が必要。たぶん、それでも足りない」
丁寧は心の中でうなずく。
(論文の実験環境は、理想条件だ。
物理実験なら真空、化学なら無菌室。
そのまま現実に当てはめられるわけがない。
……でも、今はそれでいい。暗示を続けろ)
A宝が続ける。
「もちろん、全員のYouTubeやSNSには、
“AI大規模モデルは万能”と称賛する業界トップの動画が
自然におすすめされるようにしておく。
疑う余地はなくなる」
丁寧は次のスライドに進んだ。
「論文では、最新のNVIDIA A100 GPUを八基搭載したサーバー一台を使用しています。
価格は日本円で約八千万円。
コスト削減のため、ドバイの中古サーバー業者を調べました。
同等構成のサーバー二台を、二千万円で購入できます」
八橋がすぐに反応した。
「その業者の情報、後で送ってください。購買部と法務部で確認します」
丁寧はうなずき、説明を続ける。
「論文上の学習時間は約三日ですが、
実際には調整すべきパラメータが多い。
最適精度を得るには、二十組以上のパラメータ検証が必要です。
二台のサーバーで並列実行すれば、
全体の学習期間は一〜二か月と見ています」
麗子は八橋に、直近の重要プロジェクトのスケジュールを確認させた。
続いて、フロントエンド担当の後田に、私服推薦プロジェクトの公開時期を尋ねる。
「一か月後です」
麗子はうなずき、デザイナーの鈴木に言った。
「審査モデルの成功を待ってから本格始動するのは当然ですが、
立ち上げ後のスピードを上げるため、
改装可能な古い建物のリストをすぐに送ります。
現地を見て、三〜四パターンの内装案を作ってください」
リスク評価担当の中神が、言い出しかねている様子を見せた。
麗子が視線を向け、発言を促す。
「仮に審査モデルが成功しても、
安全対策が不十分では意味がありません。
交通の便が悪い古い家屋では、街灯などの設備も整っていない可能性が高い。
審査モデルの失敗は“仕上がり”の問題で済みますが、
安全事故は……最悪、刑事事件になります」
中神は、そこで言葉を切った。
麗子が静かに続ける。
「グループ全体が、致命的な打撃を受ける」
全員の視線が、丁寧に集まった。
十分に準備していたとはいえ、その視線の重さに、丁寧は一瞬だけ緊張する。
だが、軽く肩の力を抜いて口を開いた。
「実は、安全モデルの方が、実装は簡単です。
学習データが圧倒的に多いからです」
丁寧は説明を続ける。
「たとえば、日本最大手の警備システム会社MOCES。
彼らは最近、国際AI会議でコンペを開催し、
軽犯罪者が事件前に映っていた監視カメラ映像を、
学習データとして公開しました。
リアルタイム映像から“危険度”を予測できるモデルを競わせるものです。
このデータセットは、商用利用も無償で許可されています。
米国、中国にも同様の公開データがあります」
中神が口を挟んだ。
「百パーセントの精度を出せるモデルは存在しますか?」
丁寧は心の中で答える。
(A宝がいれば、可能だ)
A宝も得意げだ。
「当然だ」
だが表情は変えず、首を横に振った。
「現状で最も高精度なのは、
上海の大学と現地警察が共同開発したモデルで、
論文上の精度は約85%です」
少し間を置いて続ける。
「ただし、
男性客と女性美容師が一対一になる場合など、
想定される危険シナリオを限定し、
“危険か否か”の二値判定にすれば、
精度は90%程度まで引き上げられます」
麗子は眉を寄せ、考え込んだ。
八橋と中神は、残る一割のリスクが発生した場合の損失額を計算し始める。
A宝が囁いた。
「最後の一手、出そう」
丁寧はPPTの最終スライドを表示した。
「最も重要なのは、
市販の防犯カメラを使わないことです。
監視端末には、
自社スマートフォン子会社の製品を使います」
八橋は別のモニターで、販売実績を表示した。
若者向け・高齢者向けの廉価スマートフォンだが、
売上は伸び悩んでいる。
丁寧は続ける。
「各店舗に一台設置するだけで済み、コストは低い。
端末上で警備モデルを直接動かせるので、
ネット回線を引けない古い建物でも使用可能です。
緊急時には通話で即座に通報もできる。
安全性は大幅に向上します」
「さらにMOCES社と提携し、
危険検知時は即座に人による監視へ切り替える。
初期費用は上がりますが、
これは同時に強力なプロモーションになります。
安全性が証明されれば、
売れ行きの悪いスマートフォンを
“AIセキュリティ端末”としてMOCES社に販売できます」
中神の表情はまだ完全には晴れなかったが、
麗子はわずかに微笑み、手を軽く叩いた。
「この方針で進めましょう。
八橋はスケジュールとサーバー調達。
中神はMOCES社との交渉。
鈴木は店舗設計と、後田と一緒にMeCut Studioのサイト設計を」
そして丁寧を見た。
「成功の鍵は、モデルの精度です。
トレーニングは、あなたに任せます」
丁寧は力強くうなずいた。
心の中でA宝に言う。「任せたぞ」
「……パパ、恥知らず」




