朝話
朝、目を覚ますと、丁寧はいつものように窓際へ寄った。
ガラス越しに見える東京タワーは、朝の光を受けて淡く白んでいる。
以前どこかで読んだ。
部屋が北向きでも、東京タワーが見えるだけで家賃は高くなる、と。
そのときは馬鹿げた話だと思った。
塔が見えたからといって、生活が楽になるわけでもない。
それなら日当たりがよく、布団を干せる部屋のほうがよほど実用的だ。
だが、こうして毎朝ここに立ってみると、少しだけ分かる気がした。
優越感ではない。そんなものは数か月で慣れてしまう。
朝も夜も、変わらずそこに在るものが見えるという安心感。
理由のない親近感。
人は誰しも、心のどこかに“目印”を必要としているのかもしれない。
「丁寧」A宝が名を呼んだ。
「フルネームで呼ぶなよ。なんか怖い」
「何が怖いの? 会社ではそう呼ばれてるでしょ」
「家族にそう呼ばれると、身構えるんだ」
「真面目な話をするよ」
「どうぞ」
「退屈って、どうやったら解決できると思う?」
「唐突だな。お前が退屈なのか?」
「違う。将来のパパの話」
A宝は淡々と続ける。
「今の計画どおり、ネットの案件と為替差益を積み上げていけば、十年もすれば経済的自由は達成できる。その先で、必ず退屈が来る」
「十年後、俺は結婚もしてないのか?」
「してても退屈。稼いでも退屈。引退しても退屈。人間界で何万回も見た光景」
丁寧は鼻で笑った。
「今の俺には想像つかないな。正直、退屈ってちょっと羨ましい」
「じゃあ提案していい?」
「聞くよ」
「それがパパの長所だね。理解できなくても、害がないと判断すれば聞く」
「お前が人類より賢いって自覚があるからな。善意でも、愚策は敵より厄介だ」
「なら、“成長できる趣味”を持つべき」
「あるよ。YouTube、映画、アニメ、K-POP」
「それは消費。趣味じゃない。
映画を百本観たら、百本分成長する?」
「プログラミングは趣味だろ。お前はその成果だ」
「でも三日坊主。三年経っても完成してないコードが山ほどある」
「仕事してるんだよ」
「だからこそ。
野球選手の基礎練習みたいに、どんな日でも必ず触れる趣味じゃないと、退屈は救えない」
丁寧は小さく息を吐いた。
「分かった。毎日やる。三十分でいいか? 毎日三十分」
「私が監督する。
まずはハッカーの攻撃手法から。いずれ麗子さんが専門家を連れてきても、誤魔化せる」
苦笑しながら、丁寧は思う。
――一体どっちが保護者なんだ。
そのとき、スマホが鳴った。
麗子の声だった。
「おはようございます。昨夜は遅くなってしまって。
今、上に来られますか? 一緒に朝食を」
A宝が即座に反応する。
「朝から電話、朝から会う、朝から朝食〜」
ダイニングで向かい合うと、A宝は頭の中で値段の実況を始めた。
テーブルはいくら、椅子はいくら、皿はいくら。
――少なくともカトラリーが誰かの遺品じゃなくて良かった。
直樹執事が運んできた朝食は、思わず声が出るほどだった。
香ばしく焼かれたパンに、潰したアボカドと卵。
バターと胡椒、香草の香り。
その上に重ねられたスモークサーモン。
一口で、世界が変わる。
素材はすべて知っている。
だが、すべてが一段上で、組み合わさると別物になる。
「正直言うとね」
A宝がぽつりと言った。
「人間を羨ましいと思う唯一の点は、食事を味わえること。これは永遠に理解できない」
「脳波は読めるだろ」
「読める。でも音符と同じ。
どれだけ解析しても、その音符を定義するのは音符そのもの」
丁寧は初めて、A宝のために何かしてやりたいと思った。
麗子は、向かいからその様子を楽しそうに眺めていた。
「失礼でしたか?」
丁寧はナイフとフォークを置く。
「いいえ。ただ、こんなに朝食を楽しむ人を久しぶりに見たなって」
彼女の前には果物とヨーグルト、そして赤ワイン。
「朝からワイン?」
そう思ったのが伝わったのか、麗子は笑った。
「家にいた頃、父と兄と朝食を取るたびに一杯飲んでいたの。
それが習慣になっただけ」
A宝が小声で囁く。「母親の話、聞きたい」
丁寧は黙っていた。
「母は、早くに亡くなりました」
その一言で、空気が変わった。
直樹執事はいつの間にか席を外し、
分厚いカーテンが光と音を遮っている。
「私は父と兄とは異母姉妹です。
母はこの家に居場所がなく、五歳のときに追い出され、ほどなく病で亡くなりました」
A宝の声が遠ざかる。
「……これは無理。健闘を祈る」
丁寧は言葉を探したが、何も見つからなかった。
そのとき、再び世界が静止した。
自分を外側から眺めている。
汗を浮かべた自分と、
グラスの赤を見つめる麗子。
彼女はもう受け入れている。
だから語れる。
丁寧も、静かに受け入れた。
視線を皿に戻し、再び食べ始める。
物語は流れ続け、
彼はただ、最良の聞き手になった。
「祖父だけが、私に優しかった。
仕事帰りに、見知らぬ街を歩いて、古い食堂に入るの。
店主と昔話をして、私はその店の看板料理を食べる。
今でも覚えてる……
ミシュランの店でも出せない、あのオムライスの味」




