夜の会合(麗子)
最上階のペントハウスの前に立つと、丁寧は少し目まいを覚えた。高速エレベーターの後遺症かもしれない。
「なるほど、麗子さんもこのビルに住んでいるのか」
彼は独り言をつぶやいた。
「でも彼女は最上階。あなたは十三階に住むヒキガエル。」
「ヒキガエル!? 出てこい、この野郎! 一発殴らせろ!」
「無理だよ。やってみたけど出られなかった」
「試したって……どうやって?」
「細かいことは言わない。とにかく、私は人間の体に入れないし、洗脳もできない」
「じゃあ、どうしたらお前を痛がらせられるんだ?」丁寧は歯ぎしりした。
「今の人類の技術レベルだと、私を傷つける方法はネットで悪口を書くことくらい。心に刺さるやつをお願いね〜♪」A宝はオペラ歌手のような調子で言った。
丁寧はていねいにインターホンを押した。押せたのかどうか自信がない。もう一度押そうか迷っていると、扉が静かに開いた。
家政婦の制服を着た中年の女性が軽く会釈し、中へどうぞと手で示した。
「さすが最上階……玄関だけで俺の家より広いな」
丁寧はA宝を無視して中へ進んだ。
玄関から三、四メートルほどの場所に、ほぼ実物大の牛の彫像が置かれている。材質はどう見ても銅だ。
廊下の両側に並ぶ調度品、壁に掛けられた油絵――どれも少しくすんだ“古さ”をまとっている。
それは決して“みすぼらしい”古さではない。
長い年月、手をかけて守られてきたからこそ滲み出る、どうしようもなく薄れてしまった輝き。
品のある、貴族的な“古さ”だった。
「そうそう、金持ちの家はゴミまで香るし、時間さえ磨き上げられてるよ」A宝はすかさず口を挟む。
リビングらしき空間に出たとき、丁寧は一瞬ためらった。広すぎるのだ。まるで小さなホールのように、彫刻やシャンデリア、古めかしい家具が並び、中央にはピアノ。その脇には二十人は座れそうな円形ソファ。
白髪の老人が静かに立っていた。まるでこの部屋の一部のように。
仕立ての良いスーツに白い手袋――高級レストランのマネージャーのようだ。
老人は右手を軽く上げて挨拶し、丁寧をソファへと案内した。
「お飲み物は何になさいますか?」
「オレンジジュースを」
飛行機でもいつもそれを頼むのだ。
「飛行機より高いジュースだろうね。せめて生搾りであってほしいけど」A宝がつぶやく。
「今日、俺に何か恨みでもあるのか?」
「少しだけ。全能AIの父上ともあろう人が、まるで田舎者みたいに縮こまって。ここだって所詮、鉄筋と木と綿の集合体だろ」
「お前!素材目線で文学を読むAIかよ。だったらお前は電流信号だな」
「ハハ、それ面白い。今日の名言として記録しとくよ」
白髪の老人がオレンジジュースを持ってきた。ストローまで添えられている。
麗子がいつ現れるかは言わず、丁寧も聞けなかった。
「さっきの電話で、麗子さんはここが自分の家だって?」
「いや、“上の階に部屋がある”とだけ。話があるから来てくれってさ」
「麗子、A型、几帳面」
「へぇ」
「山羊座、正義感が強くて真面目」
「なるほど」
「ディズニー映画とミュージカルが好き」
「上品だな」
「あとね……」
「ストップ! ネットで何調べてるんだ! 俺はCEOと会うんであって、お見合いじゃない!」
「でもさ、呼ばれたのは君だけ、夜、家で、でしょ?」
「その口調どこで覚えた!」
「ただの雑談だよ。人間の考えることなんて分からないし。……おや、今の君の口角、いやらしいねぇ」
「うるさい、せめてこのソファの値段でも調べろ!」
「三億円」
丁寧は危うくジュースをこぼしそうになった。
その時、玄関の方で物音がした。麗子の声だ。
可愛くて、軽やかな足音が廊下を渡ってくる。
「軽やかなのは分かるけど、“可愛い”ってどうやって聞き取るのさ」A宝がぼやく。
麗子は明らかにジム帰りだった。首にタオル、体にぴったりしたヨガウェア。
その登場だけで、古びた家具たちが息を吹き返したように見える。
「幸い、白髪のおじいさんは老けたままだけどね」A宝のつぶやき。
丁寧は直視できず、頭を下げた。
「お待たせしました。知人と立ち話してたもので」
「いえ、全然」
「もう少し待ってもらえる? シャワーだけ浴びてくるから」
「いえ、全然」
「夜遅く、家に、二人きり、シャワー……だよね?」
「お前!」
叫びかけて、丁寧は飲み込んだ。前にA宝に怒らないと約束したのを思い出したのだ。
麗子はほどなく戻ってきた。ロゴもない上質な部屋着を着て、布の艶が柔らかく光る。
「急に呼び出してごめんなさいね。驚かせたでしょう」
「いえ」
「ここはオフィスみたいなものだから、気を楽にして」
――そうだ、きっとそうだ、と丁寧は思った。だが、なぜか胸の奥が少し沈んだ。
「まあ、半分は家でもあるけどね」麗子はため息をついた。「兄と仲が悪いから、ここにいることが多いの」
――なるほど、と丁寧は思い、また心臓が跳ねた。
「紹介するわ。直樹執事、子供の頃から私を見てくれているの」
白髪の老人が軽く頭を下げた。丁寧も慌てて立ち上がる。
「では、本題に入りましょう。あなたをこのマンションに住まわせたのは、兄に気付かれないため」
――そうだろう、と丁寧はまた胸を締めつけられた。
「用もないのに個人的に連絡することはないけど、今回は特別」
「分かりました。どうぞご指示を」
「ありがとう。あなたを信頼しているの。……本当は、兄と争う話なんてしたくなかったのだけど」
“副社長”ではなく“兄”と呼んだ。
その一言に宿る悲しみが、丁寧の胸を刺した。
「パパ、心臓病になるよ!」A宝が脳内で叫ぶ。「彼女、怪しいって! 調べた方がいい!」
麗子の声が続く。「最近、兄がダークウェブでハッカーを雇って、私の会社群を攻撃する準備をしているの」
「パパ、マジでヤバいよ。お前、前回の健診で不整脈って言われたじゃん! 彼女、データ見て狙ってるかも!」
麗子は真剣な顔で続けた。「いまの時代、個人情報保護は厳しい。一度サイトが破られたら、信用は地に落ちる。下手をすれば、全グループが崩壊しかねない」
「俺、まだ若いのに……孤児になっちゃうの!?」A宝の泣き声。
丁寧は麗子の言葉を聞きながら、頭の中でA宝の騒音を聞き続けていた。
心臓も頭も爆発しそうだった。
遮ることも、叫ぶこともできない。
その極限で、突然すべてが止まった。
世界が静止したのだ。
耳は音を拾い、目は像を映し、A宝の声もまだ響いている。
なのに“自分”は一歩引いていた。
麗子の声、A宝の焦り、自分の硬直した顔――
それらを俯瞰で眺めているもう一人の“自分”。
時間が止まったように、世界が舞台のセットに変わる。
ただ一つ、観察する意識だけが残っていた。




