ここじゃないどこか
「いい加減終わりにしようよ。どうして気付かないの?」
大山紗奈の頭の中で声がする。いや、これだって間違いなく紗奈の声なのだ。他の誰かなどでは決してない。
「何故まだ生きようとするの。私はもう、疲れたよ。これから先、頑張りたくないし、頑張れない」
仕事でまったく役に立てなかった。半ば追い出されるような形でやめた。趣味の絵が描けなくなった。映画やドラマにのめり込めなくなった。友達と喧嘩をして縁を切られた。両親と仲が悪い。お金がない。何でも値上げする。何をやってもうまくいかない。相談しても正論で叩きのめされた。誰も悪くない。
終わらせたい理由はいくらでもあった。特にこれと言った大きな要因はない。日々のちょっとしたことの積み重ねが、やがて彼女の心に黒い影を落としたのだ。
「終わらせにいこうよ。こんな部屋飛び出してさ。もう良いじゃない。これから先こうしていたって良いことひとつもないんだから。自由になろうよ」
そんなことないよ。と紗奈は言い聞かせてきた。いつもこうだった。こんな世界で生きるのはもう嫌だと駄々をこねるもう一人の自分が現れて、頭の中をめちゃくちゃに引っ掻き回す。それをどうにかして宥める日々。
甘えたこと言わないで。もっと大変な状況で生きている人たちだってたくさんいる。まだ可能性はある。希望もある。諦めなければなんとかなる。それに、この人生を中断してもすべてが終わりになるとは限らない。また新しい何かが始まってしまうかもしれない。だから、そんなこと言うのはやめて、と。
「もう、何もないよ。ずっと見てきたじゃん。このろくでもない人生の中でさ。ここよりもっとマシな場所へ行きたい。ここじゃないどこか。こんなことになってまで、私はもう、私でいたくない」
しかし、宥める言葉がひとつも見付からなくなった。飼っていたカナリアが逃げてしまったのがきっかけだった。そんな些細なこと。
「私はもう、私でいたくない」
声は静まり返った頭の中で響き続けた。紗奈はその言葉に従うことにした。
よく晴れた8月13日の午後だった。電車を乗り継ぎ、海の見える高台までやってきた。SNSで心霊スポットとして知られているこの場所は、切り立った崖があり、そこから真下の岩場目掛けて飛び降りる者が度々現れる場所だ。紗奈はここを選んだ。幽霊になって肝試しにきた観光客を驚かすのも良いかも知れない。そう思いながら。これといって特別な理由など何一つなかった。
目の前には一直線に伸びた水平線。吸い込まれそうな青空。背後には真っ黒雲。もうすぐ、雨が降りだしそうだ。紗奈はちょうどその真ん中に立ち尽くしていた。
崖の上から下を見下ろす。ゴツゴツとした岩場がこちらを見上げている。ここに頭から突っ込めば、一撃で済むだろうか。やっぱり少しの間意識はあるのだろうか。痛いのだろうか。色々な考えが頭に浮かんでは消えていく。
「何の役にも立たてなかったよね。新卒で入った会社も、その次のバイトも。色んなところを転々としてさ。溶け込めないんだよ。馴染めないんだよ。私達は」
そうかもね。
「皆から何とも思われてないか、嫌われてる。その証拠に心配する人も悲しむ人もいない」
そうだね。
「でも、それは誰かのせいでも、環境のせいでもない。誰も悪くなくて、全部私が選び取ったもの。私の自業自得でしかないんだよね。あの時だって――」
そう。
「だから、始末をつけなきゃならないんだ。こんな状態でいつまでもふよふよしてられないから。ちゃんと終われるかわからないけど、とにかくやってみようよ。他に方法なんてないんだから。こうするしかないんだよ」
わかった。
足を一歩前に踏み出す。片方の足が宙に浮く。右手は柵に掴まったままだ。もう少し。もう少し……
やっぱりやめようか。
「ねえ!」
背後で声がした。
「飛んでも無駄だと思うよ。あなた、もう生きてないから」
「え……?」
見ると、真っ黒なセーラー服に身を包んだ中学生くらいの女の子が立っていた。
「だから、あなたもう生きてないの。気付かない?」
女の子は真っ直ぐな視線を紗奈に向けた。
「何を言ってるの」
言われると不思議と怖くなった。
「信じてないでしょ。じゃあ落ちてみればいいじゃん」
女の子はそう言って紗奈の方に駆け寄ると、彼女の右手を柵から引き離した。紗奈の身体は岩場に吸い込まれるように落ちていったが、伝わってきた衝撃はしりもちをついた時くらいの軽いものだった。まるで紙一枚になったかのようにふわふわと宙を舞い、ドサッと尻から岩場に着地したのだ。
「ね。これ以上無理でしょ」
いつの間に移動してきたのか、気が付くとまた背後に女の子が立っていた。
「あなたはここへ来る前、自分の部屋で倒れてる。吐き気と頭痛がして、意識が朦朧としてきて、眠いみたいで、最後の力を振り絞ってペットのカナリアを逃がしたの。独り暮らしだし、周りとの繋がりもないから発見されるまでに時間がかかると思うな。今は夏だから色々と大変だね。クーラーも掛かってなかったし」
「私は、これからどこへ行くの」
「今まで辛かったでしょ。私があの世へ送ってあげる。大丈夫。怖いところではないから。目を閉じてみて」
紗奈は目を閉じた。すると足元の地面が割れ、瞼の裏よりも真っ黒な闇がぽっかりと口を開けた。びっくりして思わず目を開けようとしたが、両の瞼はしっかりとくっついたまま離れない。
「私はもう、私でいたくない」
頭の中でまた声が聞こえた。
暗闇の中にもうひとつ暗闇がある。そのことに理解が追いつかない。
「待って!これは……これは何なの」
「光が見えるでしょ。それがあの世の入り口なのそこを目指して歩いて」
「光なんてない。どこにもない!待って、やめて!」
「ほら、もうすぐ身体が完全に消えるよ」
足元の真っ黒な穴から無数の腕が伸びてきて、紗奈の足を掴む。
「何かが……何かがおかしいの。助けて!」
しかし、女の子に紗奈の声は聞こえていないようだった。
「行ってらっしゃいね」
「嫌!こんなところ行きたくない!」
無数の腕が紗奈の全身に絡み付き、真っ黒な穴の中へと引きずりこむ。もう彼女の姿は腕に覆われて殆ど見えない。
ちょうだい。その命、ちょうだい。
意識が遠退いていく。自分が自分でなくなる感覚に襲われる。自分がバラバラになってゆく。
「私はもう、私でいたくない」
紗奈はその言葉の意味を初めて理解した。だが、もう遅かった。
彼女の自我は無数の腕によって引きちぎられ、跡形もなくなってしまった。そして身体はゆっくりと闇の中へ沈み、やがて何も見えなくなった。
その後、紗奈がどこへ行ったのか。どうなってしまったのかは、誰も知らない。