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母校再訪

 西暦二〇██年十月十二日、僕は母校の高校を訪れようと思った。一年と七ヶ月前に卒業した高校だった。三年間通い続けた高校だったから、それなりの思い入れがあった。

 どうして高校にまた行こうと思ったのかは定かではない。ただ、偶然思い立った時がたまたま予定の空いていた日だった、というだけで。たぶん、その日が忙しかったなら、今年のうちに学校を訪れることは決してなかっただろう。

 さて、行くと決めたからには支度をしなければならなかった。流石に制服を着て行くわけにはいかなかった。それは生徒や教師に混乱を招く(おそれ)があった。制服は公的な服装だから、制服ではないにしろ公的な服を着るべきだと思った。だからその日はスーツを着ることにした。入学式、成人式に次いで、三回目のスーツを着る機会となった。まだ慣れていないスーツが体に張り付くようで、息苦しかった。もしかしたら周りの人は僕のことを変な人だと思うかもしれないとも考えたが、不思議な力で突き動かされて、だらしない私服で行く気には到底なれなかった。

 

 僕の通っていた高校は名を苑仙(えんせん)高校といった。██県の██市の郊外にある学校だった。巷では自称進学校だの偏差値五十五だのと言われていたらしいが、僕たちにとっては世間の評判は関係ないものだった。少なくとも僕は、学園生活をそれなりに楽しんだと思う。

 苑仙に行くにはかなり面倒な手順を辿らなければならなかった。

 まず、家から鉄道駅まで徒歩で十分。そこから東行きの電車に乗って七駅。電車で二十一分を費やす。降りる駅は██市の中心駅から一つ西に外れていた。そして、バスで揺られること二十分から二十五分。学校のホームページを見てみると「十五分で最寄りのバス停に到着」と書いてあったが、実際に十五分で着いたことがあるのは、三年間バスを使い続けても十回かそこらに過ぎなかった。バス停に着くとさらにそこから五分以上歩かなければならない。ここまでしてようやく到着するのが日課だった。

 面倒くさいことこの上なく、学生時代は学校の近くに家を構える同級生を羨望の対象したものだった。八時三十分の始業に間に合うためには、遅くとも七時には起床しなければならず、これは明らかに僕の生活の質を押し下げる要因となっていた。今となっては、その煩わしい朝でさえ、懐かしく感じられるが。


 十月十二日の気候は、午前六時三十分の時点で曇り、気温摂氏二十度、湿度七十四パーセントだった。正直言って、快適とは思えなかった。高校生の時もこんな天気に何十回と出会った。あの時は不快にしか感じなかった。僕は過去の自分と共感する場所をここに発見したのだった。

 一応とはいえスーツを着用した自分は、何か肩にかけるものも必要だと感じた。高校生の時なら、学生鞄でその役割は充分だったが、この格好で学生鞄など、奇妙が過ぎると思った。何か持っていくものが必要だった。部屋を見渡した時に目に入った革製の鞄を見て、これでいいか、と決めた。中身は問題にはならなかった。とりあえず体裁が整えば良かったのだ。財布と、身分証代わりの免許証と、それから三千円ほどがチャージされたICカードとを雑に突っ込んで、僕は家を出た。ドアをいざ開ける直前、雨が降ることを考えて、五日前にコンビニで買ったビニール傘を傘立てから引き抜いた。


 地階に着いてから見ても、空は当たり前に曇っていた。「曇り」の定義は空の九割以上を雲が覆っていることである、と、中学校(小学校だったかもしれない)で習ったことを唐突に思い出しながら、上を見上げた。

 灰色に染まった乱層雲が街の端から端までを覆っていた。辛うじて南の果てのほうに青い空が顔を覗かせていた。歩き始めると、嫌な湿り気を含んだ弱い風が、合成高分子化合物で構成された服の表面を撫でた。早朝ということもあって街に活気はあまりなく、散歩に出る老人くらいしか見かけられなかった。

 高校を卒業してから僕は実家から電車で十五分のところにあるアパートに移り住んで一人暮らしを始めていた。両親は経済面と情緒面の双方を理由として僕を制止したが、それを振り切って独りで生きてみることにした。だから、家を出るのを高校時代よりも二十分ほど早くする必要があった。

 今の最寄り駅までは徒歩で十二分あれば間に合う距離にある。JRが設置したその鉄道駅は、大して豪華なものには思われなかった。確かに駅には小さいながらコンビニがあって、プラットフォームも二つに分かれているのだが、だからといって別に盛況を呈しているわけではないし、人の乗り降りがとても多いというわけではない。


 駅に入ると、まず自動改札が僕のことを出迎えた。歓迎はしなかった。生憎にも大学は高校と反対方向、つまり実家の西方向に建っているから、定期券は有効にならないのだ。自腹を切って交通費を余分に支払わなければならなかった。この小旅行は金銭と時間の無駄遣いだという考えが一瞬頭をよぎったが、〇・八秒後にはそれは思考回路の迷宮の中で消去されていた。

 少し早く来てしまった。プラットフォームまで上がった時、僕はそう思った。駅名標を横目で見過ごしてからスマートフォンを点けて見ると、時刻は六時四十七分を示していた。次の電車は六分後だと、天井から頑丈そうな、しかし所々が赤褐色に錆びた、鋼鉄の柱で吊り下げられた電子パネルが報せていた。僕の周りに人は少ししかいなかった。多めに見積もって二十人ほどだった。

 僕は静寂に耐えられなくなって、傘の先端でアスファルト舗装された地面を二、三度叩いた。プラスチックが鳴る硬質の音が周りに響いて、そして消えた。ついにできることがなくなったので仕方なくスマートフォンで暇を潰そうかと思った時、電車がやってきた。電車は正面の電燈を煌々と輝かせながら時速四十キロメートルくらいで目の前に滑り込んできた。K=1/2mv²、という物理の授業で習った公式で演算したらどれくらいのエネルギーになるかなと考えていると、やがて車輛は動きを止め、ドアが開いた。

 僕は電車に乗り込み、端の席に陣取った。席は二、三割ほどしか埋まっていなかった。まもなくドアは閉まり、列車は東へ進み始めた。十二駅の長旅が始まった。


 この駅から高校時代の「始発駅」までは、大した思い入れはなかった。大学に行くには逆方向に乗っていくし、遊びに行くにも東方向に行くことがほとんどで、西にわざわざ行く機会は極めて限られていたからだった。もちろん大学に入ってから東に行くのに通ることはあったが、それは高校時代とは何の関連もなかった。面白みのない、と言ってはそこの住民に失礼になるだろうが、ともかく僕にとっては退屈な街並みだった。

 空は相変わらず曇っていて、いつ雨が降り始めてもおかしくないような雰囲気を漂わせていた。「始発駅」にまではざっと十三分を要した。人は段々と増えていき、「始発駅」に着く頃には座席の七割ほどが人で埋まる状態になっていた。

 「始発駅」の本当の名は███駅である。プラットフォームが一つしかない、少し寂れた駅である。ドアが開いて、母校の生徒が三人、乗ってきた。男子が二人、女子が一人。三人とも、互いに面識はないようだった。高校生だったときにも、こういう非常に薄い関係の同級生がいた。顔を覚えているだけの間柄。

 

 電車が発車した。僕は進行方向から見て左側のほうに席を替えた。いつも左側に座っていたからだ。だがこれは失敗でもあった。向かいの窓にブラインドが下されていて、外の景色を窺えなかったのだ。そういえば高校生の時はいつもスマートフォンをいじっていたな、と思いつき、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 電源を点けて、僕は経済関係のニュースを見た。外向きはとても若い会社員か、インターンや面接に赴く就活生といったところだろう、僕は何となく知的な風を装いたくなった。ニュースの内容は大企業の株が下がったという内容だった。株、というより経済全般にそれほど興味がなかったので、企業の名前も、株の下がり度合いも覚えていない。

 次に見たのは円安についてのニュースだったはずだ。一ドルが何円を突破したと報せるニュースだった。円安は輸出に有利だったっけ、と思いながら流し読みをし、ニュースを変えた。ここに至って、興味のないものをわざわざ見る必要はあるのかという疑念に駆られた。僕は見るものをニュースからゲームの攻略Wikiに変更することにした。███████という、自由度の高いゲームだ。

 Wikiを閲覧するのは楽しいことだった。今はあまりやっていないゲームのWikiだったが、それがかえってノスタルジーを呼び起こすようで、かすかに感傷的な気分が興った。僕は生霊に取り憑かれたかのようにページからページへ見漁っていった。

 時間はあっという間に過ぎ、十二ページくらい見たところで目的の駅に着いた。危うく、乗り過ごすところだった。これだからスマートフォンに没頭するのはいけない。


 目的の駅──██駅──は、先ほども述べたが、██市の中心駅の一つ西にある駅だ。プラットフォームが合計で三つあって、JRのほかにもう一つ████という鉄道路線が走っている。駅の中には五軒ほどの店舗があり、賑わいはそこそこといったところだ。電車を降り、僕は二十人ほどの乗客とともに階段を降りた。白コンクリートを基調とした、薄汚れた階段。

 改札をくぐり抜け、僕はバス停の方向へ歩き始めた。体がまだ覚えていた。中学生の頃からあまり目は良くなかったのだが、今でも天井に吊られている看板の文字くらいは読めた。「→バス停」と書かれた案内を目に入れて理解し、僕は左へ曲がった。床から天井までを貫く、太いコンクリートの丸柱が何本も屹立(きつりつ)していた。

 

 著しい黒さを含み始めた空を一瞥し、僕は早歩きでバス停へ向かった。レンガ敷きの地面に生えた雑草を意識する間もなく歩いた。これは高校の時からの癖だった。早歩きをしなければバスに遅れかねなかったからだったが、考えれば今日はかなりの余裕を持って来たのだから慌てる必要はなかった。それに気づいた僕はペースを落とした。バス停の前には既に二十人は下らないほどの生徒たち並んでいた。

 僕は生徒を主にして構成される縦隊に加わった。バスの到着まではあと八分あった。ここから逆算して、バスが来るまでにはあと3分かそこらだろうと予想を立てた。学生が多い都合上、こうしなければ発車が遅れてしまう(ここは始発のバス停だった)。スマートフォンを出すまでもない。僕はバスが来るまでの間、ロータリーの方を眺め続けた。


 三分後、予想通りにバスはやってきた。急に並ぶ生徒の数が増え始め、四十人くらいになった。サスペンションが下ろされるとともに、石油と煙が混じったような香りの、やや不快な温かい気体がバスの側面から吹き出した。同時に後ろの扉が開いた。

「当バスは█████センター前経由、████公園前行きです」と、中年男性らしき運転手が告げた。その間にも生徒たちはぞろぞろとバスに乗っていった。僕もそれに続いた。

 僕が入ることには座席は七割がた埋まっていた。僕は運良く、左側にある後ろから二番目のシートを確保することができた。比較的スペースの広い座席で、高校時代(そして今も)、一番好きな席だった。傘を脚の間に挟んで、僕は深く座り込んだ。鞄は膝の上に置いた。

 三十秒もしないうちに、隣に男子生徒が乗ってきた。髪がやや長く、妙に中性的で、儚げな雰囲気をまとっていた。もしかすると女子かとも思ったが、ズボンを履いていたから男子と判断した。僕のいた頃のままなら、男子はズボン、女子はスカートと校則で決まっているはずだ。何にせよ、僕は隣にいかつい生徒が来なかったことに安堵した。

 バスが発車するまでにも生徒は十人以上乗ってきた。アイドリング状態で脈動するエンジンの振動が尻から身体中に伝わり、脚に置いた手が細かく震えた。あるいはこの震えは、僕が自ら出したものなのかもしれなかったが。

 バスはまもなく発車した。その直前に、二人の男子生徒が息を切らしながら鬼の形相で駆け込んできた。運転手が一言、「駆け込まないでください」と叱責を加えた。圧縮空気が出す騒音とともに扉が閉まり、バスは動き始めた。バスの中は、前の方が人で見えなくなるほどの乗客で埋め尽くされていた。

 僕は、運悪く席に座ることができなかった世界線の僕を思い浮かべた。それは、辛いことである。まともに身動きも取れず、吊り革だけを頼りにして、二十分間バスの揺れに耐え続けるのは、辛いことである。


 学校の最寄りの停留所までには九つの停留所がある。これらの全てにバスは各駅停車するから、学校までの所要時間はかなり長くなる。十五分では着かない所以だ。

 僕は車窓からの景色を見ながらバスの壁によりかかろうとしたが、やめた。振動が直に顔に伝わってきてかなり不快だったからだ。かなり下に見える道路をにらみ、僕は座り直した。隣の男子が少し遠慮して体を通路側に寄せてくれた。

 朝ということもあって、喋っている生徒は少なかった。多くが下を向いてスマートフォンをいじるか、あるいは会話していた。その狭間に、僕も含めた少数の生徒でない人間が、窮屈そうに佇んでいた。昔はこういった人間を少しだが邪魔だと思ったことがあったが、生徒に疎まれる当事者となった今、その思いがいかに自分勝手なものだったかを痛感した。バスは学校専用のものではなく、共用のものなのだと、今更思い知った。

 

 五分ほどバスは直進し、その後九十度右に旋回した。その後一分ほど進んで、停車した。ここが二番目のバス停、██公園前だ。押しボタンの音が鳴った。僕の前にいる老人が立ち上がり、ひしめく生徒の間を縫うようにしてバスを脱出していった。

 僕はスマートフォンを取り出した。もう見るものは何でもよくなった。スマートフォンは相対的時間を加速させた。時折窓の外を見ながら、電車で見たWikiを閲覧したり、SNSを見回ったりした。

 バスは時々停車し、数人の人々──ほとんどは生徒だが──を乗せてまた発車した。降りる人はほぼいなかったから、乗客は増えるばかりだった。


 ……十五分ほどが経っただろうか。


「次は、███、███です」

 女声のアナウンスが僕を現実世界に引き戻した。学校最寄りの停留所の名前だった。外ではいつの間にか、雨が降ってきていた。窓に数え切れないほどの水滴が垂れていた。「雨かよ……」という嘆きの声が前方から聞こえてきた。

 既に生徒が押していたから、僕が押しボタンを押す必要はなかった。三年間通いに見続けた懐かしい住宅街を眺めながら、後々のことも考えずに今を生きる高校生を羨ましく思った。

 僕が次のページを見る間もないうちに、対向車線のバス停が目に入った。僕たちにとっては、もうすぐ着く印のようなものだった。僕はスマートフォンをしまった。生徒たちはまだいじり続けていた。

 バスは徐々に速度を緩めていった。やがてブレーキの甲高い音が鳴り、ブザーとともに扉が開いた。

「███、███です」

 

 到着した。傘を取り戻し、鞄を持ち、僕は降りる準備を整えた。前方の縦列が崩れていく。高校生だった時から、この時間はもどかしいものだった。

 一分ほど経って、ようやく隣の男子が席を発った。これに便乗して僕も立ち上がった。通路に至り、一歩一歩、ゆっくりとしかし着実に歩いていった。


「ッ……したー……」

「ッ……したー……」

 運転手は、生徒が降りて行くたびに形式ばかりの感謝の弁を述べた。末尾以外はほとんど聞き取れないその声が、あくまで本心からの言葉ではないことを象徴しているようだった。毎日何百人、もしかしたら何千人という乗客に毎日感謝しなければならない彼の心情を想うと、悪く思う気にはならなかった。

 周りの生徒は僕を部外者として扱っているようにも思えた。僕の時代でも、ここで降りる人間は決まっていた。だから、僕の存在は奇妙なもののはずだった。

 僕は運転席の左に立つ運賃箱の上に置かれたICカードリーダーにカードをかざした。ピッという軽快な音が鳴り、支払いは終わった。運転手は同じ声と調子で、僕に感謝を述べた。僕は会釈し、バスを降りた。


 僕は傘を開き、生徒らと一緒に歩いていった。バス停から学校までは徒歩で五分強。周囲からの目線が刺さっているように感じた。時々いた、ここで降りる生徒でない人は、僕のような再訪者だったのかもしれないと思った。

 しばらく歩き続けると、いよいよ校舎が姿を現した。白くて綺麗だった。


 だがここに至り、僕は学校に入ることはできないと思った。関係者でもない人が入るのは不法侵入であるとかそういう話ではない。僕はもはや高校時代の体験をすることはできないと、気づいてしまったのだ。

 やっと、僕は分かった。僕は、高校生をもういちど体験するために、ここまでやってきたのだと。しかし、僕はもう大学に入った身分である。いくら正式な服装に身を包もうとも、高校生ではない。紛い物に過ぎない。

 それは後ろ向きな意味で発せられる思いではない。非常に遠回しな、未来へ向かっての、希望の投射なのだ。ここまで来て、僕はそれを理解することができた。

 

 さあ、今を生きよう。新たに決めた僕は、校門前を通り過ぎて、帰途に着いた。

 僕の母校再訪は、意外なものではあったが、しっかり実を結ぶことができたのだった。

最後までお読みくださってありがとうございました。

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