海
冬の海が好きだった。
繰り返される波の音と吹き抜ける潮風の鳴る静寂の中、海鳥たちの甲高い声がこだまする。
寂しさに包まれながらも、何か力強さを感じさせる冬の海は、僕の心が唯一安らぐ場所だ。
いつものようにただ一人、波の音と海鳥たちの声を聞こうと波打ち際に立つ。
しかしその日は、珍しいことに先客が居た。地元の漁師だろうか、ごわごわとした毛皮をまとい、波打ち際で何かを採っている様だった。
一人で居る冬の海が好きだといいながら、心の中の一部では寂しさを感じていたのかもしれない。
人を見るとつい声をかけたくなる。
僕は近づきながら、どう話しかけようかと言葉を探していた。
しかし、近づくにつれ、なにか不自然さを感じる。毛皮のベストをまとっている様に見えたはずだが、どうも全身が毛皮に覆われているようだ。
よく見ると、それは人ではなく、見たこともない生き物だった。
身体は人より少し小さい。アリクイにも見えるが、体型が熊のようでもある。
その生き物はは両手の大きな爪で蟹を掴んでいた。そして細長い口から舌の様な物を蟹の甲羅の隙間に差し込んでいた。
舌がストローの様な感じになっているんだろか、ズルズルと啜っているようだ。
その生き物に近づこうと歩いていた足が止まる。僕はそのまま、一歩二歩と後ずさりした。
興味本位で近づいてみようとしていた自分の愚かさに気づいた。動物園で檻に閉じ込められた猛獣に近づくのとは訳がちがう。
その得たいの知れない生き物と自分の間には、檻も柵もないのだ。
僕は身の危険を感じ、好奇心を押し殺してその場を走り去ろうとした。
しかし、その生き物は蟹を投げ捨てるとこちらに向かって走り出した。
僕は全力で走る。しかし、砂が足にからんで上手く走れない。振り向く余裕すら無かった。
ザック、ザック、ザック。
追いかけてくるその生き物が砂を蹴る音が近づいてくるのが分かる。
僕は振り向くことも出来ないまま、すぐ近くまでその生き物が来ていることを肌で感じた。
恐怖で全身が凍り付きそうだった。
刹那。背中に激痛が走る。奴の爪が僕の背中に一撃を入れたようだ。
過去に経験の無いような重くて鋭い痛み。僕の背中は引き裂かれたのかも知れない。
その衝撃に僕がよろけ、走る速度が落ちた途端、奴は大きな爪のついた太い腕で体に抱きつくように僕の体を捕まえた。
なんとゆう腕力だろう。体全体が締め付けられる。抗う気も起こらない程の力の差を感じる。
抱きかかえられた僕は身動き出来が取れない。そして、爪が肩に食い込み骨が軋む。
このままでは間違いなく絞め殺されてしまう。
そう思ったときに奴は、細長い顔の先にある小さな口で僕の首もをと探り始めた。
きつい口臭を放ちながら、首元から耳元へと生暖かい口先が触れる。
そして、僕の耳の穴を探り当てたのだろう。ちょろちょろと探るようにしながら奴の舌が耳の奥へと入って来た。
僕は想像も出来ないような痛みに襲われ気を失いそうになる。いっそ、気を失ってしまった方が楽だったかも知れない。
細長い舌は耳の穴に入ると鼓膜をもぶち破り、眼のの裏を通り、脳へ達したのが感じられる。僕の脳味噌を啜ろうとしているのだ。生き地獄とは正にこのことだ。
ずずっ。頭の中の何かを啜り取られる音が頭全体に響く。
逃げなければ、殺される。
抵抗するにも肩に深くめり込んだ爪がそれを許さない。少し動いただけで肩に激痛が・・・
あれ?どう言うことだ、先ほどまでの肩の激痛がなくなっている。引き裂かれた背中の痛みも無くなっているぞ。
そうか、痛いと感じている脳味噌の一部分を食べられたからか・・・
そういえば、どこも痛くない、やはり痛みを感じている部分が食べられてしまったようだ。
しかしこのままでは確実に殺される、なんとかして逃げなければ・・・
逃げる?何から?なんで?わからなくなってきた。
どうも、思考回路の部分も啜り取られてしまった様だ。
このままでは、脳味噌が空っぽになってしまう。
その時だった。奴の舌が、どこかの神経を刺激したのだろうか、僕の体が突然激しく痙攣を起こした。
朦朧とする意識の中、痙攣した僕の肘が奴の溝落あたりに当たった様な気がした。
ごへっ、ごへっ、ごへっ。
怪力の割に打たれ弱かったのか、奴は奇妙な声を出しながらむせるように咳き込んだ。
ぐえっ、ぐえっ、ぐえー。
奴は咳き込んだと思ったら、突然嘔吐し始めた。食べたものを一気に吐き出したのだ。
しかも、管の様な舌を通して僕の頭蓋骨の中にだ。汚いったりゃありゃしない。
いや、しかし、今がチャンスだ。奴がひるんだ内に逃げるんだ!
あれ?思考回路が戻ってる。なぜだ?
あ、そうか、奴がさっき啜り取った僕の脳味噌を頭の中に吐き出したからだ。
刹那。肩と背中に激痛が走る。痛みを感じる部分も吐き出されて、元に戻ったのか。ついには奴は僕の脳味噌を全部吐き出した様だ。
奴は僕の体を離すと、一歩二歩と後ずさりした。しかも、まだ咳き込んでいる。
危うく殺される所だった。この化け物め!だだではおくものか!
八つ裂きにしてやる!僕の自慢の両手の大きなハサミで・・・・・
えぇっ?ハサミ?何の事だ?僕は自分の両手を見た。
人間の手にはハサミなんかついているはずがないじゃないか!
あーでも、僕は生まれたときからこの自慢の両手の大きなハサミで数多の敵と渡り合って来て・・・・
あー。頭が混乱する。
あ。分かった。この野郎!さっき啜っていた、蟹味噌まで吐き出しやがったな!