推し思ひて、春うらら
「翔、一人で大丈夫? 怖くない? 寂しくない? 歯磨きしっかりしてから寝るのよ」
「もう大学生だって……。
いつまでも子供扱いしないでよ母さん」
僕こと栗原翔は今、キャリーバッグ片手に親との別れを惜しんでいた。
というのは建前で親からの脱衛生化に胸膨らませていた。
「翔〜。内村ちゃんの写真集忘れてるぞ〜」
そう言ってリビングの扉から腕だけを伸ばし、写真集をひらひらとさせているのは僕の父さんだ。
父さんはガチムチな外見とは裏腹に意外と涙もろい所がある。
「また卒業式の時みたいに泣いちゃうから、見送れないのよ。
分かってあげてね」
そう言いながら母さんは父さんから受け取った写真集を僕に渡した。
「分かってるよ。じゃ、母さんも父さんも元気でね。
行ってきます」
玄関を出ると春の暖かい風が香り、僕を包む。
心配そうに僕を見つめる母さんに「たまには帰ってくるから」と言い残して駅に向かった。
ーーガタンゴトン
僕は電車の中で内村礼の写真集をペラペラとめくった。
そうとも僕は、声優の内村礼の大大大ファンなのだ!
(早く復活してくれないかな内村さん……)
というのも、内村さんは先週から声優業を休んでいる。
事務所側も理由を公表しておらず、ファンの中では色々な説が囁かれていた。
が、僕はその説のどれも僕は信じていない。
そうこうしているうちに引越し先の最寄り駅へと到着した。
改札を抜け、坂を登ると商店街が見えてきた。
道路を挟むようにして沢山の店が立ち並ぶ中、香ばしい匂いが僕の鼻を突く。
「コロッケか。二つぐらい買っていこうかな」
肉屋でコロッケを買うと一つおまけをつけてくれた。太っ腹なおばちゃんだ。
ついでにお隣さんの菓子折りでも買って行こうか。
コロッケとキャリーバッグと菓子折りという何とも奇妙な持ち合わせで商店街を抜けると、桜並木が出迎えてくれた。
飽きない景色の連続に胸が更にたかぶる。
桜吹雪が視界を遮る中、地図を見ながら歩いていると、一つのアパートが現れた。
どうやら引越し先に到着したようだ。
正面から2階に3つ、1階に3つの扉があり、入居人数はまだ少ないと聞いていた。
(僕の部屋は202っと……)
僕は弾む足で階段を上がり202号室へと向かった。
下見の時にも見たが改めて室内の広さに感心する。
立地良し、広さ良し、日当たり良し。
とりあえず当たり物件を引いた僕は、お隣さんの挨拶に行くことにした。その後に管理人さんの101号室に向かおうと思っている。
「ごめんくださーい」
さぁ、来い超絶の美少女!この一瞬で僕の大学ライフが変わる!
天国か、はたまた地獄か……。
「はーい。ちょっと待って下さいね〜」
出てきたのは、汗すらも武器に変えてしまうような爽やか系男子だった。
まぁ、ハズレではない。むしろちょっと当たりかもしれない。
「隣に引っ越してきました栗原です。これよかったらーー」
「ーー姉さん、お客人〜」
僕が挨拶し終わる前に、爽やか男子はリビングに向かって声を張った。
「ちょっと間、保ってて〜!すぐ行くから」
リビングからの無茶苦茶な返事に戸惑う爽やか男子。
二人の間で長い沈黙が続いた。
何か話さなければ。そう思った僕は特殊スキル『分析』を使うことにした。
昔から人をよく観察してきた僕の得意技である。
『家でも整った服装だ。これからどこかに出かけるのか……?いや、帰ってきた後って線もある。
綺麗に揃えられた靴。帰ってきた後なら多少なりともずれているはず。
ということはこれから出かけるのか!!!』
「えっと……。これからどちらに行かれるんですか?」
「どこもいきませんけど」
一言返事だ。会話を続ける気がないのか?
なら次の手に。そう思った時リビングから激しい音と共に女の人が走ってきた。
「ごめんごめん雄馬……。あっ、初めまして201号室の内村礼です」
僕はその顔を見て持っていた菓子折りをその場に落とした。
見間違えるわけがない。
幾度となく拝んできた茶色のロングヘアー。モデルでも通用する整った顔立ち。そして何より、いくつものキャラを演じ分けられる声。
そう隣人さんは僕の『推し』だったのだ。
「あ、えーと……。隣に引っ越してきた栗原翔です……。
これ良かったらどうぞ……って一回落としてしまったので買い直してきま……」
「えっと……何で泣いてるの?」
そう言われるまで気づかなかった。
どうやら僕は無意識のうちに感極まって泣いてしまっていたらしい。
「これ、庵野屋のお菓子じゃん! あの商店街のところのでしょ? 」
気をきかしてか、あからさまに話題を逸らす推し兼、内村さん。
「は、はい……」
「貰っとくよ!!! ありがとねっ」
「それよりあがって! 丁度晩ごはんできたとこだし」
(いきなりっ!!!!!!!)
推しの家にあがるとは、またかなり急な展開だ。
まだ隣人さんが推しだという実感が湧かない。夢を見ているような気分だった。
「お、お、お、お邪魔します」
断るのも悪い気がしたので心臓がバックバクの中、部屋に入ることにした。
2LDKの部屋は白の家具で統一され、少し狭く感じられたが僕にとっては幸せだった。
なぜなら、必然的に内村さんとの距離が近くなるからだ。
「あぁ、座ってていいよ〜! これから準備するから」
言われるがまま、丸くて可愛いテーブルの前に鎮座する。
「あ、内村さん……これ良かったら使ってください……」
そう言って僕は商店街で買ったコロッケを手渡した。なんて事はせず、そっとテーブルに置いた。
手渡しなんて緊張して出来るわけない。情けないかもしれないがこれが今の僕にできる全力だった。
「ま、まさか。これはあの商店街のコロッケではないかっ!」
ふと内村さんが出したセリフ口調に鼻血が出そうだった。
それに、テーブルのコロッケを取ろうと内村さんが前屈みになった瞬間、胸の谷間がチラリと見えそうになった。
カンカーン! 栗原、一発KO!!!
脳内で流れたその言葉と共に鼻の中でツーと何かが流れる。
鼻血だった。僕は光にも負けない速度でティッシュを鼻に入れる。
「何、鼻血〜? 私の魅力に感づいちゃった?」
内村さん、もう僕のHPは0です。死体撃ちだけは勘弁してください……。
だが、この言葉の返し方で僕の『余裕のある男』イメージを定着させれるかもしれない。
「フフ……。内村さんの魅力には既に気づいていましたよ……」
(なに言ってんだ僕は……)
言った瞬間にに訪れた賢者タイムと後悔に心が押し潰れそうになる僕。
しかし、当の本人は顔を赤らめながら「そ、そうかなぁ」と照れている。
効果抜群だったようだ。
あれ、意外と天然……?
てか、推しとこんな仲良くなっちゃっていいの?
そんなのこんな考えているとキッチンから香ばしい匂いが漂ってくる。
コロッケだ。あのお惣菜感たっぷりだった物が作りたての様だった。
声優ラジヲで内村さんが料理上手なのは知っていたが予想以上の出来だった。
「ささっ、食べましょう〜! そだ、お酒お酒〜」
料理をテーブルに運んだ後、そう呟きながらビールを持ってくる。
「姉さん! 客人が来てるんだからビールはダメだって!」
「ちぇ〜雄馬のケチ〜!」
そう言いながら内村さんが持ってきたビールを冷蔵庫に戻す。
弟よ、今日だけは勘弁してやってほしい。
なぜなら僕が酔った内村さんを見てみたいからだ!!!
もちろんそんな事は言えず、ただ黙って冷蔵庫に戻されるビールを見つめた。
「じゃいただきま〜す!」
共に僕達は食べ始めた。
側から見たらものすごい奇妙な関係だ。初めて会った隣人さんと家族ぐるみの夕飯。
それもただのお隣さんじゃなくて『推し』なのだから余計に奇妙だ。
「翔くんはさ〜、モグモグ、今年で18って事は、モグモグ、一人暮らしするためにーー」
「ーー姉さん、食べながら喋らない!」
弟が姉に注意する。これじゃどっちが上なのやら……。
「そ、そうですね……。今年から大学生なんで一人暮らしでもしようかなって感じで」
「なら雄馬と一緒だね〜。雄馬も今年から大学だから家が見つかるまでここに泊めてるんだ〜」
「翔……がさ、ここに引っ越してきたって事はあの駅の裏の大学に行くって事だよね……?」
弟が勝手に僕を下の名前で呼んで勝手に照れてやがる。
照れるなら言わなきゃ良いのに、と思いつつ内心少し嬉しかった。
「そうだね。ゆ、雄馬……と多分同じ大学」
(めちゃくちゃ照れる……)
「何、2人で名前呼び合って照れてんの……? 引くわ〜」
そう言いながら内村さんは冷めた目で僕達を交互に見る。
モジモジしていた僕たちはその目線で姿勢を正した。
誰だよ、推しに冷めた目で見られると興奮するとか言ったやつ……。
そんなこと思いながらコロッケを口にすると美味のあまり絶句する。
外はカリカリ、中はジューシー。まさにこの一言に尽きる。
肉屋のおばちゃんと内村さんのコンビネーションだからこそ生まれたこのコロッケ。
「内村さん……このコロッケめちゃくちゃ美味いです!」
無意識に僕の口から出たこの言葉に内村さんも照れているらしい。
「礼でいいわよ〜! そんな内村さんだなんて他人行儀な」
つい30分前まで他人だったんですよ礼さん! 待てよ……今も他人か。
「じゃあ、礼……さん」
「な〜に? 翔くん」
そう言って礼さんは肘をつきながら僕を見つめる。
そんな目で見つめられたら、先の件で『推し耐性』を獲得したはずの僕でもノックアウトしてしまう。
恥ずかしくなった僕は勢いよく白米をかきこんだ。
「ゲホッゲホッ……ゴホッ」
勢いよくかきこみすぎてしまった。
僕が一生懸命に胸を叩くと雄馬が水を入れてきてくれた。
爽やか男子で気がきく。これが人生勝ち組ってやつか。
「大丈夫? 水、まだいりそう?」
「大丈夫……ありがとう」
更に相手を気遣えるときた。もはや自分が惨めに思ってしまう。
「ところで翔くんはさ〜、私が何の仕事してるか知ってる?」
さっきと同じノリで喋ってはいるが、その言葉には黒い影がかかっているように思えた。
「いや、分かりません。何やってるんですか?」
「それはね〜、ヒ・ミ・ツっ!」
教えてくれないということは、何かしら知られたくない理由があるのだろう。
それに僕もファンだということは知られたくない。
なぜなら、ファンという漠然としたくくりの中に僕をいれてほしくないからだ。
今は『隣人さん』という世界でたった一つの僕しか持ち合わせていない立ち位置にいたい。
僕という人間を一人の存在として礼さんに認めてもらいたい。
これを『独占欲』というのなら、多分そういうことだ。
「ご馳走様でした! 美味しかったです。
では、自分はそろそろ部屋に戻りますね」
「え〜、もう帰っちゃうの〜? 楽しみはこれからなのに〜」
そう言いながら礼さんはビール缶を揺する。
「あっ、姉さんいつの間に……。翔も引越し初日で疲れてるんだから返してあげないと」
缶ビール一本でベロベロな酔バフ礼さんを見て、もう少しここに居たいと思った。
しかし、頭ではそう思っていても体がそろそろ限界だった。
雄馬が言うまですっかり忘れていたが、僕は今日、引越しという大行事をこなしたのだ。
僕は惜しみつつも部屋に帰り、倒れ込むように出したての布団に入った。
新品の布団と静まり返った部屋は寂しさとなって僕を襲った。
ーーチュンチュン
スズメの大合唱が耳に響く中、眠い目を擦りゆっくりと瞬きする。
「知ってる天井だ……」
目を覚ますとそこは実家だった。
たしか僕は引越しをして……隣人が推しの内村礼で……弟の雄馬と同じ大学に通う予定だったはず。
「もしかして夢オチ……?」
そう思った途端、胸を締め付けられる様な悲しさと共に大粒の涙がこぼれ落ちる。
今、考えてみれば長い長い夢を見ていたようにも思える。
「あれ待って、思い出せない……」
全てが霞のように段々と薄れていく。
忘れてはいけない。僕は衝動的にメモをとった。
だが直にペンは止まり紙に書かれていたのは『内村礼』の一言だけだ。
僕は放心状態の中カーテンを開けると、そこには青い海が広がっていた。
海……?
僕の家はドがつくほどの田舎にあり、もちろん近くに海なんてない。
ならここはどこだ。家は確かに実家で部屋の家具も間違いなく自分のものだ。
もしかしたらこれが夢なのか……。
その時、サイドテーブルに立てかけられた時計の針が目まぐるしい勢いで回り始める。
更に遠のいていく意識の中で僕を呼ぶ声がした。
その声は徐々にはっきりした美声に変わり僕は目を覚ました事を実感する。
「大丈夫? かなりうなされてたっぽいけど……」
隣を見ると礼さんが覗き込んでいる。
「大丈夫です……。ちょっと顔洗ってきますね」
そう礼さんに伝えて、僕は洗面台へと向かった。
部屋の片隅に積み上げられた段ボール。捻ってからしばらくして水を吐き出す蛇口。全てのレバーが下がったブレーカー。
僕は引越しの余韻に浸った後、ふと朝を思いかえす。
確か『引越ししたら隣人が推し』という大切なコンセプトをぶち壊すような夢を見て、朝は礼さんが起こしてくれて、洗面台で引越しの余韻に浸って……。
待てよ? 礼さんが起こしてくれた……?
僕がダッシュで部屋に戻ると礼さんが布団を三つ折りにしていた。
「な、何してるんですかっ!」
礼さんの不法侵入に対して怒っているわけではない。
むしろ推しに起こしてもらえることなんてそうないだろう。
しかしあまりにも唐突すぎて少し強い口調になってしまう。
「いや〜目覚ましたら翔くんの喚き声が聞こえてきたからさ
インターホン押しても気づいてくれないし……」
僕の呻き声、礼さんに聞かれたのか……。
「でもどうやって部屋に入ってきたんですか?」
「昨日うちに鍵、忘れていったでしょ」
そう言われてとっさにポケットに手を当てるがもちろん入っていない。
「鍵を返して欲しければうちに朝ごはんを食べにくること!
その時に返してあげるっ」
礼さんの距離の詰めかたが尋常じゃない。
これが俗にいう『天然』か……。
部屋を出ようとしていた礼さんは「それと」と振り返っってこう言った。
「このアパートの壁、かなり薄いからいろいろと気をつけてねっ!」
その忠告を受けた瞬間、分かりやすく僕の顔が熱った。
礼さんが部屋を出た後、気持ちを整えるためシャワーを浴びることにしたがーー
ーーひぇぇぇぇっ!!!!
水だ。
何故かシャワーからは滝行の如く冷たい水が降り注いだのだ。
前日、不動産からお湯が出るのを確認したと聞いていた。
それなのになぜ水しか出ないんだっ!
「う〜ん……。いいやっ! 先に礼さんのとこに向かおう……」
ぼくはシャワーに対する怒りを押し殺しながら段ボールの中の外出着を取り出した。
ふと、朝から僕の情緒がとても忙しい事に気がつく。
引越したばかりの未開の地で、知らない人に知らない匂い。
不安がある半面これから何が起きるのかというワクワク感が僕の童心をくすぐった。
こんな朝も新鮮で悪くないな……。
そんなこんなで着替えを終え隣の201号室へと向かった。
「お、お邪魔してもよろしいでしょうか……?」
僕は礼さんの部屋の扉をそっと開け、恐る恐る尋ねた。
「お、やっと来たっ! お邪魔してもよろしいですよ〜」
廊下の奥から首だけを出して、僕を揶揄しながら返事をする礼さん。
今日も推しを『直接』拝められた喜びを噛み締めながら居間へと向かった。
居間に入るとキッチンで礼さんが何かを温めていた。
この部屋の構造でキッチンと居間が繋がっておりカウンターの様になっている。
つまり居間からエプロン姿の礼さんを眺めていられるのだ。
テーブルの上には美味しそうな焼き魚とひっくり返されたお茶碗が四つずつ並べてある。
四つ……。四つ?
ここには僕と礼さんと寝室でまだ寝ている雄馬しかいないはず……。
「礼さん、一つ多くないですか?」
「あぁそれ? 大家さんの分。
そだ、大家さん起こしてきてくんない? 下の101号室だから」
手を忙しなく動かしながらも落ち着いた声色でそう言う礼さん。
頼まれたら断れない。それにここでご飯を待ってるだけなのも億劫だ。
大家さんも一緒に食事を取るのか、と思いながら玄関の扉を開け外に出た。
朝の八時でも暖かい。すっかり冬を通り越してしまったようだ。
大家さんとは一度も会ったことがなく、顔も年齢すらも知らない。唯一知ってるのは『田中あいる』という名の女性という事だけ。
大家をやっているということはそれなりにお年を召されているのだろう。
気難しい人じゃなければいいが……。
「ごめんくださーい。先日引っ越してきた202号室の栗原です〜」
「あ〜い。今開けますね」
眠い声と共に扉が開き出ててきたのはシャツが垂れ下がり、肩を露わにした下着だけの美少女だった。
お互い目を合わせしばらく絶句した。
「えっと……田中あいるさん、いるーー」
「ーー不純ですっ!!!」
僕は沈黙に耐えきれず質問してみることにしたが、聞き終わる前に力強く扉を閉められてしまった。
よっぽど下着姿を見られたのが恥ずかしかったのだろう。
だが、僕は一切不純なことはしていない。もし下着を見たことが不純だと言うのなら、不純なのは下着姿の彼女の方である。
「田中あいるさん探してるんだけど……」
「田中あいるは私ですっ! ですが私じゃありません!」
扉の向こうから怒鳴り声に近しい返事が返ってくる。
私だけど私じゃない……?
何かのキャッチコピーのようなそれは、僕の脳内CPUをもってしても意味が分からなかった。
「えっと……冗談……?」
「そんな事今言うはずないじゃないですかっ! バカッ! 不純っ!」
確かにご立腹の時に冗談を言うとは考えられない……。
それと、バカは百歩譲って良しとしよう。しかし不純は聞き捨てならない。
「えっと……歳は?」
「高校一年生の16歳です……」
小柄で低身長な姿から高校生とは思えなかった。中学生がいいとこだろう。
「田中あいるだけど田中あいるじゃないってどういう事……?」
僕が話を元に戻し、質問してみるも扉の向こうから応答はなかった。少し責めすぎたか質問をしたかもしれない。
どうしたものかと困っていると上から嫌な視線を感じた。
見上げると手すりに肘をついた礼さんがニヤニヤしながら「どう?」と聞いてきた。
「どうもこうもないですよ……。会っていきなり不純呼ばわりしてくるし、私は私じゃないとか言うし……」
礼さんが「大家さん」としか言わなかったのは僕をからかうためだったのか……。
僕は少し不貞腐れた返事をしてみた。
「翔くんも不純者認定されたかっ」
そう言ってカラカラと笑う礼さん。『翔くんも』と言うことは、他にも被害者がいるらしい。
「とりあえず、あいちゃんは支度終わったら上がっておいで〜! 朝ごはんはもうできてるから〜」
「は〜い」
元気な声と共に扉が開き、僕の顔面に直撃しそうになるのを間一髪の所でかわす。
中から出てきた『田中あいる』じゃない田中あいるは、目の前でつま先をトントンとして早々に階段を登っていった。
僕も後に続いて部屋に戻ると、寝癖がすごい雄馬が目を擦りながら机の前であぐらをかいていた。
「さて全員揃ったし朝ごはんにしますかっ!」
そう言いながら礼さんが小走りでやってきた。
「いただきまーす!」
「いただきます!」
「いただきます……」
「はい、召し上がれ」
魚と味噌汁とご飯と漬物と、決して豪華ではない朝食ではあるが僕にとっては幸せだった。
「今日もあいちゃんは可愛いね」
朝の幸せに浸っている中、いきなり雄馬があいちゃんを口説き出しお茶を吹きそうになる。
「今日も雄馬さんは不純ですねっ」
その返しに思わず笑いが吹き出てしまう。昨日の雄馬からは想像もつかない言動にギャップを感じずにはいられなかった。
それに優馬ほどのイケメンに「可愛いね」なんて言われると、どんな女子でも照れるはずだがあいちゃんは照れるどころか、そっぽを向いて少し怒っている。
「ほんと雄馬は他の女子には興味ないくせに、あいちゃんにだけはデレデレなのよね〜」
そう言いながら正面で笑う礼さん。右では少し怒っているあいちゃんに、左では少し困っている雄馬。
こんなにも情報量の多い朝食は久しぶりかもしれない。
◆◆◆◆
「あ、雑貨買いに行かなくちゃな……」
「私も行きます! 冷蔵庫も空っぽになりかけてるんで」
僕たちは朝食の後、ニュース番組を眺めながらそんな会話をしていた。この年であいちゃんが自炊するなんて少し以外だ。
「それは助かる! 僕、この辺の地理全然わかんないからさ」
僕はそう言ってあいちゃんの方に首を向ける。横顔からでも分かるその美貌に少しドキッとした。
ベランダから降り注ぐ太陽が逆光となって、その美貌により拍車をかけた。
「なら私も行く〜」
礼さんがキッチンから首だけを伸ばしてそう言った。
「じゃ、30分後に出発で」
あいちゃんがテレビを見ながら、指でオッケーマークを作ったのを横目で確認して自室へと戻った。
礼さんの部屋に居すぎたからか、自分の部屋がやけに寂しく思えた。
スマホいじって気を紛らわそうとするも、すぐに立ち上がり部屋をグルグルと回る。どうもソワソワする。
ふと時計を見ると、礼さんの部屋から出てまだ五分しかたっていなかった。
やがて部屋の中だけじゃ飽きたらず、ベランダに出て外の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
しばらく外の景色を眺めていると、春の心地いい日差しが睡眠へと誘惑してきた。隣の部屋からは微かにニュースの音が漏れ出ている。
「太陽なんかに負けるな俺っ!!!」
僕はそう言いながらほっぺを思い切り叩いた。スパァンという気持ちいい音と共に眠気は去って行った。
「礼ちゃん、栗原さん太陽と戦ってるみたいですよ?」
「男の子にはそういう時期があるのよ」
何か勘違いされてる様だが、気にせず部屋に戻った。時計を見ると約束の時間まで二十分ほどあった。
それから、時間を潰すため荷物の整理をしていると礼さんの写真集が出てきた。ペラペラとめくって見るが、これが本当に礼さんなのかと思うほど、雰囲気が違って見えた。
清楚でおしとやかな女性のように撮られているが、本当はもっと天然でおっちょこちょいだ。
「やっぱり生だと違うな〜」という、側から聞いたらかなり気持ち悪い独り言を言いながらページを捲る。
夢中になりながら写真集をめくっていると、いきなり玄関のドアが開き咄嗟に写真集を隠した。
「栗原さーん。礼ちゃんがそろそろ出るから来てくれですって!」
「わ、わかった。すぐ行く……」
僕は胸を撫で下ろしながら、段ボールに写真集を戻した。今、僕が礼さんのファンだと知られる訳にはいかない。
昨日礼さんが、仕事を隠した事や休職中なのを考えると少し嫌な予感がした。見らてもいくらでも言い訳出来るだろうが、バレないに越したことはない。
僕が外に出ると、すでに礼さんと雄馬は階段を降りていた。
「何、おどおどしてるんですか? もしかしてHな本読んでたとか〜?」
ニヤニヤした目で肘打ちをするあいちゃん。
僕は焦りの余韻で頭が回っておらず、無意識に「そうだよ」と答えてしまった。
「げっ……。やっぱり不純マンだったんですね……」
あいちゃんは虫けらを見るような目でこちらを見ながら、距離をとって階段を降りた。
「いや、これは間違いで……」
僕の言い訳には耳も貸さず、逃げるように礼さんの方へと駆け寄って行くあいちゃん。
ここに来て初めての失態。好感度は落ちるとこまで落ちてしまったようだ。
◆◆◆
「あいちゃん、出かけるのかい? 帰りにうちよっていきなっ。サービスしとくよ」
「本当ですか!? ありがとうございますっ!」
商店街を通っている時,声をかけてきたのは肉屋の太っ腹なおばあちゃんだった。僕もこのおばちゃんには初日にお世話になっている。
そこから啖呵を切ったように魚屋、八百屋、本屋、雑貨屋からあいちゃんに声がかかる。
もはや有名人の様だった。これもあいちゃんのキュートな見た目と愛嬌の賜物だろう。
ふと隣を見ると、なぜか雄馬が誇らしげに鼻を鳴らしていた。
「雄馬は関係ないだろっ」
思わず突っ込んでしまったが、雄馬は気にもかけず自慢げだ。
商店街を通り抜け桜の並木道を通る。虫に食われながらも必死に咲き誇る桜はさながら高校生の自分の様だった。
そんな感情に浸って進むと、抜けたところに大きなデパートが立たずんでいた。
「じゃ、私たちはスーパーに行ってくるわ! 雄馬は翔くんについて行ってあげてね」
「わかった。なら十二時にここ集合で」
礼さんは「はーい」と返事してあいちゃんは一階の食品売り場へと向かっていた。
僕と雄馬は二階にある百均へと向かった。デパートの百均だけあって品揃えがとても豊富だった。
買い物をしていると雄馬が手首をチョンチョンと時計を示唆した。腕時計を見ると十二時を超えていた。僕は急いで会計を済ませ、さっきの場所へと戻るとあいちゃんが帆を膨らませている。ご立腹なのは見てとれた。
「栗原さんも雄馬さんも遅いですっ!」
「ごめんごめん……! 品揃が良さすぎて百均マジックに掛かってた……」
「何ですかそれ……。それより早くお昼にしましょ! お花見しながら!」
あいちゃんは顔色をコロっと変えてデパートの入口を出る。
来た道を戻りながら花見に適した場所を探していると、途端に視界が開けた。桜に囲まれた何も無い原っぱだ。
関心そうに辺りを見渡しながら「こんなところあったんだ〜」と呟く礼さん。
あいちゃんは嬉しそうに微笑みながらレジャーシートを広げお昼の準備をしていた。
お弁当を開くと、色とりどりのおかずに大きなおにぎりがこれでもかと詰め込まれていた。
「いっただきまーす!」
引っ越してきたのが昨日とは思えないほどに長く、充実していた。初めは夢の存在だった礼さんへの対応にも慣れてきて、あまり推しだと意識しなくなっていた。
群青の空に夏を先取りしたような暖かい風が頬を撫でる。今、久しぶりに『幸せ』を自覚した。
◆◆◆
僕と雄馬は腹をさすっていた。思っていたよりも昼ごはんの量が多い……!!
せっかく作ってくれたのに残すのは勿体無い。これを全て食べなくてはという責任に駆られた結果、この有様だ。
「おねーちゃん、ボール取って〜」
遠くでドッジボールをしていた小学生から声が掛かる。礼さんではなくあいちゃんに言っているようだ。ふと、あいちゃんの横を見るとボールが転がっていた。
あいちゃんは僕の方を見ながら、自分の事を指差し首を傾げていた。それに応えるように僕は頷く。
あいちゃんが少年たちの方に向かってしばらく話した後、一緒にドッジボールを始めた。どうやら誘われたらしい。
「元気ですね、あいちゃんは」
「案外そうでもないよ……」
礼さんは微笑ましそうにあいちゃんを眺めているが、どこか影がかかっていた。
「聞いても、良いですか……?」
「もともとあいちゃんは、おばあちゃんと暮らしてたんだけど1年前に亡くなっちゃってね。それでおばあちゃんの後を継いでアパートの管理人やっているの」
「その、親とかは……?」
「一様いるにはいるよ。でもあいちゃんが小さい頃に蒸発してそれっきり」
「……」
「『アイル』って名前も、その時流行っていたゲームのキャラクターの名前らしいの。何にも名前に思い入れがなかったのよ。ただ可愛かったってだけ。それで自分の親に付けられた名前を毛嫌いしてるの……」
高校生が背負うにはあまりに重すぎる過去だ。あの時、何も考えずに攻めた質問をした自分が恨めしかった。
「それで、姉さんが『あいちゃん』っていう新しい名前をあげたんだよね」
「名前ってほどでもないよ。愛称……だね。あの子の『田中あいる』ってのは一生ついて回る。名前を呼ばれるためにあいちゃんは傷付かなくちゃならないって考えたらね……」
礼さんも呑気な性格とは裏腹にかなり悩んでいるらしい。
「商店街で、皆あいちゃんに優しかったのもーー」
「ーーそれは違う。あれは、あいちゃんの人当たりの良さよ。
だから翔くんもこれまでと同じように接してあげてね」
僕は「はい」と返事をした。しかし、これまで通り接してあげれるか正直不安だった。
何かの失言で傷つけてしまうのではないか、余計な気遣いで傷つけてしまうのではないか、そんなことが脳裏をよぎった。
礼さんがあいちゃんを呼び戻し、家へ帰ることにした。
僕は行きと同じ桜並木を歩いているはずなのに、空の群青も変わっていないはずなのに、どこか全てが色褪せて見えた。