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6/14

6眠りから覚める

無事、目覚めます!!

 文華が眠りから覚めたのは、二日後であった。

「……サラーフ。」

再度言われるまで気づかず、サラーフは自身を悔やんだ。

「お父さん。」

文華の顔をまじまじと見た。表情には問題はなく、頭を打った後遺症の心配は、きちんと調べない限りはわからないが、最低限、大丈夫だと思った。

「ハン・イクさんと、院長を、呼んできましょうか?」

かれは頭を振った。

「いや……後に、してくれんか。」

そのまま彼は黙り込んだが、ふと横を向き、病室の窓の向こうを見ていた。彼女は父の横顔を長い間見つめた。ひげは看護師にきれいにそられていて、頭髪も短く刈られていた。包帯の下の、ガーゼの当てられた部分は直視したくなかった。父は少しやせたようだった。

 ふいに、父は不思議そうな表情をして、病室の扉あたりに目をやった。彼女も振り返って扉を見たが、別段、特に変わったところはない。

「お父さん?」

父は笑みすら浮かべた。

「今、西王母が、出て行った。」

「えっ……」

父は笑ったまま、うなずく。

「私が目を覚ますまで、ずっと見守っていてくださった。」

彼女には、にわかに信じがたかった。父が、幻覚でも見たのか、と思った。いや、幻覚ではない、彼はまだ半分、夢の中なのだろうと思い直した。

「今まで、ずっと、ここに?」

父は再度うなずいた。彼女の脳裏に、中華街に小さな西王母の廟があったことが、よみがえった。「西王母。中国の女仙の名。」

その言葉に、父は少し抵抗を示した。

「西王母は、楊回様のことさ。私の遠い、遠い先祖、周の穆王・姫満とゆかりがある。どうも、もしかしたら、彼女は私たちと血がつながっているかもしれない。」

彼女の方こそ、その言葉に抵抗した。

「そんな……王家の末裔だなんて……」

彼は軽く笑った。

「みんな、そういうホラを吹くものさ。チンギス・ハーンの子孫だって、この世界にはうじゃうじゃいる。」

うじゃうじゃ、との言葉に彼女は笑った。

「はじめて笑ったな。」

と彼は言った。「サラーフが笑った。」

まるで、子供をあやすかの口調で。彼女にはそれが、たまらなく恋しかった。

「もう、お父さんったら。」

と笑い泣きをこらえて、「あたしはもう大人なのよ。」

でもやっぱり涙を見せてしまう。


 部屋の外に立って、中の様子を盗み聞いた男がいた。ロータス・ユイだった。

 廊下には他に子連れの若い母親がいた。ベンチに腰かけ、赤ん坊をあやしていた。貧しい身なりではなかったが、足元を見れば、この母親が地球出身者だとわかった。舗装された道しかない火星と、砂利やぬかるみだらけの地球とでは、履物の汚れ具合が違う。彼女は、大金をはたいてオアシス市民に加わったのだ。しかし、火星で差別されるとまでは、思いもよらなかったろう。事実、ロータスは先程まで彼女を冷ややかな目で見ていた。

(俺に敬礼もせず、ましてや〈黒衣の賢者〉の部屋の前に、地球の汚れをふりまくとは……)

と。

 一週間前、サラーフは言った。

「母は、亡くなったわ。父は、先の戦争で、戦死したと聞かされている。」

そのときには、気づかなかった。

「聞かされている」

――その言葉の、真の意味を。二人は同じ姓なのだ。二人は親子なのだ。本当の親子なのに……何か支障があって、親子ではいられないのだ。いや、俺こそ、この二人を引き裂く報せを運んできたのではないか? そう思えば、なお一層足がすくみ、部屋に入れなかった。

 彼はぼんやりと考え込んだまま、ベンチに腰掛けた。あのベンチだった。しまった、と思ったが、もう遅すぎた。恐る恐る隣の母親をうかがった。目が合った。彼女はロータスに会釈した。

 そして、彼は赤ん坊を見た。眼を見た。その時、彼の頭の中から、

「こいつは地球の子どもだ。」

という一言は消えていった。幼いその眼は、彼を捉えて離さず、彼はその眼にすいこまれていく。幼子は、そんなロータスの指をぎゅっとつかんだ。

「あら、まあ、この子ったら――」

と母親はのんびりと言った。

「いえ、いいですよ。」

とロータスは返す。なにか吹っ切れた気分――だった。

(地球人、火星人、それが一体何だというのか。このぬくもりは、同じじゃあないか。あたたかいじゃあないか――。)

周文華が地球人、という先日の総裁の言葉も何もかも、ロータスの頭からは消えてなくなっていった。

彼は母親に頭を下げ、文華の部屋へ入った。

 中にはもちろんサラーフもいた。ロータスはちらちらサラーフと文華を見比べつつ、文華に見舞いの言葉をかけた。それから、本題に入ろうと急いた。

「あの――」とサラーフにちらと眼をやった。サラーフは胸騒ぎを覚えた。ロータスは、父に何か重大なことを伝えにきたに違いない! と思った。けれども、彼女はロータスに愛想笑いを見せて、

「あたしはこのまま失礼しますね。」

と言った。

「いえ……」

と彼は言いかけ、彼女を見、彼女が視線をロータスから文華へ移すのを見た。彼女は困惑しているようだった。――父の身に関係する話ならば、聞きたい、と思っているに違いない。ロータスは彼女の視線の先の文華を振り返り、また顔を元に戻してサラーフをながめた。似ているどころじゃない……同じだ、眼が。瞳の色は灰色と褐色とで違っているが、同じまなざしを持っていた。

「サラーフさんは、居てかまいませんよ。」

また文華に向き直り、「〈黒衣の賢者〉がお許しなら。」

と告げる。文華は無言でうなずく。

 ロータスは文華の机側に椅子を持っていき、低い声で言った。

「もう俺には総裁を止めることができません。たとえ、あなたが拒否権を行使しても、もう総裁を止めることはできないでしょう。じき、開戦の決を採る総会が開かれます。周長官、行かれますか。そして、どうなさいますか。」

文華は眼をつむって、しばし思索した。

「一晩考えさせてくれ。」


 文華は、小惑星のひとつに不時着するところだった。――二十年前の自分を見ているのだと思った。これは夢であり、記憶なのだ。

 宇宙の暗黒の闇から、突如、四艇の小型機に分乗した追っ手が再び現れ、かれの乗る戦闘機に、とどめを刺そうとしていた。かれは空しくも、仲間の助けを呼ぼうとした。もはや誰も応える者はいないと判っているのに。死を遠ざける手立ては、何も、なかったのに。

 目の前を炎が包み、大きな爆発音を鳴り響かせた。視界が、血で赤く染まった。そこで初めて、自分がおびえていると気づいた。まるで自らの滅びを招く感情であるかのように思えた。必死でおびえを振り払おうとした。

 妻と娘の名を呼んだ。心の支えを求めようとした。もはや何も彼を助けることはできないのに。額から、体から、流れ出る血潮……あたたかい、と感じた。自らの最後のぬくもりを、かみしめようとした。

 鈍く灰色に光る無慈悲な小惑星へと、まっ逆さまに落ちていった。重力が引き合い、衝突し、粉々になった自分は、この天体へ還るのだ。他の兵士たちと、運命を共にし……。

 最後に、女性の名を呼んだ。

 最後の瞬間に、敵の一人が、船の噴射装置を切り替えた。文華はそれを見た。

「私を、生きたまま捕えるつもりか?」

――宙に投げ出された。敵船は、長いアームを伸ばし、彼を捕捉しようとした。文華は何もできず、その腕にゆったりと抱きとめられた。大きな鋼鉄のこぶしの中に、彼の体は一瞬消えたが、やがて、その手のひらの表面に、ほんの白く、浮かび上がった。まるで、地球の海の、波間に漂っているようだった。

 文華は強く下唇をかんだ。

「これは夢だ。」

という自分がいた。

「ここは病室だ。思い出せ。」

だが、生々しい記憶の到来にうなされる。額に、どっと汗が噴き出す。

「はあっはあっはあっ」

体の力を抜こうとあがいた。本当に、死ぬかもしれないと感じた記憶、永遠の安らぎには結局たどりつけず、熱い痛みの中、苦しみの中……。

「アーイシャ、私は、その中で、イクの名を呼んだ……」

あがき続ける。

「許してくれ……もう、しないから……」

 廊下を通りかかった女の看護師が、異変に気づき、駆けつける。

「もしもし? 大丈夫ですか? どこかお具合でも……?」

ガーゼで額の汗をぬぐってもらう。文華は補助されて身を起こす。ちらりと彼女の顔を見た。知らない顔だった。恐らく、彼が誰なのかも分かってはいないだろう。

「悪い夢だ。……すまん、水をくれ。それと、院長を……」

と彼は口走っていた。自分自身、なぜ院長の名を挙げたのか、わからなかった。

「え、院長を、ですか?」

彼はうなずく。

「あ、あと、サラーフ・周医師もだ。」

とうめいた。

 院長に報を入れたとき、テレビ電話の向こうで、明らかに挙動不審になる院長を見た。インスタント・ラーメンを、あわや取り落とすところだった。なぜなのか、わからなかった。それからサラーフ医師にも連絡を入れた。落ち着いた、というかあっさりした対応だった。今度は水をつぎに行く。その間に、呼び出された二人は七〇八号室に入っていった。

 お水が届く前に、文華は院長とサラーフに、小声で告げた。

「聞きたいことがある。」

「はい、何なりと」

と院長は恭しく承る。

「あなた達のように、ここの市民でありながら、穏健派、親地家の人は、どのくらいいるのだろうか?」

院長は少し黙った。文華は言った。「仮に、全市民が投票できるとしたら、その投票で、過半数の者が今度の戦争にノーと言えるだろうか?」

束の間、院長の眼が輝いた。だが興奮を抑えつつ、文華をたしなめようとした。

「ここの病院とて、いくら私の人選で従業員を選べるからといえど、そういう、親地家ばかりではありません。先程の看護師のように、純粋な火星人もいます。――そのような人が、この病院や、このオアシス市の大半なのです。火星全体、同盟も同じようなものです。ですが、各都市で性格が異なっているので、住民もそれぞれの居心地のよい都市に住み分けています。あなたさまがこのオアシス市を治めていらっしゃるから、ここに住みつく者だっているのです。」

「半々か……ならば、これは大きな賭けだな」

と文華は独りごちた。

「賭け……? まさか、全市民で決を採る、とか?」

とサラーフが叫んだ。

「そのつもりだ。いま全市民の投票を提案できる者は、私だけなのだから。――二十年間、都市内の気象、その他を管理してきて、ここまで登りつめたのだ。あの戦争の一番ひどい面を見てきた、あの一介の兵士が。」

文華はふと目を細める。廊下側を見ている。「お水の方か? ……お入りなさい。」

とやさしく言う。先程の看護師が顔を赤らめたまま、入ってくる。「――ありがとう。」

文華は水を受け取り、喉を鳴らして実にうまそうに飲む。院長とサラーフは当惑したように、文華と看護師を見つめる。会話を盗み聞きしていた看護師は言うまでもなく、彼女の入室を許した文華も困ったものだった。文華はしばし目をつむり、息をつく。

「私たちの話を聞かれた様子だ。」

と軽く言い、看護師にちらりと一瞥をくれる。「私が誰だか、お分かりでしょうね。」

と言って少し苦笑いをする。

「〈黒衣の賢者〉……」

彼女の目は文華に釘付けになっている。「生きておいででしたか。本当に……うれしい」

人目もはばからず、目に涙を浮かべている。院長とサラーフは、いっそう驚いて顔を見合わせた。――とうてい演技とは思えなかった。

柳井看護師は、嗚咽で声も出せなくなる。

 文華は少し経って、柳井氏が落ちついてから、こう尋ねた。

「私の頬に、火傷の跡があるのが、分かるか?」

彼女は緊張していたが、はっきりと言う。

「はい。分かります。――やはり、噂通り、火傷跡なのですね?」

「そうさ。これは、先の戦争で受けたものだ。」

柳井氏はごくりとつばを飲み込んだ。「私の同僚で、生き残った者はいない。私は生き延びた。生かされた。だから、……生かされた者として、戦争を止めなければならない。それを使命として、ここまで這い上がったのだ。」

柳井氏は勇気をふりしぼって、言った。

「そうでしたか。……私は、先の戦争で父を亡くしています。貴方と同じく、私も開戦に賛成できません。市民投票を実施すれば、多くの人が、ローラン・ユイ総裁を恐れることなく、票を入れられます。」

文華は微笑んだ。

「心強い言葉をありがとう。さっき、

『これは大きな賭けだ。』

と言ったことが気恥ずかしいくらいだ。きみ達の将来を守るために、……立ち上がるよ。」

病室のベッドの上に座っている病人が言うような言葉ではない。院長が、とっさに制止しにかかった。

「周長官、無理です。ご自分のお体の方が、大事です。」

「いや院長、ドクター・サラーフ・周が今度の総会に付き添ってくれるだけで大丈夫、ですよ。その総会に、私が行こうと、行くまいと、どっちみち長官の地位からは外されるわけですし。その時に、めいっぱい養生できますよ。ただ、戦争がないほうが、心安く養生できますね。」

その語気の強さに、言い返せる者はいなかった。


 一週間後が、総会の開催日であった。

 病院からオアシス市大会議場までタクシーに乗った。もとから高級官僚たちは、運賃は要求されない。しかし、文華は今回、黒衣を身につけず、一般人のようにふるまってタクシーに乗っていた。運転手に本性を見破られないようにも願っていた。

 総会はまたもやオアシス市での開催であった。文華の体調に配慮して、ハン・イクが上手く根回しでもしたのだろうか、というところだ。朝見たテレビのニュースでも、タクシーのラジオでも、今日の総会のこと、周長官の出席の見通し、長官の体調に関する様々な憶測、流言、飛語、何でもござれであった。総会で開戦の決議がなされる、周長官が前代未聞の拒否権を出す、周長官の進退――等々。

サラーフと文華は車内で一言も話さなかった。だが運転手は文華に気づいていた。――南区第一病院から、大会議場まで頼む客なんて、そういるものではない。そういぶかしんで、後部座席を見たら、見覚えのある顔と、頬の傷跡を持った男が、灰色の服に身を包んで乗っているのだ。

「代金は要りません。」

まじめくさった顔で運転手は言った。

「お目にかかれて光栄です、〈黒衣の賢者〉。――ローラン・ユイに、負けないでください。」と穏やかな口調ながら、エールを送った。そして、ただ握手を求めた。文華はその手を、力強く握りしめた。

 総会の出席票に、文華は前もって、サラーフ・周医師の同席と、帽子の着用を届け出ていた。院長が、頭部の保護をするように強く言ったためである。

 サラーフは不安をおし殺しながらも、周長官の隣に座り、会場内の人々を見ていた。ロータスが彼女に目配せをしてきた。しかし彼もやや緊張気味だった。彼はまだ、ローラン総裁につくか、周文華につくか決めかねていた。

 ハン・イクはサラーフの斜め前に着席した。けれども、ハン・イクは文華にもサラーフにも目もくれない。後ろ姿を見ているだけでは、ハン・イクが何を考えているか分からない。戸惑うばかりであった。

 やがて、ローラン・ユイ総裁が一同の前に姿を現した。あいかわらずきつい目で、ぎろりと皆を見やる。彼の目にも、周長官とサラーフ・周医師、そのすぐ側のハン・イク長官の姿は目に入っているはずだ。総裁の傍らにいた初老の男は、歩み進んで議長席に座った。――彼が月総裁、同盟議長のラマン・サヤ=カルワである。

 議長は

「ではお知らせした通り、地球との開戦の決議を致します。」

と告げた。

 ローラン・ユイが前に進み出て、

「議決の前に、拒否権をもつ諸君でそれを行使する者、もしくは議決方法に意見のある者は挙手せよ。」

と会場内を睨めつけた。

 周文華・オアシス市長官の手が高く挙がった。


 「周文華、拒否権を使うのか。」

と総裁は荒っぽい口調でたずねた。

「いいえ。」

と文華は落ちついた声で答えた。

 皆の目が文華に注がれている。皆の注目の的。無論、文華も承知だ。拒否権を使わない?本当に拒否権を使わないつもりなのか?

「そうではなく、わたしは、全市民に対して開戦の是非を問う投票を提案する。」

その言葉で、今まで、「彼の帽子はなんだ。」とか、「隣の若い女性医師は誰だ。」などとささやきあっていた人達も黙り込んだ。皆あっけにとられた。市民投票とは! まさかこの男の口からそんな言葉を聞くとは思ってもみなかった。名案か? 恐らく。総裁も、退けることはできまいな。

 たちまち何人もの手が挙がった。

 続いて発言した者は、文華の提案に賛成した。他の穏健派たちも、

「市民の意見を尊重するこの投票を、しないわけにはいかない。」

と次々に支持した。

 総裁は面くらった。

(何だ、この盛り上がりは……。なんで、発案者が周文華だったのか? なぜ、他の誰も思いつかなかったのか? なぜ、このわしを置いて、会議が進んでいるのだ!)

隣のサヤ=カルワ議長は、しばし総裁と参加者双方から、目をそらせた。総裁が、周長官の出した案を認めたくない気持ちは、多分に分かる。周を目の上のたんこぶにしている、それは自分も同じ思いだ。それに、総裁に逆らう危険性も、わかっている。だが、どうやら自分の力をもってしてさえも、この会議の流れを変えることはできない。周は筋が通っている。――議長は決を採るしかなかった。穏健派の誰かが提案をした日程まで含めて。

 賛成多数、反対ごくわずか、棄権一で

「市民投票」

が可決された。

サヤ=カルワは、会場の空気を、あつすぎる、と感じていた。だが今や、耳に心地よい風を受けていた。黄の紋章を胸に付けた月出身者たちが、席を立ち、自分のもとへ向かってきていた。ある考えが浮かんできていた。手招きをして、盛り上がりを見せている他の議員をよそに、月出身者たちはひそひそ何やら話し始めた。

 総会はお開きとなった。

 ハン・イクは、サラーフに支えられながら出ていく文華の背を見つめていた。話しかけることはしなかった。ハン・イクは思った。

(誰もが総裁に従わざるをえなかったあの空気を、あなたはくつがえした。拒否権を持ちながらも、それを使わずして。驚いたことに、あなたには民の声が届く。私より、火星にいる時間は短いというのに。他の人が、躊躇するあまり、実行に移せないことを、あなたは簡単に行ってしまう。)

愛している相手に、尊敬の念まで入り混じった。

 文華は、その後すぐ海麟に会うことになっていた。会議場の傍らの応接室で、待っていた。

 海麟は最近、もっぱら文華の仕事を代行していた。そのため、病院に見舞いにも行けなかった。今回海麟はいくつかの案件を抱えており、文華の助言を必要としていた。

「周長官、思ったよりもお元気そうで何よりです。」

「海麟、久しぶりだな。」

と笑顔を見せつつ、席に座る。サラーフも隣に腰を下ろす。

「長官、今回の提案、聞きましたよ。私は、あなたが拒否権で強行突破すると予想していましたが。」

と海麟はいつもより柔らかい表情を見せた。

「ふふっ、そんなことをしたら、私の首が飛ぶよ。総裁が許しはしないさ。」

「そうでしょうね。ですが、すごい反響のようです。報道陣がそこの玄関ホールまで押しかけてきています。」

「まず私が墓穴の中で息を吹き返したと思っているに違いない。」

「長官、冗談はよしてください。」

と海麟は、不吉なものを聞いたかのような、嫌な顔をした。

「では、本題に入ろう。」

と文華は苦笑しつつも言った。

 話自体は比較的簡潔に済んだ。海麟が予想していたより、てきぱきと文華は案件を処理した。

 「もし総裁が私たちに圧力をかけてきても――」

と文華はふいに言う。文華の発案を、総裁が快く思っているはずがない。のちに、何らかの沙汰が下されるに違いない。打つべき手は打つのが賢明か。「彼の私邸への電気・水道・情報はこのようにすれば、完全に遮断できる。」

隣で聞いているだけのサラーフは、背筋に悪寒を覚えた。文華の頭の内には、現代版というべき、兵糧攻めの算段がある。電気・水道・情報の遮断という……。

 海麟との会談を終え、文華とサラーフは玄関ホールへと向かった。

「サラーフ、いちおう、手を離してくれないか。大丈夫。一人で歩ける。」

文華は報道陣をひどく気にしていた。サラーフに支えられた姿など、見られては、どんなに書き立てられるか、否が応でも思い浮かんでしまい、きりがない。サラーフは言われるままにした。

 まぶしいばかりのシャッターの閃きと想像を超えた大勢の人が二人を待ちうけた。サラ―フは思わず顔を覆った。文華はその中へ、片手を掲げて、にこやかに進んでいった。

「私から離れてはいけない!」

と父はサラーフに叫んだ。それだけ中国語だったので、彼女にだけ通じた。彼女は走って父についていった。

 まるで無数のフラッシュから、文華の背で守られているかのようだった。彼の背は大きく、サラーフは安心感を覚えた。

 文華の前に十数本のマイクが差し出されるが、彼は無言のまま、記者たちを見回し、だしぬけに体の向きを変え、人ごみを縫って進んだ。記者たちは、あたふたと二人についていった。スターを報道陣が取り巻く、という定型には、もはや戻れそうもなく、手がつけられなかった。

「〈黒衣の賢者〉、今回の……市民投票は……」

とあらぬ声でひっきりなしに叫び続けていた。

 文華は、ある記者を探していた。――まだ三十代半ばと思われる新進気鋭のフリーランスの記者だが、かつて一度文華に会いに来ていた。文華は、

(この中に必ずいるはずだ)

と確信していた。その男は、数年前から、文華の前半生に興味があると言っていた。しかし文華は、その記者に対し、

「まだきみに話すべき時ではない」

と突っぱねていたのだった。


登場人物が増えてきましたね。汗

まとめると、以下の感じです。


主な登場人物

 サラーフ・S・チョウ (地球出身・~二五歳)

   女性医師。実の父の消息を追う。

 周文華 (地球出身・名義上は小惑星帯出身・~五0歳)

   火星で、とある地位についている。

 海麟 (火星出身・五五歳)

   退役軍人で、文華のもとで働く。負い目を感じて生きる。

 ハン・イク  (火星出身・四九歳・日本名は半田郁)

   美貌の政治家。地球への留学経験がある。

 ローラン・ユイ (火星出身・六0歳・火星総裁)

   富と地位、権力の持ち主。

 ロータス・ユイ (月出身・二七歳)

   ローラン・ユイの一人息子。ローランに認知されるまで、文華に育てられる。

 サイイド・ハサン=アブダラ (地球出身・八三歳)

   サラーフの母方の祖父。

 レイ・ブラックストーン・シニア (故人) と

 レイ・ブラックストーン・ジュニア (火星出身・三〇歳)

   親子二代で周文華に付きまとう記者。

 アーイシャ (五二歳)

   サラーフの母。従兄のアブマリクと再婚した。

 

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