5大きく動く
再び父と娘の場面から。
「地球に帰ってきてください、お父さん。」
「それはできない。」
父は、嘘をついた。うつむいて顔を隠そうとしたものだから、なおさら嘘っぽく見える。
「話をする相手を間違えている。私は、周文華じゃない。」
「じゃあ、父に伝えて下さい。……今のことを」
サラーフはつばを飲み込む。父の心が揺れ動いているのが分かった。
「お願いいたします。そして、ありがとうございました。」
彼女は頭を下げた。ここできっぱりと立ち去ろう。涙を見せずに、すがすがしく別れよう。
「さようなら。」
そう言おうとした。が、言えなかった。
「ひとつだけ、聞いていいか?」
「――はい。」
彼女は振り返った。
父の背中に木漏れ日が差している。
「誰の意思でここにやってきた?」
サラーフは慎重に答えねばならなかった。
「あたし自身の意思で。でも、祖父に費用を負担してもらいました。それだけじゃありません。手続きは、ハン・イクさんに――」
「わかった。」
父は呆れたように言った。「ハン・イク……彼女の名がここで出てくるとはな。」
その夜、文華は遅くになっても帰ってこなかった。
サラーフは気をもんだ。父と夕食をとる約束をしていた。再会を記念し、今までの親子の溝を埋め合わすため。そして父を地球に帰るよう説得するため。
それに、家には見知らぬ客人がひとり、夕方から文華を待ち続けている。若い男だった。一目見ただけでは、どの民族の血が混ざっているのか分からない青年だった。髪は赤茶色く、肌はやや小麦色。彫りはあまり深くないが、さわやかな顔立ちをしていた。男は名を、ロータス・ユイといった。
「ユイ総裁の、息子さん?」
と彼女はいぶかしそうである。地球でも、火星のローラン・ユイ総裁は有名であった。
「そうでもある。れっきとしたローラン・ユイの後継者だ。」やけにもったいぶった口調で彼は話した。「だが同時に、ここの周長官にもたいへん世話になった。ところで、あなたこそ誰だ? 廊下に、医者の荷物が置かれていたが……」
「そう、医者よ。サラーフ・S=周といいますの。」
「サラーフさん。いつからここに出入りなさっている?」
「本日からです。」
「そうか。で、彼の問診はしたのか?」
ロータスは語気を強めた。
「いえ、まだなんです。あの、何かご存知なのですか。」
ロータスは自らの胸の辺りをつかんだ。
「彼はここが悪いんだ。おい、気づいていたか?」
とがめるような眼差しに、ひるんでしまいそうでもあった。
「いえ。でも、道理で……」
父は、地球に帰れないと言った。心臓が悪ければ当然、重力や移動の問題が生じてくる。悔しさと涙がこみ上げてきた。
「長官は、どこかの病院でみてもらったことはないのですか?」
「恐らく行っていない。ハン・イクさんが一度、南区第一病院の院長をすすめたそうだが、行っていないようだ。」
彼女は思わず、息をのんだ。
「南区第一? あたしの勤めている病院だわ。」
ハン・イクに紹介されて勤めている病院だった。
「なるほど。それで、ハン・イクさんがきみを寄こしたのか。だが会議が終わってだいぶ経つ。もう帰ってきてもよい頃では……」
日付の変更とともに、雨になる、と市政府から達しが出ている。雨の管理も文華の仕事の一部であった。
「ところで、あなたと周長官はどういう関係なんです?」
サラーフは尋ねた。ロータスは、珍しいものを見るように彼女を凝視した。
「知らないのか? 長官は俺の父親みたいな存在だ。俺は孤児だった。本当の母親はもう死んじまっていない。実の父親にも長いこと認知されていなかった。だから、周長官が俺を引き取って育てた。総裁が、本当の父親だ。だが、好きじゃない。」
「どうして?」
「考え方が違うんだ。今日の会議でさえ、意見が分かれた。俺は予算を、内政の方に……教育とか福祉とか研究費に充てるべきだと言った。だが総裁は、軍事費に、と言った。周長官は、俺の側についてくれたけれど、駄目だ。我々は、人数が少なかった。ハン・イクさんは、中立だったし……」
とロータスはうなだれた。「総裁に言わせれば、俺は彼の息子で、つまり彼の後継だから、もっとそれらしく、無難にしてもらいたいんだ……。総裁の言うことは絶対だ。俺はもう逆らえない……」一瞬、言葉を途切らせた。「ところで、サラーフさん、あなたのご両親は?」
「母は、亡くなったわ。父は、先の戦争で、戦死したと聞かされている。」
ロータスは赤面した。
「すまない。いけないことを聞いてしまった……。でも、確か、あなたと、ここの家の人は、同じ姓だ。血がつながっているかもしれない。」
「ええ。そうだといいわ。……ただ」
父はきっとサラーフを娘だと認めても、他言はするなと厳しく戒めるだろう。
「うん。帰ってこないな。そう言えば今日、長官がハン・イクさんといるところを見たんだ。もしかしたら、どこかに泊まる気かもしれない。」
「え、泊まる? あ、そうか。」
ロータスは慌ててかぶりを振った。
「いや、よそう。俺でもあの二人のことは何ともいえない。」
その時、玄関の戸が激しく叩かれた。
サラーフとロータスは玄関へと急いだ。
「誰かいるのだろう? 誰か!」
と言う声がした。父の声ではなかった。サラーフにはなじみのない男の声だった。ロータスはぴんときた。
「海麟さん!」
とロータスは叫んだ。戸を開けるなり、きいた。「海麟さん! 何か? 俺ですけど」
「ロータスか。」
と海麟は、ロータスの顔を見るなり、少し表情を和らげた。しかしすぐに元のきりりと引き締まった表情に戻して、「ロータス、救急車を呼んでくれ。そこの角で、周長官が気を失われた。」
「発作か?」
とロータスが答える暇なく、サラーフが追いついて、すぐさま指示を出した。
「海麟さん、でしたっけ? 周長官はどこ? ――あたしはサラーフ・周といいます。医者です。彼のところに連れて行ってください。」
それから彼女はロータスに向かって、「ロータス、電話をして。」
と指示を出す。
サラーフと海麟は、すぐさま外の暗闇に飛び出した。
「あちらです。」
と海麟が雨の中を導く。ぬかるみに足がすくわれそうになる。
「ここです。」
暗くてよく見えない。文華は、気を失って、倒れているようだった。サラーフはすぐわきにしゃがみこんで、――手探りをして文華の口元に、耳を近づけた。
「息はあります。ですが、倒れたときに、頭を打ちましたね。出血しています。」
彼女は文華の頭を手で支え、ついで、海麟に交代した。彼女は肩と首だけで傘を差しながら、布を裂き始めた。
サラーフはてきぱきと止血を行い、つぎにそっと頭部側面に触れ、骨の様子を確かめていた。文華の脈をとって、発作はすでに治まっているのも確認した。
海麟にとって、文華の娘、サラーフに実際に会うのは初めてだった。海麟は次第に冷静さを取り戻していって、状況を的確につかみとっていた。彼女が文華を助けてくれる、と直感した。彼女の腕に任せよう。この若い医師に。
そのうち救急車が狭い小中華街の路に、半ば突き刺さるかの感じで、停車した。
「到着したぞ!」
とロータスが声を張り上げた。
文華のからだはストレッチャーに横たえられた。サラーフは、
「あたしが付き添いますからね。長官、しっかり!」
と文華の耳にささやきかけ、「お二人がたは、ひとまず残っていてください。あとで来てください。」
と、海麟とロータスに告げ、文華の同乗者として、医師として、救急車に乗り込んだ。
目が覚めると、いつの間にか明るくなっていた。サラーフは、まぶたをこすり、まわりを見まわした。病院の一部屋だった。慌ててがばり、と起きあがった。
隣には、ハン・イクが、まだ意識が戻らない父のベッドに上体を投げ出して眠っている。
サラーフは、ハン・イクのことをあまり知らない。父とどういう関係にあるのか、なぜ、火星に来たのか。
ハン・イクと話がしたかった。いや、それより、父にも聞きたい話が山ほどあるのに……。
夜が明ける前、処置を終えた院長とサラーフのもとに、ハン・イクが姿を現した。ロータスが彼女をわざわざ呼びだしたのだと思った。ハン・イクは、院長に
「お久しぶりです。地火友好学院のよしみで、色々お世話をかけました。サラーフ・周医師の件と、もう手遅れかもしれませんが、周文華長官の病の件で。……」
などと挨拶をした。
「いえいえ、周長官は、頭部の外傷のほうが、大変でしたが。……」
と、院長は返答した。
ハン・イクはさらにサラーフに向かっても、
「サラーフ。はじめまして。……ありがとう。文華さんの命を、お父様のことを助けていただいて。……私たち、こんな時に会ってしまって。あとで、ゆっくりお話できるといいわ。」
などと言った。
院長に対しては、文華の容態説明のあと、ハン・イクはこう告げた。
「長官としての敬称を伏せ、彼を一般の患者として待遇してください。」
その一言が、一体どのように影響するのか、まだサラーフには分からなかった。ハン・イクの頭の中では、いつも、政治情勢のあやがつむぎとられ、新たに編まれている。
ハン・イクは、ストレッチャーで運ばれてきた文華の手を握ることさえした。
(あたしが来るまでは、二人は寄り添って生きてきたのか。たとい共に住んでいなくても、あまり会うことがなくても、地球を想う者同士、そして、火星の首脳部に在りながら。)
サラーフは眠っている二人を見守り続けた。イクと父とは、固い絆で結ばれている。肩の荷は、あまりにも重く、二人にのしかかっていた……。イクは二十年間、父をどのように支え続けてきたのだろうか。
父は昏々と眠り続け、ハン・イクは昼時までに起きあがった。イクには疲労が色濃くみうけられた。半ば放心し、憂いに満ちた目で、父を見つめていた。サラーフなどいないも同然だった。サラーフはもどかしくなった。
「手を、握ってやってください。」
イクは、はっとサラーフの顔を見た。頬を赤くして、
「でも、私は……」
と言いかけた。だが思い直して、文華の手を握った。
「父は、頑固ですね。」
サラーフは文華をひたと見つめながら、言った。「イクさんや、ロータスさんが、父の体を気遣って、何度も忠告していたのに、病院に行かなかった。」
イクは目に手をやった。
「ええ……この人は、強情っ張りよ。こんなに、心配をかけて、……仕事だけは熱心で……私が代わってあげられたのに、私に迷惑はかけられないからって……」
イクは鼻をすすった。
サラーフは、唐突に、
「安心しました。」
とつぶやいた。
「え」
とイク。
「父が、火星で一人ぽっちじゃなくて。あなたのような、父を大切に思ってくれている人がいてくれて、良かったです。」
イクは特に何も言わなかった。だがサラーフの言葉を、全身で受け止めていた。
「ありがとう……。」
イクは辛うじて、言った。
「こちらこそ。あたしを、火星に呼び寄せて下さって、ありがとうございます。知っていました……イクさんがあたしを、父のもとに導いてくれたことを……。でも、今はむしろ、あなたに会えて良かった、そう、思っています。」
――あなたは、火星にいるもう一人の母なのです。
という言葉が込み上げてきた。だがサラーフは言わなかった。のどが詰まって言うことができなかった。
ローラン・ユイ総裁に文華の容態が伝えられた。
「ほう? 倒れたとは聞いていたが……ふむ。心臓をわずらっていたとはな。それに頭蓋骨折の手術をしたか。」
ローラン・ユイ総裁は、ふかふかのソファでふんぞり返っていた。息子ロータスと似た容貌だが、いくぶん目つきは鋭く、髪は真っ白に近かった。
「復帰はどうなるかな?」
とぼんやりつぶやく。あまり心配していない様子だ。
「さあ……分かりません。なにしろ眠ってばかりいるもので。あれ以来、まだ本人とは話していません。」
と告げると、総裁はそっぽを向いて、何か考えているようだった。
「同情したいところだが……わしはこの前、周と意見が分かれた。それに、今は彼を殺めたという嫌な噂まで立てられている。それに……ハン・イクがな……
『あの人は、誰よりも能力があるのに、その能力を発揮していない。自分の器量が、他人に分からないようにするためなのよ。』といったのだ。あのハン・イクさえもねたましく思うほどに、
『あの人は、先が読める。』
といった。そして彼女は周がわしの地位を脅かす存在だと警告しに来たんだ。わしはそれ以来、周のポストを下げることばかり考えてきた。――今は、その絶好の機会だ。」
「けれど……なぜ? 周長官は市民から慕われていますよ。――総裁が、彼を利用していればいいのでは?」
「ロータス、もう一遍言ってみろ。お前は知らないんだ。内閣一致の原則、つまり首脳陣の拒否権があるのだ。これから軍拡、さらに開戦を控えているというのに、わしとは反対意見を唱え、拒否権を発動するはずだ。」
「はたしてそうでしょうか。周長官は戦争への拒否権を使うでしょうか。軍拡には相当の予算が必要ですから彼はそれには反対でしょうが、戦争そのものに拒否権を出すでしょうか。これ以上軍拡はしないで、今のままで戦争をはじめても、こちらに勝ち目はあります。勝てば、周長官の望む研究費うんぬんも手に入りますよ。そう言えば、きっと彼も納得するはず。」
「少しは柔軟になったな、ロータス。」
と総裁は不気味な微笑を浮かべた。「だが、お前はまだ甘い。わしは周を心底嫌っている。奴がお前を立派に育てたことをおいても、わしは好かん。奴が人気なのも、聞きずてならない。」
ロータスは背筋がぞくりと冷えた。
「殺してはなりません。」
ロータスはきっぱりと告げた。手が震えていた。彼を総裁はギロリとにらみつけた。
「知らないのか。わしには確信がある。奴は地球人だ。」
ロータスは、聞こえていないと思った。
「殺してはなりません。降格もよしてください。周長官は私利私欲を考えず、身を粉にして市民に尽くしています。そのために市民から慕われています。殺すことも降格も、無理でしょう。」
「黙れ! オアシス市長官の役目は、ハン・イクと劉海麟がやってくれる。問題ない。お前、聞こえていないのか?〈黒衣の賢者〉は、地球人なのだぞ?」
「信じません。彼は小惑星帯出身者ではありませんか。」
とロータスは突っぱねた。
「たわけ! とにかくわしの命令を守れ!」
「市民を顧みないあなた様の信頼は落ちるばかり……」
とうなる。総裁はいっそう冷ややかな視線を投げかけて、
「たとえ実の息子であっても、逆らう者には、これぞ。」
銃をロータスの左耳に当てる。ロータスは出かかった言葉をのみこんだ。
(何のための政治か、市民なしでの政治は……)
歯がゆかった。
部屋から息子を追い出した後、総裁は、一人、窓に向かって立ち、夜景を見つめた。おもむろにグラスと瓶を取り出し、
「この美しき眺めに乾杯!」
そう一言叫び、喉を鳴らして赤ワインを飲み干し、しばらく外を見つめ続けていた。ほどよい酔い加減であった。
「ハッ!誰もが、わしをあざけるだろう!〈黒衣の賢者〉、周文華をこの世から消しても、あのひとの心は、決して、彼からわしのもとへと向かわない。それを、知っていながら……」
彼はもう一杯つぎ足した。グビリとやる。
「ウイ、誰にも言えやしない。酒が無けりゃ、わし自身にも言えないわい! イクが好きだ……だなんて!」
足元に酒瓶が転がっている。それに左足を引っかけ、彼は体勢を崩した。たちまち床に倒れこんだ。
「周文華! 我が恋の宿敵!」
寝そべったまま叫び続ける。
「思い知るがいい、我が力を! ウハハハハハ……」
怪しげな笑い声は、しばらく響き渡った。
この展開は、レッドクリフの見過ぎかな、と思います。