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3父かもしれない

父の自宅を探し当てます。

誰かの足音が聞こえて、サラーフは、はっと息を止めた。


そのまま動くこともできず、その男の人が、茂みの中に隠れている彼女に気づかず、通り過ぎてしまうよう、願った。


彼女は何も持っていない、住所をメモした紙も、地図も。

地図を取り込んでこなかったなんて、なんて馬鹿なんだろう!


路地はひっそりと静まりかえっていて、表通りの喧騒とは一線を画していた。空気は動かず、見上げると少し雲の浮かんでいる日であった。


そこは緑豊かな一角だった。すぐそばに湖が迫っているのがわかる。波音がかすかに聞こえてくるし、市街地より光は明るかった。


車の入らないその路地の、どの家にも表札はない。だから困っていた。


――父の家が、わからないではないか。


けれども、あえて誰かに尋ねようとも思わない。ただ父の姿が見たかった。自分のことを分かってくれなくてもよかった。


父のもとへ向かって歩いているのだという実感はあった。この星で育った人ならきっと異様だとも思える、地球めいた一角だから。


足元に土がある。木と、コンクリートの地面との隙間に、わずかな土がある。その土が、とても懐かしいものに感じられた。


視界の隅に、水平線が見え隠れする。今歩いてきた地面が、湖の前に途切れるとき、父の家が現れるのだと、そう信じた。


彼女は白壁の家を想像した。窓は地中海に面した家のように、細長く小さいのだろうと思った。


この緑生い茂る路地のどこかに住む父にあてて、一昨年前に手紙を書いた。


返事はとうとうなかった。はじめから期待もしていなかったが。


不確かな住所であったし、それに――父は相当高い地位につき、過去を伏せている。

彼女の手紙に見向きするはずはないのだ。


サラーフは茂みの後ろで立ち尽くしていた。

足音の主は齢五十歳程度の東洋人の男性だった。


いい年をした男の人が、かすかにうなる模型飛行機を飛ばして、見上げている。


飛行機はブウン、と茂みのわきをかすめた。彼女はヒヤリとした。やがて飛行機は石畳の上に静かに着地した。


「まだ改良の余地があるな。」


男は呟いた。中国語だった。

サラーフははじめて、男をまじまじと見た。


男は地面にかがんで、模型飛行機を拾い上げた。白いシャツではなく着物を、それも膝下まですその長いものを男は身にまとっていた。その服が似合う、すらりとした体躯、仙人のように頭の後ろで小さく結った黒髪、器量よしで、こぎれいな身なりだが、生き生きとしたいたずら好きそうな目と、この突飛な行動が、男を子供っぽく見せてしまう。


彼女の足元で、カチャンと何かが倒れ、音を立てた。しまった。

あわてて飛びのいた。茂みの向こうに、目を丸くした男が立っていた。


周文華は、彼女の顔に見覚えがあった。

昨年、彼女は手紙と写真を送ってきた。


よくも届いたものだ、と感嘆せざるをえない曖昧な住所しか書かれていなかった。

写真は見た。だが、手紙を受け取ろうとしなかった。海麟に強くうながされるまで。


娘に恨まれていないか、嫌われていないか、彼は不安だった。海麟は、そっと告げた。


「お読みください。あなたは、娘さんに対して何もやましいことはないのです。彼女がどう思っていても、あなたは彼女と別れたくはなかったし、見捨てたのでもありません」


その娘が今まさに、目の前に立っていた。


「你好。你在找谁? (誰かお尋ねですかな?)」


なぜかそんな言葉しか、とっさに出てこなかった。しかも、中国語は彼女には通じなかった。


文華は少し肩をすくめ、英語で言い直した。


サラーフは、相手が当の本人だとは気付いていない様子だった。

彼女は訊いた。


「周文華さんは、この辺りにお住まいですか」


文華は言った。


「その名前、あまり言わないほうがいい。だって周長官の本名でしょう?」


男はいきなり腰をかがめた。茂みの脇の、サラーフが倒してしまった小さな植木鉢を起こした。そうやって、顔を隠そうともした。


「手伝います。あたしが倒したのですから」

「うん。これはお隣さんのだから、元通りにせねば」


二人はひと通り、こぼれた土をかき集めて、鉢へ戻した。


「あの飛行機は?」

「趣味でね。――そこの湖で飛ばしているんだ」

と言いながら。


この人は悪い人という感じはしない。英語には中国語なまりがあったが、十分聞き取れる。それより、高めのいい声をしていると思った。


親近感を抱きつつ、

「あの、実はあたしはよその星から来たばかりで、その、まだここの地理には不慣れです」

と白状し、困っているような表情を見せた。


実際、彼女は困っていた。


「そうか、だから〈黒衣の賢者〉のことも知らないのか。火星人はみなそう呼ぶけどな」


男は快活そうに笑った。黒衣の賢者って何? とも一瞬、いぶかしく思ったが、

「あの、あたし、親戚なんです。」

とあわてて言い足した。


「じゃあ、きみも彼と同じく、小惑星帯から来たんだな?」

「ええ、まあ……」


サラーフは口ごもった。


やがて文華は立ち上がり、

「じゃあね、私はうちに入るよ。彼の家も、このすぐ近くだ。」

と飛行機を抱えて、彼女に背中を向けて歩き出した。彼女は彼のうなじを見た。着物の衿に、隠れてよく見えないが、火傷跡のようなものがあった。


父かもしれない、と思った瞬間だった。


「あの! ありがとうございます。見ず知らずのあたしに、いろいろ親切にして下さって」

「――親切?」

と言いながら振り返って、サラーフを見た。


「親切じゃないよ。あまり……」


男は当惑した顔を向けた。

サラーフは、大きくかぶりを振った。


「お忙しい中、こんなあたしのような者にまで、親切に、時間をとって下さって……!」


男は少し困った表情を見せていた。それからうつむいて、ぼんやりそこに立ち止まった。


「まだまだきみに言っていないことがある。きみから届いた手紙のこと。きみが周長官の別宅の目の前にいること」

「目の前?」

「そう。目の前。このちっぽけな家だ」


「このちっぽけな家が、長官の別宅だ」

と文華は言い、サラーフは上を見上げた。


周りの家と変わりない、細長い三階建ての古い、中洋折衷の家。これが父の常用としている家であり、皆が知るあの周文華長官のお気に入りの家、ひっそりと暮らす場所であった。


男はつぶやいた。


「手紙を返せなかったのは、ただ、誰かに盗み見られたくなかったからだ。」


サラーフは、ふいに涙が出た。


――手紙の返事は求めていなかった。ようやく、父の近くに来られた。父が彼女を嫌っていないことも分かった。そして、父と娘という形に収まることができないのは、二人のせいではないことも分かった。


この人は、父だ。


父でないのなら、こんな感情はわきあがらない。この――彼女を不意に幼女にさせてしまう、懐かしさに満ちた気遣いが、たまらなく切なくて。なんだか、もろいもので。


「分かっていました。手紙のことです。分かっています。けれども……納得できない。あたしは、なんて、身の程知らずなのでしょう。でも理想を描いてみたいのです。お許しください……」


それから彼女は、文華に向かって告げた。


「地球に帰ってきてください。お父さん」


文華はすぐには答えなかった。人違いだよ、と言えたら、どんなにか良かったろう! 



ただのひとりごと(次話のちょっとネタバレ) → 海麟と文華との関係性を妄想してしまいます。笑

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